第94話
太陽の家から最も近い、凛子の実家である、街一番の大きな神社の前。
ミチルの家で働いている二人の女性から、軽音楽部員たちは着替えや楽器といった、彼女の荷物を受け取る。
「好親様はまだ、こちらにお見えになってはおりませんが、今朝方、お嬢様あてにお電話がございました。本日は終日ご不在だと申し上げておきましたが、動画のことをご存知なのは確実でございます。好親様がこちらにいらっしゃるのも、旦那様と奥様がご帰国されるのも、もはや時間の問題でございましょう」
年配だが背筋がしゃんと伸びた上品な着物姿の女性が、真面目な顔で語る。
「私共は、こちらへいらしてからのお嬢様のお変わり様に、大変喜んでおります。東京にいらした頃よりも、とてもいきいきして、お幸せそうでいらっしゃる。……私共はお嬢様の味方でございます。お力になれることがございましたら、なんなりとお申し付けください」
その隣で、今度は眼鏡を掛けたスーツ姿の若い女性が口を開く。
「どなたのお宅でお世話になるかは知らないほうが良いでしょう。我々も人間ですから、うっかりですとか、無理矢理喋らされてしまうことがないとも限りません。万一の際はそのほうが時間も稼げます」
二人の後ろに立っている、背が高く筋骨隆々とした、いつも運転手を勤めている男性が、
「……お嬢様を、よろしくお願い致します」
そう言って頭を下げると、前の二人もそれに倣う。
それを見た軽音楽部員たちも、慌てて頭を下げた。
三人の乗った車が神社の前から動き出すと、
「……すごいっすね、ばあやとか運転手なんて、アニメでしか見たことないっすよ」
凛子が本心からのため息をつく。
「あの人達がずっと黙っててくれたから、ミチルちゃんはこの街で暮らせてたんだなぁ……自分っちの立場だってあるだろうに、それよりもミチルちゃんの幸せを思って……」
隆玄が低い声で、しみじみと呟いた。
「お手伝いさんたち、大変なことにならないといいけれど……」
交差点を曲がる黒い軽ワゴンを、紗雪が心配そうに見送る。
「……さて、荷物は受け取ったし、早いとこ太陽先輩の家に戻りましょうか」
二人から受け取った水色のスポーツバッグを肩からかけた敦哉が、みんなを促す。
「そうね。……真っ直ぐ帰るより、少し遠回りしたほうがいいかしら?」
不審な車や人影がないか、祐華があたりをきょろきょろと見回す。
「いっそ二手に分かれるか?」
政宗の鶴の一声に彼らはうなずくと、神社の前をばらばらと左右に分かれて歩き始めた。
太陽が申し出た島田家への一時避難を、ミチルは瑠菜や他の部員に推されるまま受け入れた。
興津はさすがに立場上止めようとしたが、太陽だけだったら問題になり得るが瑠菜もいるのだから、と部員たちから至極強烈な説得を受けたことと、何よりも事情を知った太陽と瑠菜の両親がそれを快諾したことにより、諸手を挙げてとは言えないが了承することとなった。
「先生、学校の方はどうでしたか?」
客間から離れた場所で、やはり休日出勤して校内にいた職員に電話を済ませて戻ってきた興津に、太陽と今後の方針について話していたくるみは、畳から立ち上がって問う。
「直接、理事長先生とお話したよ。島田のご両親の許可もあるし、自宅にいると連れ去りの危険があるから、生徒の身の安全のためということで問題ないそうだ。ただし、不純異性交遊はしないように、という条件付きでね」
「「ふっ……!?」」
その単語を聞いた途端に、くるみは先程のミチルに負けないほど顔を赤くし、太陽は飲もうとして持ち上げた緑茶のグラスを取り落とす。
「わっ、やっべ!」
「うああ、大変! るなぴパイセン、台拭きくださーい!!」
慌てて台所に駆けていくくるみを横目に見つつ、太陽と興津は顔を見合わせる。
(……父さんと母さんみたいだ)
ふと、以前聞かされた自分の両親の話が興津の脳裏をよぎり、太陽とミチルに重なる。
(駆け落ち、なんてこんにならなきゃええけど……いや、まさか。そんな時代錯誤なこんもないだろう、僕の家族を基準にすんな)
彼は頭の中で慌てて首を横に振り、
(そうなる前になんとかするのが僕の仕事だ。菊川のご両親が出てきたら、説得を手伝おう)
そう心に決めて、座卓の上にあったティッシュ箱から四、五枚取って、太陽に渡す。
「島田、ほら、先にこれでなんとかしなさい」
「あーあー、もう……まったく、突然変なこん言わないでくださいよ、先生」
ティッシュを受け取り、太陽はびたびたになった座卓と畳を拭く。
「私じゃない。文句は理事長先生に言ってくれ」
二人は互いに苦笑しながら、その場をきれいに片付ける。
「……でも、頼んだぞ、島田。話を聞いた限りでは、随分と強引な人のようだからな。学校の中にいる限りは我々も手を貸せるが、一歩外に出たらそうもいかなくなる。買って出たからには、君に任せるよ。剣道部の方も大変かもしれないが、菊川の力になってやってくれ」
「はい」
興津の言葉に、太陽は力強くうなずく。
「ただし、絶対に暴力沙汰は起こすな。万一のときは職員室か警察に駆け込め」
「大丈夫です、心得てますよ」
肩をすくめて笑う太陽に、興津も内心の不安を押し殺して、浅い笑みを返した。
「そうそう、左手は猫の手。……うん、いーかんじいーかんじ」
「……」
年式が少し古いシステムキッチンで、真剣な表情のミチルは瑠菜と並んで包丁を握っている。
「やっぱ今まで、あんまりお料理したこんないんだ?」
「は、はい……お恥ずかしいことですが……」
一年でいちばん日が長い時期のまばゆい日差しが、明かり取りの窓から差し込んで、おぼつかないミチルの手元をほとんど無意味な蛍光灯と一緒に照らす。
軽音楽部員たちが荷物を取りに行っている間、ミチルと瑠菜は今日の昼食の支度を始めていた。
その提案を受けたミチルが、卵を焼けば炭になり、汁物を作れば鍋が焦げ、米を炊いてもおかゆになるのだという話をすると、瑠菜は腹を抱えて笑った後、自分が料理の基礎から仕込んでやろうと意気込み、先程からつきっきりで台所に立っている。
「ぱいせ……」
そこに台拭きを取りに来たくるみは、思わず声をかけるのをためらう。
逆光になった二人の様子はさながら本物の姉妹のようだった。
(邪魔しちゃ悪いかな)
彼女は小さく笑うと、食卓にあった台拭きをそっと手に取って、その場を後にした。
「それにしても、お嬢様っていうのも大変だね。なんとなーくしか知らなかったけどさ、マジで自由がないんだなーって」
「いえ……たぶん、わたしの家が少し特殊なだけです。ほかのご家庭は、もっとのびのびしている方ばかりでしたし……」
きれいに刻んだみょうがを皿に入れ、手際よくトマトを八つ切りにする瑠菜の隣で、ミチルは拙い手付きでゆっくりときゅうりを薄切りにしている。
「音楽もクラシックしか聴けないなんて、あたしだったら絶対ストレスで死んでるよ。こんなに音楽が溢れてる世の中でそんなの押し付けるなんて、拷問ってやつじゃない?」
「ええ。……本当に、羨ましかったです」
ミチルはふっと息をつくと、少しだけ手を止めて先を続ける。
「音楽だけじゃありません。みんなが見ている変身ヒロインのアニメも、お笑い番組も、動画サイトも、何もかもわたしだけが置いてけぼりで、話題についていけなくて、……東京にいる間、本当に仲の良いお友達なんていませんでした。学校の後も、みんなは公園で遊ぶ約束をしたり、お友達の家に行ったりするのに、わたしはすぐに習い事に連れて行かれて、家に帰れば宿題と予習復習をして、後はお風呂と食事と寝るだけ。……わたしの人生は一体何のためにあるのか、どうして生きているのか……十歳になる前から、そんな事ばかり考えていました」
「うわ、それはしんどいねー……なんか話聞いてるだけで窮屈になってきたっけ」
「そうですね、とても窮屈でした。着る服も髪型も決められて、わたしが思い通りにできることは本当に少なかったです」
「ちょえ、髪型まで!? マ!?」
ディープブルーのカラーコンタクトの目を見開いて、瑠菜が仰天した。
「はい。この街に来てから、初めて髪を二つに結ったんです。Tシャツもサンダルもデニムも、膝上のミニスカートも、厚底ブーツも、全部こっちに来てから買いました」
「いやいやいや、ツインテもさせてもらえないとか、異次元レベルの話なんですけど!? こっわ、まじこっわ……」
驚愕して手が止まってしまった瑠菜に、ミチルは苦笑する。
「……お祖母様がいなかったら、わたしは自分の人生をもっと早い段階で諦めていたかも知れません。ご自分のほうがわたしよりずっとお辛い思いをされてきたのに、ご病気になられてからも、くじけそうになったり泣いたりするたびに、わたしを励ましてくださった……」
「そっか……ちるみーが、今ここでこうしてられるのは、おばあちゃんのおかげなんだね」
太陽によく似た瑠菜の笑顔に、ミチルはにじみそうだった涙を飲み込んでから微笑み返す。
「はい。この街に来なければ、電車の乗り方も、券売機の使い方も知らなかったと思います」
「あははは! さすがにそれは知っとこうよ?」
瑠菜の明るい笑い声につられて、ミチルも声を上げて笑った。
「さて……今度は君の番だ、牧之原」
「はい……」
客間に戻ってきたくるみを見て、興津は腕組みをしてため息をつく。
「しばらく伊達眼鏡して、髪も切るか縛るかしたら、どうにかごまかせるんじゃないかな?」
「うああ、やっぱそうなりますよね……めんどくさ……でも命には代えられないか……」
太陽の提案に、くるみは興津の隣に座りながらがっくりと肩を落とす。
「眼鏡は帰りにお父さんに買ってもらうとして、髪、切るのはやだなあ……でも、編むのもすぐにばらばらになっちゃうから苦手だし……」
深いため息をつきながら、艶のある黒髪をひと束つまんだくるみに、
「……いいんじゃないか、似合ってたよ、おさげ髪。三つ編みでもしてみたらどうかな?」
いつぞやスーパーで行き合ったときのざっくりと編んだ髪を思い出して、興津が微笑む。
「え、……そ、そうですか……それじゃ、ちょっとやってみよっかな……」
かああ、と頬が赤くなり、くるみはもじもじと指を動かしながら、余分に汗をかき始める。
その様の愛らしさに思わず興津がくすりと笑うと、
「……なんでくるみちゃんのおさげ姿なんて知ってるんですか、先生?」
「えっ!? あ、……いや、まあ、……どうでもいいだろう、そんなこん」
太陽の鋭い疑問が飛んできて、彼の方は冷や汗をかく羽目に陥った。
ややあって、
「ただいまー」
「ミチルちゃん、荷物もらってきたわよ」
「はー、暑かったー」
炎天下の中、荷物を受け取りに行った部員たちが、がやがやと玄関から入ってくる。
「みんなおかえりー、今からそうめん茹でて、冷や汁も作るから、ちょっとまっててねー」
廊下の奥から瑠菜の元気な声が聞こえてくる。
「先生もお昼食べてって下さい、せっかくですから」
「いや、悪いよ、いくらなんでも」
太陽の誘いを興津はそう言って断ろうと立ち上がりかけるが、
「いーや、もう回転寿司っていう前科がありますからね、今更遠慮はなしです」
上から肩を押されて座布団にもう一度腰を下ろす。
「先生、ガリガリアイス買ってきたんでどうぞ。コーラとソーダ、お好きな方取って下さい」
追い打ちをかけるように、紗雪がにこにこと買い物袋を座卓の上に広げて出す。
「先輩たちも、溶けないうちに食べてくださいね」
「わあ、いいの? ありがとう! じゃあわたし、ソーダ!」
意気揚々とくるみは袋の中に手を伸ばす。
「先生もソーダにしますか?」
振り向いた彼女の無邪気な笑顔に、彼もついに肩肘張るのを止めて、笑いながらうなずいた。




