第124話
「すごいヘドバンだったわ……」
「お兄ちゃんといい勝負だよ」
「いや、俺もあそこまではやってないぞ」
紘輝たちの後に演奏したヴィジュアル系バンドのファンの、ゴスロリ少女たちの凄まじいノリに圧倒されたまま、一番うしろの壁に寄りかかって、くるみたちはステージを眺めていた。
「下田さん、こんな凄まじいライブに毎週来てるんだ……エネルギー消費すごいだろうなあ」
「これじゃあ成績も下がるわね、疲れちゃって勉強なんてできなくなるでしょ」
「好きなことがあるのはとても良いことだとは思いますが、本業が疎かになるのは良くないですよね……」
同じクラスの実夢の席次が毎回学年最下位な上、学校に来た日はホームルームからすでに眠そうにしているのを思い出し、くるみたちは苦笑する。
「わざわざ地方から毎週遠征に来るなんて、よっぽどそのバンドのこと好きなんだろうな」
「バンドと言うよりも、遠征そのものが好きなんじゃないかしら。親子二代でバンギャらしいですから、きっとそこは筋金入りだと思いますよ」
慎に相槌を打ちながら、祐華は二杯目に頼んだ乳酸飲料のソーダ割りを一口飲む。
「そういえば夏休み前の体育の授業のとき、大井先生に手の甲に縫い付けてたリボン外せって怒られてたなあ……あれ、いつか破けて、そこらじゅう血まみれになるんじゃないかって、見るたんびにヒヤヒヤするよ」
「ボディステッチっていうんでしたよね。あれはわたしも正直苦手です……」
くるみとミチルはその光景を思い出し、頬を引きつらせる。
「だから二人とも、そういう痛い話は止めてって……俺泣いちゃうよ?」
「りゅーげん、お前ほんと医者になるのやめたら?」
くるみたちの会話が耳に入って怯える隆玄に、太陽が呆れ声を返す。
「話聞いてると、そのうちタトゥーでも入れそうだな、その子」
「いやあ、さすがにそれは一発退学っすから……でも卒業したらしそうっすね……」
一杯目に頼んだグレナデン・トニックをようやく飲み終えた政宗の隣で、ゴスロリ少女たちとは対照的にクラシカルな白いロリータワンピース姿の凛子が苦笑する。
「そういえば、森くんとソフィアちゃんは?」
壁際に姿の見えない二人を探して、きょろきょろと紗雪があたりを見回す。
「二人とも前の方で見たいって言ってたから、向こうにいるんじゃないかな?」
「まーじで? モッシュとかで潰されてなきゃいいけど」
「あはは、一応、翔琉は元サッカー部なんだし、フィジカルは心配しなくても大丈夫でしょ。松崎さんもこういうの得意そうだし」
「それもそうか」
敦哉と隆玄の会話に部員たちは和やかに笑いながら、次のバンドのセッティングが始まったステージを見遣った。
(だめだ、死ぬ……ここにいたら死んでしまう……)
最前列に陣取ったはいいものの、後ろからバンギャたちの凄まじい圧がかかり、身体よりも精神的に参った翔琉は這々の体で後ろに撤退する。
(もっと近くで手元が見たいんだけどなあ……なかなかいい位置ってないもんだな)
オペラグラスでも持ってくればよかったかとさえ思うほど、翔琉はとにかくギタリスト達の手元を見ることに執着していた。
(オレはもっと上手くなりたい。当たり前だけど、レスポールとリッケンじゃぜんぜん弾き心地が違うから時々手元がもたつくし、まだその差が埋まらない。文化祭までもうそんなに日がないんだ、完璧に演るためのヒントがほしい……オレにはこれしかない。できるだけここで、色んな人のいろんな音を聴いて、弾き方を観て、帰ったら研究するんだ)
そして、ギタリストがエフェクターボードの中にワウペダルをしまうのを見て、
(……エフェクターボードもこの間、紘輝先輩にいろいろ組み方教わったから、父さんに頼んで、あるだけエフェクター送ってもらおう。いつまでもアンプに直挿しだけじゃ音に幅が出ない。先生も、直前まで音はどんどん変えて、いちばんいいのを探せって言ってたから、限界まで今あるものを全部詰め込むんだ)
もう一つやらなければいけないことが出来たことに心を熱くしながら、額の汗を腕で拭った。
バーカウンターでいつも通りにマンゴーラッシーを注文してから、実夢はフロアを注視する。
(……興津先生、見当たらない……後ろの方かな、だとしたらそっち行くのは危険か。……最悪、軽音楽部には見つかってもいいけど、先生はまずいんだ……夏休みは冠婚葬祭でもない限り東京に行かないって約束、三者面談でさせられちゃったからなあ……そしたらカフェでバイトもできなくなるし、そもそもバイトしてるのもバレたらまずい……)
もしも自分がいまここにいることが発覚してしまったら、夏休み明けから冬休みの終わりまで、毎日補講を受けなければいけなくなるため、今後の自分なりに充実した高校生活に大きな支障が出ることを、彼女は何よりも危惧していた。
(ったく、あたし、大学なんか行かないんだから、勉強したってしょんないのに……それよりも今しかできないことを楽しみたいよ、勉強なんてダルいことしてらんない)
渡されたラッシーを太いストローで混ぜて一口飲むと、実夢はポシェットからスマートフォンを取り出してプラットフォームサイトのマイページを開く。
(先輩、もしかしてあたしの書いた記事読んだのかな? なんか今日動きが派手だったぞ)
フォロワーの半数が付けてくれただろう数のハートを見て、思わず知らず頬が緩む。
(中一から続けてきたけど、ほんと「継続は力なり」だよねえ。たまーにバズると本当にやめられない……楽しいなあ、こういうの語れる子いないから、発散できてほんと助かる)
これまでも数人、自分と同じタイプの少女と知り合いにはなったが、演奏の内容よりもメンバーの見た目だけの話に終始したり、そこから発展してバンドのメンバーに本気で恋をして、その満たされない恋心をホストクラブやギャンブルでさらに摩耗させ、どんどん取り返しのつかないところまで自ら堕ちていくタイプの人間としか巡り会わず、もっと深入りした音楽の話をしたい実夢は自分の友だち運の無さを嘆き、そして諦めていた。
(……いいな、友達がいるって。……でも、自分の好きなこと我慢してまで作るものじゃないよね)
時折、軽音楽部員に声をかけてみようかと思いつつも、自分とあまりにも音楽の趣味が違いすぎる上、全員が教師の言うことを素直に聞く『いい子』なのがどうしても鼻について、いつもそこで踏みとどまる。
(放送室ジャックしたのだって、なんか正義の味方のやることみたいで、ちょっと引っかかるんだよね……性善説の具現化みたいで、あたしがそんないい子じゃないから余計に引け目感じるんだよなあ。ま、面白い事件だったし、確かに悪い子っちじゃないんだけどさ……)
どこまでも、実夢自身が『サブカルクソ女』だという自覚のある、外野のような視点にしかならないことに少しうんざりしながら、もう一口ラッシーを飲んで、楽屋入口の近くの壁際まで移動してから、フロアを見回す。
「あ」
何気なく泳がせた視線の先のバーカウンターに担任の姿を見つけ、実夢は声と一緒に冷や汗が出る。
(よかった、ターゲット確認。危なく顔合わすとこだった。よし、あっちには絶対行かない)
彼女は次に演奏するパンクバンド恒例の、飲みかけの水撒きに引っかからない位置まで移動し、薄明かりが消えて暗闇になったフロアの人混みに紛れ込んだ。
「先生、おかえりなさい」
二杯目の飲み物を手にした興津がこちらに戻ってきたのを見て、くるみはほっと息をつく。
「松崎と森はまだ前にいるのか」
「そうっすねぇ」
「この様子だと、最後までこっち戻ってこなさそうですね」
隆玄と太陽の答えに彼はうなずき、
「そうか。押されたり転んだりして、怪我をしなければいいんだけれど……」
激しいドラムのジングルと共にパンクバンドの現れたステージを見遣る。
「先生、紘輝先輩はフロアに来ないんですか?」
さり気なく隣に立ったくるみの手を取りながら、
「ああ、……ちょっとね。訳あって、まだ来れそうにないんだ」
「ふうん……」
絡ませた指先を柔らかく親指で撫でつつ、興津は二杯目の飲み物を口にした。
「ねえ先生、それお酒?」
「まさか、仕事なんだから飲まないよ。ただのトマトジュース。……それにしても、ここのライブハウスは随分カクテルのメニューが豊富だね。オーナーさんの趣味かな」
タバスコを抜いてもらったバージン・メアリーの健康的な酸っぱさで、尽きそうだった気力を回復しながら、彼は恋人と寄り添い、サビ以外の歌詞の聞き取りにくい『All I Want』のドラムがどんどん走っていくのに苦笑した。
「……このバンド、なんか変だと思ったらベースが同期なんだな。ステージの上、三人しかいないからスリーピースだって勘違いしたよ、ベースがいないんだ」
彼らの演奏をずっと首をかしげながら聴いていた政宗がぼそりと呟く。
「ああ、どうりで何かベースだけきっちりしてると思ったら……」
慎も同じく違和感の正体に気が付き、ぽんと手を打つ。
「ドラムが走ってもベースだけぶれないから、ずっと変だなって思ってたんですよ。どうしたんでしょうね?」
「ケンカして脱退したとか、そんななんじゃないの? 俺が入ったばっかの頃の軽音楽部はまさにそれだったからさ。みんな目立ちたくって、ポジションの取り合いでギスギスしてたっけ」
政宗に答えながら自分が高校生の頃の惨状を思い出し、慎は首をすくめる。
その彼らの疑問に答えるかのように、ボーカルがMCで「ベースが音楽性の違いで脱退した」ことを今さら説明する。
「いや、最初に言おうよ、そういうの……」
「『音楽性の違い』ってのは、ほぼ建前なんだろうなぁ」
太陽と隆玄が紘輝から聞いた話を思い出し、顔を見合わせて苦笑いした。
やがて、
「あはは、二人ともおかえり」
「いやぁ、さすがにあれやられたら、こっちに来るよなぁ」
ほっとしつつも困り笑いを浮かべた興津と隆玄が、ラストナンバーとしてやはり何を演奏しているのかよくわからない演奏が始まった頃、肩を怒らせてずかずかと人波をかき分けフロアの後方に引っ込んできた二人の人影に声をかける。
「もー、最っ低なんですけど!!?」
「百歩譲って未開封ならいいけど、飲みかけのをあんな撒き方するのはちょっとな……」
音程を無視した歌をがなっているうちに、完璧に何かがキマってしまったボーカルが、自身の飲みかけの水が入ったペットボトルを股間にあてがい、明らかにそれとわかるまき散らし方をしたのをすんでのところでかわし、それをありがたがって浴びるファンのモッシュから逃げ出してきたソフィアと翔琉は腹の底から憤っている。
「演奏だって歌だってガッタガタのくせに、なーに武道館レベルのアーティスト気分でいるんだか、ほんっとムカつく!! 自分の頭からかぶっとけっつーの!!!」
「ソフィア氏、落ち着いて。喜んでるファンもいるんですからそういうこと言わない」
怒り心頭のひそひそ声で噛みつくように言い放つソフィアを、凛子が懸命に宥める。
「いやあ、でもほんと、有名アーティストなら、まだやっても許されるだろうけどさ……」
「下品ね。小学生男子みたい。機材にかかって壊したらどうするのかしら」
遠目に見てもその仕草が不愉快だったのだろう、翔琉の言葉を遮るように祐華がぴしゃりと言い切る。
「まあ、パンクってそういうとこあるから……ピストルズとか名前がモロだしな……」
「とりあえず頭からかぶらなくてよかったね、二人とも。無事でよかったよ」
太陽とくるみにそう言われて、やっと二人は矛を収める。
「本当にいろんなバンドがありますね、真似したいとは思いませんけど」
ミチルが冷めた目でステージを見遣る横で、
「ライブ映像なんかだと、ドラマーがスティック投げたりもしてるわよね。あれ、怪我とかしないのかしら……」
「僕らもテンションの上がり過ぎには注意しないとね……」
紗雪と敦哉も興奮に身を任せすぎて箍の外れた人間の姿を前に、それぞれに考えを巡らせた。
ステージの上がまたブルー暗転し、次のバンドのセッティングが始まる。
その中に見覚えのある髪型を見つけ、
「あ!」
くるみは思わず声を上げた。
「うん? どうした、牧之原」
カップの中身を半分ほど飲んだ興津に訊かれ、彼女は開いている方の手でステージを指す。
「ほら、下手の方にいるの、いずみさんのお友達の人ですよ」
「ああ……ほんとだ、暗いとこで見てもよくわかるね」
薄青の中でもよくわかるピンク色のモヒカンヘアと、数えきれないほどのシルバーのピアスに、真っ黒な男物の浴衣を着こなし、黒いピンヒールを履いた彼女はひときわ人目を惹く。
「あの子、ベースか。さっきは同期音源でちょっと拍子抜けしたから、期待しておこうかな」
スタンドに立てられたスモーキーローズのボディのジャズベースを見て、彼がつぶやく。
「わたしも大学行ったら、髪染めてみようかなあ……」
彼女の派手さに触発されたくるみも、何の気なしに同じ大きさの声を出す。
「……いいんじゃないかな、きっと似合うよ」
興津はそう言うと繋いだ手を離して、彼女の髪を長い指で優しく梳いた。
「でも、染めた後が面倒そうだから、やっぱやめようかなあ。傷むの嫌だし」
「どっちでもいいよ、好きにしなさい」
「じゃあマネっこして、モヒカンにしちゃおっかな」
「それは勘弁してくれ」
冗談に顔を見合わせて小さく吹き出してから、二人はエフェクターボードにシールドを繋いでいる小柄なシルエットに目を戻した。
やがてセッティングが終わると、ステージも客席も完全に明かりが落ち、防音扉の上の非常灯だけが緑の光を放つ。
何かが始まる予感をはらんだ闇の中、ぼうっ、と暗い赤の光がステージの上の影を浮かび上がらせる。
何もジングルが鳴らないまま始まったギターの淡い音に乗せて、ファズを効かせた息の詰まりそうなほど重たいベースの音が、まるで何かが這い寄るようにじりじりと黒い旋律を奏でる。
それを追いかけるようにドラムとピアノがするりとリズムに乗り、キーボードから聴こえるトランペットの怪しい音色が続いて、ボーカルが『食卓』を少ししゃくりあげて格好つけた調子で歌い始めた。
「……!」
隣で興津が息を呑んだのに気が付いて、くるみは思わずそちらを見上げる。
(……先生?)
その横顔は教師でも恋人でもない、ベーシストとしての表情をしている。
自分の髪を弄んでいた指が、凍ったように止まる。
(このベースの音……?)
何かとても恐ろしいものを見ているかのようなその目に、くるみは声を掛けられないまま、息をひそめてステージに向き直った。
「……あのベースの子、ヤバいね」
傍らで慎が敵わないと悟った口調でつぶやくのに、祐華もただ黙ってうなずくしかなかった。
(お兄ちゃんのバンドの人なんか目じゃない……もしかしたら、先生より上手かもしれない)
どうしたらここまで身体に響く音が出せるのか理屈も理由もわからず、思わず唾を飲む。
(待って、……エフェクト、ちょっとファズかけてるだけでしょ? それでこんな音が出るの? 使ってる楽器? それともピック? 違う、あの人は指で弾いてる。指弾きでここまでキツイ音が出るなんて……わたしよりも身体ちっちゃいのに、筋力がそれだけあるってこと?……リズムも一切ブレないし、ひとつひとつの音がハンマーみたいにガンガン響く……)
まかり間違って自分がプロになりたいなどと考えていたら、今ここでベースを弾くことを辞めてしまいそうなほど、暗くて熱くて沈み込む彼女の音に、祐華は全身に鳥肌が立った。
(すごいグルーヴ。バンド全体がぐっとこの人の音に引き寄せられて、引き締まってる。ああ、……この人はきっとプロになる。このバンドがものにならなくても、この人だけは絶対に生き残る……わたし、すごいものが見られた。すごい音が聴けた。今日はそれだけで、ここに来た価値があったわ……)
きっと自分と同じ思いでいるだろう、自分の肩をきつく抱き寄せる慎の手をそっと撫でながら、祐華は瞬きもせずにステージの上の彼女を見つめた。
「あっくん……」
「……」
先ほどからずっと硬直したままの敦哉に、紗雪はそっと寄り添う。
脳に直接突き刺さるようなベースの音が、彼の思考を止めているのは想像に難くない。
まだベースを始めて半年も経っていない彼に、この音を聴くのは酷だったのかもしれない、と彼女は思い、汗に濡れたTシャツの背中に手を置く。
(……震えてる……)
慰めようとして撫でる気配を出すと、敦哉は彼女を振り向いて首を横に振り、再びステージに向き直る。
「やばい、……すごいや、この音……」
敦哉の目は輝き、頬は上気している。
(違う、ぜんぜんショック受けてない。興奮してる……)
紗雪は下手な心配をする必要はないと感じ、背中に置いた手を下ろして彼の指先を取る。
「どうやったらこんなふうに弾けるんだろう……かっこいい……!」
そのまま駆け出してしまいそうなほど素直に感動している彼が、本当にそうしてしまわないように、紗雪は慌てて彼と指を絡ませ、固く手を繋いだ。
ソロに差し掛かったとき、興津が歯ぎしりをしたのが聞こえて、くるみは身体を固くした。
(……もしかしなくても、嫉妬してる?)
髪を撫でていた優しい手はすでにくるみの首筋に置かれ、ともすればそのままきゅっと喉笛を締められてしまいそうな硬さで、彼女を震え上がらせた。
(こんなに悔しがってる先生、初めて見た……)
きっと、十七年弾き続けてきたことで築き上げたプライドというものが彼の中にもあったのだろうが、それを眼の前の少女が容赦なく蹴飛ばして壊しているのだ。
それを想像し、踏まえて、くるみはしっかりとその音に耳を傾ける。
(……確かにこの音、すごい。なんか、聴く人を音で殺そうとしてるみたいな気迫を感じる)
スラップのゴーストノートのキレの良さも、刃先を新しく折ったばかりのカッターナイフのような気配を含み、下手に弾いたらぐちゃぐちゃになりそうなベースラインも、彼女はびちっと決めてみせる。
(でも、……なんだろう、鋭くて重くて痛い。怖いな。そう、あったかくない……)
隣で石像のように動かない彼のベースを初めて聴いたその日のことを思い出し、彼女は自分を縊り殺しそうなくらい激しい彼の感情を解いて溶かしてしまおうと、その手に自分の指を這わせて、一本ずつ節くれだった長い指をたどる。
(技術だけで言ったら、先生と同じくらいだと思う。それがわたしとそんなに変わらない歳で出来ちゃうんだから、先生が嫉妬するのも無理はないよ。聴いてるだけで身体の中まで響いてきて、ぞくぞくするのは確かにそう。でも……たとえば他の曲を弾いたらどうなるんだろう? この人はこういう雰囲気の曲以外の、柔らかくて優しい音が出るのかな……? 真っ黒い絵の具で真っ黒く塗りつぶすのは得意だけど、まるでピンクや水色や緑の、明るい色の絵の具を持ってない絵の具箱で絵を描いてるみたいで、楽しさよりも息苦しさを感じる……)
バンド全体の雰囲気もあるのだろうが、ダークな楽曲は得意でも興津のように幅広く、様々で鮮やかな音色が出せるのか、くるみは心の中で首をかしげる。
技術の突出した彼女と他のメンバーとの調和も取れていないのか、やたらとベースの音だけが耳に入ってくるのもひどく気になった。
(素人のわたしにもわかる。この人はきっと、間違いなくプロになれる。でも、……わたしは先生の音の方が好き。ひいきなんかじゃない。先生だってこの曲はきっと練習したら弾けるけど、この人にビートルズの柔らかい音や、『シュガーソングとビターステップ』みたいに弾む明るい音は、きっとまだ出せない。音が尖ってて、キツくて、ザクザク心が刻まれてくみたいで、苦しくなる。……聴いてるだけで安心できる、先生の音の方が、わたしは好き……)
殺気を孕んだ音に怯えたくるみはステージを見ることが怖くなり、黙って目を閉じた。
鬼気迫る演奏が終わり、隣の彼は拍手も出来ずにそこに佇んでいる。
くるみは彼の黒いワイシャツの袖を、つん、と優しく引っ張った。
「先生」
「!……ああ、何かな?」
彼なりに感情に整理をつけようとして間に合わなかったのか、厳しい顔のままで慌ててカップを持ったまま半端な拍手をしながら、興津はくるみと顔を見合わせる。
「あの、耳貸してください」
なにか面白くないことを言われると思ったのだろう、彼は浮かない顔をして彼女の方に身体を傾げる。
「……わたし、この人の音、怖くてちょっと苦手です。先生の優しいベースの音の方が好き」
「……」
「お世辞じゃないですよ。だって、先生の音は聴いてると、あったかい気持ちになるから」
「牧之原……」
彼の表情から張り詰めたものが消え、愛おしいコーヒー色の瞳がほんのりと潤む。
くるみはフロアの暗闇に身体を隠すようにして、興津の胸元に頭を寄せた。
「比べちゃダメなのはわかってます。でも、今の音は聴いてる間、ナイフで刺されてえぐられてるみたいで、身体が痛かった……先生の音はそんなことない。ずっと聴いてたい……」
彼女は背中から彼の腰に腕を回し、肩口に片耳を付けて塞いでしまうと、おそらくこの後も続くであろう重たい楽曲と、彼女の残酷なベースの音に耐えられるよう備えた。
(僕の音、……そうだな、僕には僕の弾き方が、積み重ねてきた想いがある)
くるみの言葉に、興津は食いしばりすぎていた奥歯を緩め、心を落ち着かせるために、残りのバージン・メアリーを一気に飲み干す。
(あの若さでこれだけの技術を身につけるには、相当の時間がかかっただろう。子供の頃から弾いてきたか、僕みたいに暇さえあればずっとベースを手放さなかったかのどっちかだ。その情熱は僕だって負けてない。……落ち着け、そこは比べるとこじゃないだろ)
いい歳をしてショックで我を忘れそうだったことに恥じ入りながら、彼は少し冷静さを取り戻し、ほとんど聞き取れなかった短いMCに続いて始まった『うっせえわ』のベースラインに耳を傾ける。
(くるみが言いたいのは、この子の音の若さだ。技術と音作りだけが先行して、自分が前に出てやるんだ、なんとしても成り上がってやるんだという勢いが全面に来てる。きっとこのバンドに入ってから、こういう曲ばかり弾いてきてるんだろう、さっきの曲と変わらずドンシャリをすごくきつくしてあるから、中音が生ぬるい。この歌は基本エフェクトを使わなくてもいい曲なのに、何かしら音をいじらないといられなくなってるのか、ギター並みに足元が忙しい。そして、バンドもこの子の音に頼りすぎていて、全体のバランスが取れてない……)
せっかくのサビなのに声量が足りず楽器の音に負けているボーカルも、ベースの音圧に潰されてしまったギターも勿体ない気がして、彼は指導者の顔で歯噛みする。
(きっと自己流で練習する限界に来ているんだ、このバンドは。プロデューサーがいないと陥りやすいんだろうけれど、自分っちで決めたコンセプトに振り回されて、世界観や雰囲気作りのみに終始して、自己満足で終わってしまう……誰かが外から見た彼らにアドバイスを……したところで、素直に聞かないんだろうな。高校ん時の僕らがそうだったから)
自身の苦い経験を思い出し、興津は思わず口元を歪める。
(きっとあのベースの子は、出る場さえ間違えなければ成功するだろう。でも、このバンドと心中する気ならば、それはもう止められない。ヴィジュアルが人目を惹くし、才能もあるけれど、そこから先がどうなるかは藤枝と一緒で、この子次第なんだ)
自分には手の届かない問題だと割り切りつつ、惜しい気持ちで、コーラスを叫びながらベースをかき鳴らす、小さな身体を見つめる。
(……音楽に「これでいい」も「これが正解」もないけど、「これはだめだ」はある。このバンドは、近いうちに崩壊するかも知れない。それが音楽が原因か、人間関係が引き金になるかはわからないけど、もう音作りが「これはだめだ」の領域に入ってる。それに気がついたら、ぶち壊す理由なんて、いくらでも後付け出来る……その時に巻き込まれて、一緒に壊れてしまわないのを祈ることしか、僕には出来ない)
くるみのなめらかな髪を撫でながら、若きライバルの未来を彼は一人憂いた。
演奏が終わり、うつむいたままもそもそと喋る暗いMCの言葉の中から、どうにか『杜子春』という言葉だけを聞き取ると、興津はそれを読んだ中学時代のことを思い出す。
(……『杜子春』か……読まなきゃ良かったって後悔したな、あのときは。僕がたとえ、死んで地獄に行ったところで、父さんも母さんも幸せではないのかも知れないと思って……賠償金もばあちゃんが管理してくれたからよかったけど、事故起こした会社と裁判になる前からずうっと、伯父さんや伯母さんがしつこく僕を養子にするって言ってきたし、中学に入ってからは、事故のことがばれた途端にカツアゲに遭ったりして、嫌な思いばかりした……まるで、自分のことを読まされてるみたいで、芥川龍之介が大嫌いになったっけ……)
思わぬところでほじくり返されたトラウマにため息を吐きながら、彼はずっと自分にくっついて目を瞑ったままのくるみの頭に頬を乗せる。
(だめだ、しんどい。……ちょっとだけ休もう。僕にはこのバンドは、刺激が強すぎる)
再び始まった重く歪んだベースとギターに、シンバルの音がやたらうるさいドラムが合わさり、栓をした耳の外側で不穏な歌詞とともに自分達を包む深い闇のような音楽から身を守ろうと、彼はまぶたを閉じた。




