第96話
「なんか聞こえるか?」
「わかんないです……」
「理事長先生の声はしますけど……」
「ミチル先輩、だいじょぶっすかね……?」
「ウイーンから親が来るなんて、かなりやばいぞ」
「太陽先輩、何も処分がなきゃいいけれど……」
「興津先生もよ、知ってて黙ってたんだから……」
「軽音楽部、やめさせられちゃうのかな……」
「あーもう、まだるっこしい……中に入れたらなあ……」
理事長室の分厚い扉に軽音楽部員たちはびったりと耳をくっつけて、中の様子をうかがいながらひそひそとささやいて言葉を交わす。
中には天竜の他、現場にいた興津と、十人ほどのSPをたった三人でのしてしまった藁科と大井に瀬戸、襲われたミチルと太陽にミチルの両親と、中に連れられていく時点ですっかりしなびたリンゴのように生気を失っていた好親、そして彼を拘束している警官がひとりいる。
好親の連れてきたSPたちはすでに警察が連行し、あれだけの大騒ぎが起こったにも関わらず、夜の帳も下りた校内は水を打ったように静まり返っていた。
「……さて、菊川さん。あなたがどんなお立場の人であろうとも、うちは生徒の安全が第一なのでね。今回のように勝手に校内に入ってきたうえ、生徒に危害や恐怖を与えるような真似はご遠慮いただきたいんですよ。このことについて、何か反論はございますかな?」
天竜の厳しい口調に、ひとりがけ用のソファの上でうつむいたまま、好親は答える気配がない。
「……よろしい。では、話し合いが終わるまでは、ここにいていただきましょうか」
彼はそう言うと藁科に目配せをし、逃げ出さないよう警官と一緒に側につける。
そして、ふう、と息をつき、今度はミチルに目をやった。
「君はこの場できちんと、ご両親とお話をしなさい。どうも、私が以前聞いていた内容とは、随分と双方の見解に乖離と行き違いがあるようだからね。今後のことも含めて、全部正直に話すんだよ」
「……はい」
天竜の言葉にしっかりとうなずいて、ミチルは背筋を伸ばし、広い机を挟んで向かいに座る両親と相対する。
その凛とした顔つきになにか感じるものがあったのか、二人がかすかに身をすくませるのを、壁際に並んで立っていた太陽と興津たちは見た。
先に口火を切ったのは両親の方だった。
「……ミチルちゃん、あなた華道部か茶道部に入るってお約束したでしょう? どうしてロックバンドなんて、はしたないことをしてるの? しかも、好親さんのような立派な男性を差し置いて、こんな粗野な男の子と付き合うなんて、お母様は悲しいわ。好親さんが可哀想でしょう」
太陽の方をちらりと蔑むような目で見ると、ミチルの母は芝居がかった仕草で頬に手を当ててため息をつく。
初対面の人間にいきなり侮辱され、ぐっと拳を握った太陽の腕を、興津が軽く叩いてなだめた。
「まったくだ。君のお祖父様がどれだけ手塩にかけて、君を良いお嫁さんになるように育てたと思ってるんだ。どこの馬の骨かもわからない男に、傷物にされちゃたまらないね……お母様の地元とはいえ、やっぱりこんな田舎の高校なんかにやるんじゃなかったよ。騙された気分だ」
『こんな田舎の高校』という単語を聞いた天竜がにわかに殺気立ったのを教員たちは感じたが、ミチルの父はそれに気づかず、黒革のソファにふんぞり返って先を続ける。
「ミチルさん。君は今日限りでここを退学して、明日にはウイーンに発つんだ。やはり、君のお祖父様の言っていた通り、君にはそれがいちばん幸せな生き方なんだよ。オーストリアに渡ったらそのまま私たちと暮らして、十八になったら好親君を呼んで向こうで式を上げたらいい。わかったら、今夜中に荷物をまとめるんだ、いいね?」
その言葉にミチルがうなずくのを見てしまうのが怖くて、太陽はぎゅっと目を瞑った。
ばん、とテーブルを勢いよく叩く音がして、その暗闇はあっという間に元に戻った。
「いいもんですか!! 二人とも、状況を無視して思い込みで勝手なことばかり言わないで!!」
怒りに声を震わせたミチルが、噛みつくような目で、仰天した顔の両親を睨んでいる。
娘に圧され、父親が声を裏返らせながら反論を試みる。
「さ、逆らうんじゃない、いいか、君はお祖父様の言われたとおりに……」
「何が『お祖父様の言われたとおり』よ、あなた達はご自分の意見というものがないの!?」
茶托の上の湯呑がひっくり返るような勢いで立ち上がり、爛々と燃えた目で自分たちに食って掛かってきた娘に、両親は完全に腰が引けた。
「だいたい、学校にSPまで連れて無理やり押し入ってきた好親さんのどこが立派だと言うの? 無関係な生徒を怯えさせて、先生方にとんでもないご迷惑をおかけして、これから警察に連れて行かれる人のどこが立派ですって!?……お父様、お母様、お二人ともいい大人なんだから、都合の悪いことを無視して適当に話をしないでちょうだい!! こんな人が菊川財閥の総帥だなんて、恥さらし以外の何ものでもないわ!!!」
燃えカスのようになった好親を指差して、ミチルは猛烈な勢いでまくしたてる。
「お父様もお母様も、わたくしの話なんて全然聞いて下さらないから、好親さんにわたくしが小さい頃から何をされてきたか全くご存知ないでしょう? この人は最低よ! 二十も年下のわたしを、ウシガエルを持って泣き叫ぶまで追いかけたり、しょっちゅうスカート捲りしようとしてきたり、大事にしていたお人形にマジックでいやらしい落書きをしたり、飼っていたお魚の水槽にタバコの灰を入れて殺してしまったり、お風呂やトイレに入っていたらわざとドアを開けられそうになったり、もう数えきれない……! 寝ようと思って部屋に入ったら、ベッドの中で裸で待ち伏せされてたことだってあったのよ!!? お二人が日本にいない間、わたくしがどれだけこの人に嫌な思いをさせられて、ひどい目や危ない目に遭いそうだったと思うの!!! わたくし、こんな品性下劣で厚顔無恥で残酷な人でなしのロリコン中年男と結婚なんて、絶対にお断りよ!!!」
「えっ……」
「それは本当か、好親くん!?」
どうやら初耳だったらしい話に、ミチルの両親の顔色が変わる。
好親はうなだれたまま答えないが、その沈黙が肯定を表していることは自明だった。
後から後から湧いてくる嫌な記憶にヒステリックになったミチルの怒りは収まらない。
「どうせお祖父さまのことだから知ってて黙ってたのよ!!! いつだって、『お前が我慢すればいいだけだ』だの、『結婚するんだから当たり前』だの言って、わたくしのことをかばってくれなかったもの!!! そんな人の言うことにどれだけの価値があって、なんの意味があるというの!!?」
彼女は少しだけ呼吸を整え、もう一度両親を睨み直して先を続ける。
「わたくしが好親さんに嫌がらせをされるその度に、わたくしを守って、慰めてくださったのは、お祖母様だけなのよ? それをあなた達二人はいつもいつも『演奏旅行で忙しい』って言い訳して、ろくにお話もしないで逃げてばっかり……! ご病気になられてしまった後も、亡くなられるまで片手の指で足りる程度しかお見舞いに来なかったじゃないの!!!」
いよいよ凄まじい剣幕で怒鳴り始めたミチルに、部屋の中の誰もが言葉を失う。
「お二人は、親としてあまりにも無責任だわ!!! 帰国したって、わたくしときちんとお話したことなんてない上に、わたくしの訴えを何ひとつ真面目に聞いてくれなかった!! あなたたちはわたくしを育てるのが面倒くさいから、お祖父様の言うことだけ聞いて、何かあったらお祖父様のせいにしてしまえばいいって思って、何が正しくて何が間違ってるかなんて考えもせずに、ずうっとお祖父様の言う通りにわたくしを幼稚園からエスカレーターで放置しておける学校に放り込んで、自分たちの好きなことだけして遊び暮らしてきたのよ!!? わたくしの親であることをサボって逃げてきたあなたたちに、わたくしの将来をどうこう言う権利なんて一切ないわ!!!」
今まで見たことのないミチルの姿にただひたすらうろたえる太陽の眼前で、その言葉に天竜が秘かにうんうん、とうなずき、興津たち教員も心の中で拍手を贈る。
長年鬱積していた感情が大爆発している彼女を止める者は、もうこの場にはいなかった。
ミチルは、きっ、と父親に鋭い目線を投げつける。
「お父様。本来なら財閥を継がなければいけないのはあなたなのよ? それをお祖父様に甘やかされて、経済学なんて勉強してないからってひどい言い訳をして、伯父様を無理矢理婿入りさせて全部丸投げして、音大首席でもないくせにチェリストってだけで偉そうにふんぞり返って、ちょっと演奏でミスしたら、反省も練習もしないでお酒ばっかり飲んで……! お父様の生き方はなんて格好が悪いの!! 今さら財閥なんて継がなくってもいいわ、でも演奏家なら演奏家らしく、音楽に対しては真面目に真剣に取り組んで見せたらどうなの!!!」
「なっ……み、ミチルさん、それはだね……」
「言い訳なんて聞きたくありません!! みっともない!!!」
反論する隙を父親に与えないまま、ミチルは矛先を母親に向けた。
「お母様だって最低よ、わたくしを産むだけ産んでお祖母様とばあやたちに何もかも押し付けて、行事の日にはお友達と旅行だって言って逃げて、運動会にも発表会にも授業公開にも一度も来なかったじゃないの!! しかも、たまーに日本に帰ってきてわたくしと話をしたと思ったら、アフィリエイトだらけのブログに改行ばかりのスッカスカな文章書いて良い母アピールして、SNSに自撮り投稿して自己顕示欲満たして、それでおしまいじゃない!!! わたくしはブランドのバッグやアクセサリーと同列の扱いしか受けてないのよ、子供を自分のことをよく見せるためだけの道具にするなんて、それを母親と呼べて!!?」
「待って、ミチルちゃん、お母様は……」
「待ちません!! ご自分たちの都合が悪くなったときだけ、こうやって出てきて両親ヅラして、何がお父様お母様よ!!!!」
怒りで周りに火花が散っているかのような錯覚さえ起きるミチルの居姿に、理事長室は呼吸の音すら聞こえないほど静まり返る。
「いいこと? わたくしはもう、あなたたちの思い通りになんて絶対にならないわ! 大っ嫌いな好親さんと結婚なんて死んでもしない。ウイーンにも行かないし東京にも帰らない。この学校も、軽音楽部も、絶対やめない! わたくしはお祖母様が生まれ育ったこの街で、太陽先輩とずうっと一緒に暮らすのよ!! あなたたちにも好親さんにも、誰にも邪魔はさせない!!!」
はあ、はあ、と肩で息をしながら、なおも両親を睨みつけるミチルを流石に見かねて、
「……菊川、少し落ち着きなさい。とりあえず座って」
興津が声をかけると、彼女はそちらを少しだけ見遣り、最大の深呼吸をしてから腰掛けた。
「……なんか、ミチルちゃんが、めちゃくちゃキレてる声がする……」
「親子喧嘩かしら……」
「あんな声出るんだねぇ」
「何言ってるかよくわからんけど、すごい迫力だ……」
扉の外の軽音楽部員たちも、ミチルの声色だけで圧倒されていた。
少しだけ落ち着きを取り戻し、両親の言葉を反芻したミチルが、また口を開く。
「お二人共、取り消していただきます。太陽先輩は粗野な人なんかじゃありません。とても高潔で、誠実で、そして勇敢で真面目で、本当に優しい方です。……ここに入学したばかりの頃、男の先生にセクハラをされて、自由に校内を移動できなくなったことがありました。そのとき、真っ先にボディガードを買って出てくださったのが先輩です。その先生に触られそうになった時も、身を挺して庇って、わたくしから退けてくださいました。そんな方のことを、お二人ともよく知りもしないで、なんてひどい仰りようをされるの? 人を見る目がなさすぎです」
その言葉を聞かされている間、ずっと顔を赤らめて汗をかいている太陽を尻目に、地の底から響くような怒りを込めた低い声で、ミチルは再び両親に詰め寄った。
「今日だって、好親さんとSPの方々に襲われそうになったとき、太陽先輩は真っ先に竹刀を封じられました。……先輩は剣道の有段者です。武器があれば有利なはずなのに、決してそれを使わず、多勢に無勢でも諦めずに、徒手空拳でわたくしを守ろうとしてくださいました。そして、何よりもわたくしの身を案じてくださった。何度もわたくしに、逃げろとおっしゃってくださいました。……でも、わたくしは好親さんがどんな人かよく知っています。絶対に置いて逃げるわけにはいきませんでした」
「……」
もはや言い返す言葉もなく、ミチルの両親は彼女の話を黙って聞くだけになっている。
「好親さんがわたくしたちに何を言ったか、教えて差し上げましょうか?『子供だからって容赦するな、大人の怖さを思い知らせてやれ』。……ねえ、お父様、お母様。わたくしは、高校生相手にこんなことが言える人と将来結婚しなければいけない方がいるのかと思うと、その方がとてもお可哀想でたまらなくて、力いっぱい止めて差し上げたくなるわ」
黙りこくってうつむいてしまった母の隣で、父は顔を両手で覆って、はあ、と大きなため息を付きながら下を向く。
怒りが静まってきたのか、ミチルは少しずつ、淡々とした口調になっていく。
「お父様、お母様。わたくしの目から見れば、あなた方はお二人とも、とてもずるい大人です。本当はやらなければならないことを放り出して好き勝手生きて、自分が負わなければいけないはずの責任を何もかも他の人になすりつけて、その享楽的な生き方の後始末を全て、わたくしの人生にレールを敷いて、人間らしい未来を奪うという形で押し付けて、良い親のフリをしている。……わたしはあなた方の尻拭いをするために生まれたわけではありません。『菊川ミチル』という、ひとりの人間として、幸せに生きるために生まれてきたんです。お祖母様が、ご自分のお辛かった昔のお話をされるたびに、わたしにそう生きろと仰ってくださいました」
ミチルは少しの間だけ長い瞬きをし、言葉を静かに紡ぎだす。
「わたしを財閥のための道具ではなく、人間として見てくださったのは、お祖母様だけでした。そのお祖母様は亡くなるまで『自分を大事に』『自由に生きなさい』とわたくしに仰ってくださった。……部活動のこと、嘘をついていたことは謝ります。でも、わたしはあなた方のような無責任な大人の言う事よりも、わたしを気にかけ、大切にしてくださった方の言葉を胸に生きていきたい。……わたしは人間です。あなた方の都合通りに動く操り人形ではありません。だから、あなた方とではなく、お祖母様とのお約束を守ります」
話をしながら、ミチルの両目からはぼろぼろと涙がこぼれ始める。
「わたしはこの街が好きです。優しいお祖母様の生まれ育ったこの街で、大切な人たちと暮らして、これからもみんなと一緒にいたいんです。……それに、わたしは部活で、やっと本当のお友達が出来ました。本音でお話が出来て、大声で一緒に笑えて、悲しいことがあったら一緒に泣ける。尊敬できる先生にも出会えましたし、……誰よりも大切にしたい方にも巡り逢えました」
彼女の言葉に、思わず太陽は身じろぎしてしまう。
そして続けて、
「それでもウイーンに連れていくというなら、わたしは駆け落ちでも何でもします」
「かっ……!?」
ミチルの口からとんでもない言葉が飛び出してきて、彼は思わず復唱しそうになる。
その隣で、両親のことが頭をよぎった興津も、ついびくりと身体をすくませてしまった。
「!……駆け落ちだけは駄目よ、ミチルちゃん。お願いだからやめて頂戴」
「そうだ、それだけは絶対に駄目だ!」
両親は大慌てて娘の発言を止める。そして、
「……私達が悪かった、君の言うとおりだ、ミチルさん。返す言葉もないよ」
すっかり目が覚めた父親は、素直に娘に頭を下げる。
「私もよ、日本にいない間、あなたがお義姉様一家と上手くやっていると思いこんで……まさか、そんな怖い目に遭っていただなんて、私はあなたの話を、ちゃんと聞きもしないで……」
上等なシルクのハンカチを白い蛇革のクラッチバッグから出して、母親は目元を拭った。
妻の身体をさすりつつ、ミチルの父は警官と藁科に見張られている好親に冷酷な目を向ける。
「好親くん、警察のお世話にまでなってしまっては、このままでは世間に示しがつかないから、君には今日明日にも総帥を下りてもらうことになるだろう。それに、今までの話が全て本当ならば、今後一切、君を娘に近づける訳にはいかない。重役会議で、どこか海外の支社へ転属にしてもらうよ」
ミチルの父の言葉に、言い逃れの出来なくなった好親はただ一段と深くうなだれるだけだった。
「当たり前だが、婚約も解消だ。もともとお父様が亡くなった時点で、そんな口約束はなかったことにするべきだったんだ。君の外面の良さを見抜けないまま、死んだ人間の言葉に踊らされていた我々がいけなかった。……娘に叱られて目が覚めるなんて、情けないな」
そう言ってため息をつくと、傍らの妻を気遣いつつ、ミチルの父は壁際に神妙な面持ちで立っている太陽を見た。
「君、名前は?」
「うえっ!? えっ、あっはい、し、島田、太陽ですっ」
突然話しかけられて、太陽は声が思い切り裏返る。
「島田君か。先ほどは、何も知らずに君を侮辱してしまい、大変失礼をした。お許し願いたい」
「あなたがミチルちゃんを守ってくれなかったら、どうなっていたか……ごめんなさいね」
正直に非を認めて頭を下げたミチルの両親に、
「いや、あの、い、いいです、全っ然、気にしてませんからっ!」
太陽は両手をぶんぶんと顔の前で振って、大袈裟に恐縮する。
姿勢を正して椅子に掛け直したミチルの父が、太陽の切れ長な目をじっと見る。
「娘は随分、君を頼りにしているようだね。これからもよろしく頼むよ」
「ミチルちゃんのこと、お願いね」
よく見ればミチルに似ている二人の顔を同時に眺めながら、
「……はい」
太陽が返事をすると、ミチルは立ち上がって嬉しそうに微笑みながら、彼の前に立つ。
先ほどまで鬼のような剣幕で怒っていたのと同一人物とは思えない、いつも通りの見るたびにどきどきする愛らしい笑顔に、
(……これからは絶対、怒らせないようにしよ……)
心密かにそう思いつつ、太陽もようやく力の抜けた笑みを返した。
「お話はよろしいですかな?」
天竜が全員に声をかける。そして、
「さーて、軽音楽部の諸君、そこにいるんだろう? 君っちも入ってきなさい」
半分笑いながら、ドアの外にいる軽音楽部員たちに呼びかけた。
「うああ、バレてた!」
「どうする? お兄ちゃん……」
「呼ばれたからには行くしかないねぇ……」
くるみたちは首をすくめ、そっと理事長室の扉を手前に引く。
「まったく……友達思いなのはいいっけえが、立ち聞きはだめだよ。以後改めなさい」
瀬戸にやんわりと叱られ、室内に足を踏み入れたくるみたちはばつが悪そうに笑った。
「あの、理事長先生。菊川さんはどうなるんですか?」
隆玄がかしこまった口調で問うと、天竜はにっこりと笑って答える。
「どうもしないよ。今まで通りこの学校に通って、君たちと一緒に部活動をする」
それを聞いた部員たちは喜びに湧く。
「ミチルちゃん、よかったあ!」
「ホント、連れて行かれちゃったらどうしようって思ってたのよ!」
くるみと祐華はミチルをぎゅうぎゅう抱きしめながら、泣いてしまいそうな勢いではしゃぐ。
「あはは、お二人とも、嬉しいですけど、ちょっと痛いですって!」
泣き笑いしながら、ミチルも彼女たちの腕に手を回す。
「太陽先輩も、なんにも処分はないですか?」
心配そうな敦哉に、
「あるわけがないよ。島田君は、危険を顧みずに身を挺して菊川さんを助けようとしたんだ、表彰してあげてもいいくらいだっけやあ」
天竜はそう言ってからからと笑った。
「そうですか……」
紗雪がほっと肩の力を抜き、笑顔を浮かべる。
「太陽くん、良かったな」
政宗が安堵の表情で太陽の背を叩く。
「ありがとう、政宗くん。……ていうか、みんな、こんな遅くまでここにいていいの?」
「え?」
そう言われて全員が時計を見ると、針はもうすぐ夜の八時を指そうとしている。
「「うわやっべ、予備校始まってんじゃん!!!」」
「や、やだ、お母さんにチャットするの忘れてた!」
「うああ、お父さんとお兄ちゃんから鬼のような着信が!!!」
「……あちゃー、門限過ぎちゃった……」
「これは家に帰っても、晩ごはん残ってないなあ……アハハ……」
「ヒイイ――――――!!!! おじいちゃんにどちゃくそ怒られる―――――!!!!」
慌てふためく部員たちを見て、
「……まさか、誰も家に連絡してないのか!?」
顔を真っ青にした興津は、全員の家に電話をするために理事長室を飛び出していく。
「ははは、相変わらずにぎやかでいいねえ、軽音楽部は」
実に愉快といった風情の天竜に、大井と瀬戸、そして藁科は顔を見合わせて苦笑した。
「ねえ、ミチルちゃん、やっぱりどうしてもウイーンには来ないの? ここにも負けないくらい、とってもきれいな街なのよ。音楽だって好きなだけ続けられるわ」
タクシーを待つ間、校門の前で太陽と並んで立つミチルに、まだ少しだけ諦めきれない様子で母が念押しをするが、彼女は首を横に振る。
「行きません。わたしはこの学校の軽音楽部で、みんなと一緒に演奏して、好きな歌を歌って、客席のみなさんとめいっぱい盛り上がりたいんです。それに、ステージの後に飲むメロンソーダの味が大好きなの」
「まあ……」
これまで与えたことのなかった飲み物の名前に、母が口元を抑える。
ミチルはしっかりとした眼差しで、両親を見上げて微笑み、言葉を続けた。
「お父様、お母様、わたしはここを卒業したら、東京の音大に行きたいです。お二人が小さい頃からわたしに習わせてくださった、ピアノとバイオリンと、それからエレクトーンの先生になって、この街の子供に音楽を教えたいと思っています」
娘の真剣な声色に、ミチルの父と母は、親の顔で耳を傾ける。
「……音楽はどこにいたって、やろうと思えば出来るんですよ。ヨーロッパだけが音楽の街ではありません。日本だってアフリカだって南極だって、世界のどこにでも、音楽は溢れてる」
そう言って微笑んだ娘に両親は顔を見合わせ、わずかな間の後、納得したようにうなずいた。
「わかったよ。ミチルさんの夢を、私達はこれから全力で応援しよう」
「どんなことも協力は惜しまないから、遠慮しないで言ってちょうだいね」
「はい」
ミチルがうなずくと、そこにタクシーが滑り込んできて、ドアが開いた。
「身体には気をつけるんだよ」
「お勉強もしっかりね」
二人はタクシーの窓から、太陽に寄り添う娘に手を振る。
「はい。お父様とお母様も、お気をつけて」
両親に手を振り返すミチルの隣で、太陽は走り去るタクシーに頭を下げて見送った。
空港に向かう大きな道の方に曲がっていった車を見送ると、二人は揃って大きなため息を吐き、そのタイミングの良さに顔を見合わせて笑う。
「あー、腹減った……ミチルの手作り餃子、食べ損なっちゃったなあ」
伸びをしながら少しだけ残念そうに太陽が言うと、ミチルは申し訳無さそうにうつむく。
「ごめんなさい、わたしの身内が滅茶苦茶なことをしてしまったから……」
「いいよ、また今度作って。楽しみにしてる」
優しい言葉とともに頭を撫でられて、ミチルはぽっと頬を染める。
そのいつも通りの仕草に太陽も肩の力を抜くと、しみじみと、そして心底嬉しそうにつぶやく。
「……よかった、これで晴れて、ミチルは自由の身になったんだ。これからは何でも出来るし、どこにだって行ける。……俺の願い事もかなったよ」
「え……」
驚いて自分を見上げたミチルに、太陽は向き直ってにこりと微笑む。
「君が東京からこの街に逃げてきたんだって気がついたときから、ずっと、俺が絶対に安全なところまで逃がしてやるんだって思ってたからさ。いや、まあ、俺が出る幕なんて結局なかったし、駆け落ちなんて言い出したときにはさすがに焦ったけれど、……もしも君が本気だったら、俺はそうしてたと思うよ」
「先輩……」
彼の真剣な眼差しと柔らかな笑顔にきゅっと痛んだ胸を、彼女は握りこぶしで押さえる。
その握った手を、彼はその上から自分の大きな硬い手のひらで包み込む。
「ここにいてくれてよかった。離ればなれになるんじゃないかって、ずっと怖かったから」
湿気の多い風に重く揺れる崩れた巻き髪を、彼は愛おしげに指を絡めて弄ぶ。
そして、小さなため息をつくと、白い街灯の光が足元に描く漆黒の影に目線を落とした。
「でも、これで俺んちに泊まる必要がなくなったの、ちょっと寂しいな。三日間だけだったけどさ、すごく楽しかったし、毎日一緒にいられて、嬉しかったもんでさ」
彼はそう言うと、眉根を寄せて寂しげに顔を曇らせる。
「もしも寂しくなったら、また遊びにおいでよ。瑠菜も君ともっと話したいって言ってたし、父さんっちも、君のこと、すごく気に入ってるでね」
彼は笑顔を作るが、すぐにそれを崩して、アスファルトに跳ね返るLEDが照らす、月明かりのない夏の夜空を見上げる。
「……ほんと、毎日ヒヤヒヤだったけど、楽しかったね。一緒に飯食って、学校行って、稽古の後に、二人で文化祭の曲セッションして、眠くなるまでいっぱい話をして……なんかさ、柄にもなく、こんな毎日が、これからもずーっと、……年をとっても、ずっと続けばいいのになんてさ、思っちゃったっけ……」
寂しげに目を伏せたその表情がますます胸に痛くて、ミチルは衝動に駆られるまま彼の腕の中に飛び込み、生ぬるい夜風に汗ばんだ首筋に腕を回し、軽くかかとを上げる。
「……ミチル、どした?」
これまでされたことのない行為にどぎまぎしながら、彼は彼女の背中に腕を回し、その小さな身体を支える。
「あの、……今度は先輩が、わたしの家に泊まりに来てください」
「え、……」
「自分の言ったこと、嘘のままにしておきたくないんです……」
ミチルの腕は柔らかな感触を伴って、蔦のように彼の首に絡みつく。
彼女の発した言葉の意味するところにすぐ思い至り、太陽は種々の感情をぐっと押さえつけながら、どうにか否定の動作をする。
「……だめだよ……俺たちまだ、高校生なんだから……」
「でも、先輩が大学に行ってしまわれたら、こんなに近くにいられる時間はなくなる……」
そう言ってもう少しだけ背伸びをしたミチルの澄んだ黒茶色の瞳は、静かで強い決意を帯びて、太陽の黒檀の目を射抜いていた。
「お願い、先輩……わたし、先輩と離れたくない……もっと近くにいたいの。あなたが遠くに行っても寂しくならないように、あなたのことを何もかも、知って、感じて、覚えておきたいの……」
くだけた言葉で素直に甘えるミチルに、あっという間に彼の牙城は崩されてしまった。
こちらを見る長いまつげの丸い目が伏せられた後、太陽はまだ一瞬だけその誘惑に抗うが、破裂しそうな心音に溶け去った理性を振り切ると、目を固く瞑り、息を止めて、柔らかく唇同士を重ねる。
学校の周りを覆う木々の若い葉が、海のにおいと雨のにおいが混ざる濡れた風に、ざあっ、と静やかに揺れた。
優しく触れ合うだけのくちづけの余韻に浸りつつ、互いの身体に腕を回す。
ミチルが洩らしたかすかに震える吐息に、太陽の脳髄は焼け焦げるような熱を持った。
「……甘くないんですね、キスって……」
照れ隠しにミチルが口にした感想が自分と全く一緒で、思わず小さく吹き出す。
「……俺も同じこと思ってたよ」
二人は、汗に互いの素肌が張り付く身体で抱き合いながら、くすくすと笑った。
その時、遠目に見えたヘッドライトに母の運転する軽自動車の輪郭が見えた気がして、
「あ、迎えが来たかも」
太陽がそう言うと、ミチルは慌てて身体を離して隣に立つ。
「ねえ、ミチル。……後でまた、おやすみの前にもしよっか。……今度は、甘い味がしそうなのを」
彼が風の音に紛れてそう声をかけると、肩に寄り添う小さな頭がうなずいた気配がした。




