第121話
フロアに入ると、真っ先に何かを甘く焦がしたような、しかし埃っぽいにおいが鼻腔になだれ込み、それがほんのりと焚かれたスモークのにおいだということに、誰もがほどなく気が付く。
セッティングの済んだステージの上にだけ薄い青の明かりがすとんと落ち、その手前の客席全体を、明るいオレンジの光がほんのりと照らしだしている。
「お、よかった、前の方ぜんぜんがら空きだ」
「みんな、行こう。耳栓する人は今のうちにしときなよ」
やはりまだファンが少ないせいか、かぶりつきのフェンスの周りに人はいない。
くるみたちはわいわいとひと固まりになってそこに陣取った。
「そう言えば、この間お兄ちゃんから連絡があってね。リズムギターの人が問題起こして脱退したから、別のバンド辞めた人が新しくギターに入ったんですって。カッティングがすごく上手い人だから聴いてて、って言ってたわ」
「へええ、紘輝先輩が褒めるってことは、相当上手なんだろうね」
隣に立つ祐華の話に、先に片耳だけ耳栓をしながらくるみは相槌を打つ。
「でも、問題起こして脱退とか本当にあるんだね。辞めた人、いったい何したの?」
「うん……それがね」
祐華は言いづらそうに顔を歪めるとあたりを見回し、何かを確認してからくるみの開いている方の耳元に口を寄せて、小声で囁く。
「……どうもその人、お兄ちゃんが合宿で山梨にいる間に、いずみさんのことを学校からストーキングして襲おうとしたみたいなの。バンドの人たちが助けてくれなかったら、本当に危なかったらしいわ」
「うえっ……」
自分にも身に覚えがあるだけに、余計に恐ろしい話にくるみは鳥肌が立つ。
「その人、それきり学校にも来てないみたいだし、仲間の人が警察に出せる証拠も持ってるから、もう大丈夫って言ってたけど……」
「うああ、やっぱ東京無理、怖い……! わたし一生、静岡でいい!」
「わたしもそう思うわ、……お兄ちゃんもいずみさんも、本当にこの街で暮らしてて、怖くないのかしら……」
「きっとこっちの方が居心地いい人もいるんだろうけど……うん、わたしはいいや、地元に骨を埋めようっと」
そう言ってくるみが祐華と顔を見合わせて笑っていると、ふっとフロアの明かりが落ちる。
「そろそろ始まるかな」
祐華の反対側の隣に立っていた慎が、イヤーマフをしながらステージを見上げてつぶやく。
「お兄ちゃん、失敗しないといいけど」
「大丈夫、藤枝は本番に強いタイプだ。きっといい演奏をするよ」
くるみの隣に立っている興津がそう言うと、袖の方に何人かの人の気配がし、自分たちの後ろから少しだけ人波が前に寄ってきたのを感じて、くるみは思わず興津の腕に絡みついた。
彼は驚いて身体をすくませたが、暗闇に紛れて素直に恋人同士でいることにしたのだろう、それ以上は何もしないで彼女のその行為を受け入れた。
明らかに紘輝が弾いたとわかる、でたらめで派手なギターのジングルが鳴り響き、ステージの上にまばゆく白い光が落ちる。
そこに、何人かが楽器を手にした若者の一団が飛び込むように現れ、それぞれの位置について、まずは深々と腰を折り曲げてお辞儀をした。
そうして顔を上げたメンバーの上手側に、いつものオールバックに派手なTシャツとダメージデニムを身に付け、スモーキーブルーのストラトキャスターを抱えて立っている見慣れた姿の人物が、自分たちに向かって笑顔で手を振る。
(紘輝先輩だ!)
そう思った瞬間、わっ、と後ろから拍手と口笛が起こり、くるみも慌てて腕を解いてその空気に倣い、目一杯の拍手をする。
(うああ、すごい! わたしたちだけが先輩たちの演奏、聴きに来たわけじゃないんだ……!)
最初のライブで相当数のファンを掴んだのか、彼らに送られる熱気は作り物でも義理でもない、本物の声援だった。
「ハイサーイ! 二度目ましての人は二度目まして!『AMYNAHS』でーす!」
紘輝たちがセッティングをする間、ペイントのはげかけた黒いベースを抱え、黒いシャツとデニム姿に綺麗な長い金髪をポニーテールにまとめた青年がいち早く準備を終え、マイクを片手に舞台のセンター近くに躍り出ると、ウチナーグチで元気に挨拶する。
「このあいだはボーカルがちょっと不調で休んじゃってごめんねー、今日から本格始動となりまーす! とりあえず先に一曲聴いてねー、いくよー!『オーケストラ』!」
ベースの青年がマイクをスタンドに挿して元の位置に戻ると、彼らは互いに目線を合わせる。
ドラムセットの後ろで、真っ黒に日焼けした青年が、半袖の登山シャツから伸びる強そうな腕でハイハットを軽く鳴らしてリズムを取ると、センターに立つターコイズグリーンのワンピースに虹色のアクセサリーをきらめかせ、ハイビスカスの花飾りをオレンジの髪に飾った女性がハイトーンのハスキーボイスで歌い始め、そこに紘輝のギターからこぼれるクリーントーンが重なる。
(……わたしたちが歌ってる姿も、こんな風に見えるのかな……)
ステージの上に立つ、少しだけ年上のその人たちの姿に、自分たちが演奏するときの姿を重ねて、くるみは胸の中で独り言ちる。
やがて下手のギターからフィードバック音が聞こえ、そこにキーボード二台が奏でるストリングスとピアノの音色が、続けてそれまでの静けさを滝のように押し流す激しいドラムが乗る。
それを受けて一斉にギター二本とベースが全力で彼らの旋律を奏で始め、耳栓をしていても身体の奥まで響く伴奏に合わせて、ボーカルが全身でリズムを取りながら声を張り上げてマイクに言葉を乗せ、何かを求めてもがくように歌い始めた。
(……すごい……何か、身体に詰まっていることを、どうしても言いたいことを叫んでるみたい……)
喉声で音程が不安定かつ、声量もばらばらな歌い方だが、誰かに訴えかけるような、振り絞るかのような彼女の歌声には、ただ楽しんで歌っているだけの自分にはないものを感じられて、くるみは目が離せなくなる。
(きっと、この歌を届けたい誰かがいるんだ。自分が楽しんで歌うよりも、ひとつひとつの音を外さないことよりも、大事な……すごく大きな気持ちを誰かに伝えたくて、この人は歌ってる。でも、それが何なのかまではわからなくて、伝えようとしてるのになにも届いて来なくて、それがもどかしいのが、聴いてて苦しい……この苦しみを、わたしはまだ知らなかった。ただ、楽しむだけに歌ってた……)
抱えている想いを形にして表現するところまで彼女の技術が追い付かず、聴けば聴くほど声が宙に浮いて散らばっていくことがわかるのが、くるみは我がことのように悔しく感じられる。
(あなたは何を訴えたいの? あなたがこの歌で、伝えたい気持ちは……)
手を伸べてその想いを受け止めたいのに、何もステージからこぼれてこないことが悲しくて、胸が痛くなる。
(ああ、でも、この人の歌い方はこれなんだ。自分の内側でしか爆発させられない気持ちを、歌詞とメロディに乗せて……自分の歌はこれだ、って思って歌ってる。それだけはわかる……)
この歌い方もまた一つの個性なのだと思うと、くるみは彼女の歌がとても人間らしく、そしてとても愛おしく感じられた。
一曲目の演奏が終わると、先ほどと変わらない音量の拍手と口笛がフロアから贈られる。
ふとその時、隣の興津がこちらを見た気がして顔を上げると、
「こっちおいで」
彼の唇がそう言って、自ら寄るまでもなく背中から抱き込まれ、顎が肩に乗る。
「せ、せんせい」
思わず声を上げた彼女の両腕に覆いかぶさるように彼の長い腕が絡み、耳栓をした鼓膜に聞こえるように、完全にキスをする距離で口髭と柔らかい声が身体の奥に触れる。
「この方が腰が楽だから、悪いけどよっかからせて。バーが思ったより低い」
「……」
ぞく、と甘い刺激が身体を突き抜けて、腰が砕けそうになるのをくるみは必死にこらえる。
いつもの癖で周りを見回しても、誰も自分たちを咎める人間は見当たらない。
フロアに満ちる熱気よりも激しく焦げる想いに身動きする気も起きず、彼の吐息のこそばゆさを耳朶に感じながら、くるみはどきどきとうるさい心臓の音を無視して、ステージを見上げた。
「ニフェーデービル! きいてくれてありがとーねー! じゃーメンバー紹介、いってみよっかー!」
一曲目が終わると再びベースの青年が前に躍り出て、キーボードからドラム、リズムギターと順番に名を呼び、その度に楽器を軽く奏でてから彼らは会話を交わす。
「……すごいですね、キーボードの方。三台も使ってるのに動きに迷いがなくて、ミスタッチらしい音も全くないです……」
ステージ下手奥をミチルが驚きを隠せない様子で見つめ続ける。
「あの人だっけ、元音大生の人」
「ええ……」
隣に立つ太陽のイヤーマフ越しの問いかけに彼女はうなずいて、バーを握る手に力を込める。
(音大に行ったら、あのくらい弾ける人なんてきっとごろごろいる……いい気になっちゃだめ。もっとしっかり練習しないと。……負けられない……!)
ミチルは無意識のうちに奥歯を噛み締め、身体の奥底から湧き上がる高揚感に打たれていた。
そのミチルの隣で、太陽は下手側で小気味よいフレーズを刻み続けていた、黒い半袖のつなぎ服にクリーム色の髪と八重歯が印象的な青年を見遣り、ひとり腕を組む。
(やっぱり、紘輝先輩は上手い。弾き方が前より丁寧になったし、見せ方も華やかになってる。……でも、こっちのリズムの人、派手じゃないけどすごく『分かった』プレイをする。バランスとるの上手いし、出過ぎない代わりに消えることもない。何より、下手したらベースよりもリズムがブレない。この人は、本当に全体を聴きながら演奏してる……)
ペットボトルから水を飲み、それを置くついでにワウペダルの位置を調節しているその人を見て、自分がこの領域に達するには、あとどれくらい練習を重ねればいいのかと思案していた。
「ドラムの人、たぶんジャズの心得があるねぇ」
「えっ?」
バーに寄り掛かっていたソフィアが、隣に立つ隆玄の声に驚いてそちらを見る。
「何でそんなことわかるんですか?」
「なんていうか、ただの勘だけどね。あの人、自分の聴かせどころを心得てるよ。ただやみくもに叩くんじゃなくて、その場の雰囲気に合わせて会話しながら叩いてる感じがする。あと、スティックの持ち方見てみな」
彼に促されてドラマーの手元を見ると、自分たちとは違って、左手が上を向き、親指と人差し指の間にスティックを挟む持ち方をしている。
「あれ、クラシックとかジャズの人がよくやる持ち方なんだ。でかい音は出しにくいけど、そのぶんサウンドのコントロールはしやすくなる。それでこれだけの曲を難なく演奏するんだから、相当身体も鍛えてるはずだ。リズムもちょっとだけ跳ねてるかな。……独特だねぇ。俺みたいに譜面通りにしか叩けない人間には、生半可なやり方じゃ、たどり着けない領域かなぁ」
「……」
それまで自分の感情を発散させるため、叩きたいようにしか叩いて来なかったソフィアにとって、隆玄の分析はハンマーで頭を殴られるような衝撃をもたらすものだった。
(アタシ、今まで演奏なんてただ楽しければいいやって思ってた。アタシが走っちゃっても、きっとみんながアタシに合わせてくれるからって……だからいつまで経っても同じこん、先生に注意されてるんだ……)
全体の音を聴け、と毎日のように繰り返されるその言葉の意味を、彼女はやっと掴む。
(ああ……アタシは下手くそだ。ちょっと難しい曲が叩けるからって天狗になって、ただ気持ちと勢いに任せて叩いてるだけのど下手くそだ。……アタシだけが楽しければいいって、いつも心のどこかで思ってたから、リズムが走って、みんながばらばらになって追いつけなくなる。……そんなんじゃだめだ!)
そして同時に、隆玄の音楽への造詣の深さにも驚く。
(先輩は一度聴いただけで、スティックの持ち方ひとつで、どんな音楽をその人が聴いて叩いてきたかがわかる。「オルタナティヴが好き」っていうのは「オルタナティヴだけが好き」って意味じゃないんだ……きっと、ジャズだけじゃなくて他の音楽もいっぱい聴いてる。アタシ、J-POPとハードロックとメタル以外、普段何聴いてる?……ヤバいよ、ソフィア。全然足りない、何もかも足りてない!)
焦燥感でいっぱいの心を落ち着かせようと、彼女は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
(……このライブで、出来るだけいろんな人の叩き方をよく見て覚えよう。聴いたことない曲も聴けるはずだから、帰ったらサブスクでとにかく何でもいいから聴いてみるんだ。……焦るな、焦ったらまた走っちゃう、まずは今日のライブを見てから……)
屈めた背中を一度伸ばして、彼女は再びバーの上に両手を置き、ステージを睨んだ。
「はーい、では次ー! 覚えてる人もいるかもねー、前回ボーカルも務めた、リードギターの紘輝くーん!」
ベースの青年に呼びかけられると、紘輝はにっと歯を見せて笑い、待ってましたとばかりに『Beat It』のリフを弾き始める。
それに合わせてボーカルがハンドクラップを始めたのに合わせ、空気を読んだドラムがビートを叩きだすと、フロアの客も一緒になってハンドクラップを始める。
そして紘輝に目くばせをされたリズムギターの青年が一緒に演奏を始め、彼の奏でる歯切れのよいカッティングに乗って、いよいよ歌い出しのところで大きくブレスをしたあと、
「どうもこんばんは」
普通に紘輝は挨拶をして、それを聞いたメンバー全員が大袈裟なリアクションでがっくりとひざを折る。
「歌わんのかい!」
「昭和のコントか!」
どっと沸いたフロアの中でキーボードとドラムに突っ込まれつつ、紘輝はけらけらと笑う。
「あっはっは、やだもう! お兄ちゃんったら!」
「あははは、やっぱ紘輝、こういうのうまいなあ!」
最前列で大爆笑している妹と慎の声に気が付き、紘輝はそちらを見た。
「そーそー、なんか今日は紘輝、高校の先輩後輩が見に来てるんだってー? 慕われてるねー」
「そうなんだよ、おかげでノルマが全部捌けて助かったっけ」
その視線の動きに気が付いたベースの青年がせっかくいい話に持って行こうとしたのを、跡形もなくぶち壊した紘輝のせこい冗談に、またもやフロアは笑いに包まれた。
自己紹介が済み、改めてフロアの最前列に友人たちがいることを確認しようと目線を泳がせるうち、紘輝は一瞬、くるみと興津の距離の近さに目を留めて、思わずぎょっとする。
(おいおいおい! 先生何してんの!!! めちゃくちゃがっつりハグしてんじゃねえか!!!)
腕の中にいるくるみもまんざらではなさそうだが、誰かに見られたら完全に言い逃れ出来ない密着度に、彼は心の中で冷や汗をかく。
(……ま、まあ、気にしたら負けだ、見なかったことにしよ。合宿んときも距離近だったし、そもそもが部室でもこんなだったし……)
ここは学校ではないのだ、と合宿の時に自分に言い聞かせたのと同じ文言をもう一度繰り返すと、彼はフロア全体を見渡した。
(……今回は『青酸アクリル』のファンがいないけど、そんなに動員は変わらないな。まあ、このあと『針と百舌鳥』も『エリクサーポーション』もいるから、そっちのお客さんが多いんだろう。……いつか、ワンマンでこのくらいのフロア、いっぱいにできればいいな……)
その熱気を描いて夢想した空気の中、全員の自己紹介が済んだのを聞きながら、紘輝はボードのワウペダルを思い切り踏み込んだ。
その後も『Samurai Drive』『リアルワールド』と演奏は続き、やっと喉が温まってきた様子のボーカルはだいぶ安定して声が出るようになる。
(緊張してたのかもなあ……紘輝先輩が言ってたけど、人前で歌うのほぼ初めてだっていうし。でも、人前に出るんなら、わたしと先生のおまじないみたいなの、やっぱりしてるのかな)
ずっと自分を胸元に抱えたままステージを見上げている、それを教えてくれた人の体温に、薄着の背中と裸の首筋が汗ばむ。
(ほんと、だめ、……距離近すぎ……ああ、でも、今のうちにいっぱい甘えておかないと、……)
フロア全体に響く音楽と、次々に変わるカラフルな照明に加え、彼の身体から立ち上るコロンのミドルノートが呼吸のたびに香って、彼女はめまいがしそうだった。
(……今年の夏は、きっと一生忘れない……)
興津の腕の中で、くるみは十七回目の夏を、溶けてゆくアイスのように残り惜しく味わう。
(キスなんてしなくていい。それ以上のことなんて起きなくてもいい。ただ、こうやって同じ時間の同じ場所で、同じ夏を過ごせた。それだけでわたしは、じゅうぶん幸せ……)
彼をほんの少しだけ誘惑したくて、わざと薄着にしたのを見抜かれたのか、抱きしめて守ってくれている優しい腕の感触がなんとも愛おしくなり、くるみは目を瞑った。
(あー……馬鹿だなあ、僕は何をしてるんだ)
実際フェンスは腰に負担がかかる高さだったのだが、それでもくるみの身体に勢いで寄り掛かってしまったことを、興津はほんのりと後悔していた。
(でも、こんな薄着でほったらかすわけにもいかない。なんでこんな服装で来たんだ……)
幾度考えても過激だとしか思えない黒いインナーに、タンクトップが覗くほど胸元が緩いTシャツのおかげでやたら無防備なくるみを、どうしても明かりの落ちたフロアにそのままにしてはおけずこんな格好になったのを、さっきステージの上から紘輝がこちらを見て明らかに引いていたのを思い出し、彼は秘かに苦虫を噛み潰していた。
(仕方ないだろう、痴漢にでもあったら困る。そういうことにしておいてくれ、頼む、藤枝)
心の中でどうにもならない言い訳をしながら、楽しそうにギターを奏で、コーラスを歌う教え子の音楽に耳を傾ける。
(上手くなったな……この子の強みは努力を努力と思わないところだ。歌もくるみにいい刺激を受けて、本気出してトレーニングしたら聴かせられるようになったし、必要だと思ったものは何でも吸収して自分の力にする。そして、それを表現できるだけの技術と力を……才能を持っている)
高校生の雰囲気が抜け、大人の表情になった面差しに笑みがこぼれる。
(きっとチャンスがあれば、藤枝は間違いなくプロになれる。そのチャンスが出来るだけ、早く訪れるように祈ることしか、僕には出来ない。……もう、僕の役目は終わったんだ。あとは、この子が自分の足で歩いて、自分の手で未来を掴めるかどうかにかかっている)
仲間と笑顔を交わしながら『リアルワールド』の最後のギターソロを奏で終え、ジャンプして着地を決めた紘輝に、興津は一つ肩の荷が下りたような心持で拍手を贈る。
真っ先にフロアへと送った目線の先にいるのは、きっと気が逸りがちな彼を支えてくれている敦哉の姉なのだろう。
(しかし、女のことでこんなに早く先を越されるとは思わなかったな。……同棲か。くるみが二十歳を過ぎたら、親御さんにお伺いを立ててみようか……)
腕の中にすっぽりと収まっている彼女との、まだまだ先になりそうな未来に思いを馳せてから、
(でも、それまで、僕の側に君はいてくれるかな……)
いつも彼女を想うたびに考えてしまう不安と胸の奥の鈍痛を消したくて、彼はぎゅっとくるみの細い身体を抱きしめる。
自分に甘えるように寄り掛かった彼女の首筋から香る、ベリーとムスクの混ざった練り香水の匂いが鼻をくすぐったとき、短いMCが終わって『サルでもわかる』のイントロが始まった。




