第120話
ライブの時間が近づき、日が落ち始めると、歌舞伎町は徐々に昼間と違う顔を見せ始める。
列に並んでいる間、遠目に見える複合ビルの周り――いわゆる『トー横』には、そこに流れていくであろう少年少女や、彼らにまとわりつくように怪しい動きをする人間、それを見ないふりをして通り過ぎていく夜の仕事に就く大人や、金の髪に黒い服の客引きの姿が現れ、何をするでもなく周辺の建物の壁にもたれ、スマートフォンをいじる薄着の若い女性の数も増えてきた。
(話には聞いていたけれど、実際目にするとかなり怖い……少し僕たちだけで帰るのは不安だな。しかも、浅知恵で下手にこんな格好してきたから、本物の人に絡まれたりしたらもうアウトだ。僕もめったに行かない場所だからってちょっと浮かれてたかもな、失敗したなあ……)
予想以上に濃くなってきた周りの闇に、不慣れな興津は怯える。
やや考えた後、
「……菊川」
「はい、なんでしょうか」
彼は思いついたことをミチルに聞いてみることにする。
「もしも可能なら、帰り道に駅まで我々を守ってくれる人を手配してもらえるかな。思った以上に周りが危ないし、人通りも多いからはぐれたら大変だ。私も中の物販でTシャツがあれば買って着替えるけど、この格好してきたのはまずかったかもしれない」
「ああ……そうですね、大丈夫ですよ。すぐにお願いして、ライブの終わり時間頃に来ていただけるようにしますね」
ミチルは快く引き受け、すぐにスマートフォンを取り出して電話をかけ始める。
「ありがとう、助かるよ」
興津が短く礼を言うと、ミチルはにこりと微笑んで通話を始める。
それを見てからビルの壁にもたれながら、彼はため息を吐いた。
(藤枝はこんな街で暮らしているんだな、僕よりずっと度胸がある。……いや、若いからこそ、僕ほど怯えないのかもしれない。僕も二十歳くらいなら、きっとこの景色を見ても、当たり前のものだと思って受け入れていたんだろうな)
夜になると闇が余分に深くなるこの街の淀んだ空気を、きっとここに来るのは一生に一度きりだ、と思いながら彼は吸い込んだ。
「……先生」
ふわ、と細い身体が彼の肌に寄り添う。
「どうした、牧之原」
隣に立つくるみは、酷く怯えた様子で彼を見上げる。
「……ちょっと、怖くなっちゃって……ニュースで見たことあるけど、全部本物なんだと思うと……」
「……うん、そうだな。百聞一見とは言うけど、私も少し怖いよ」
そっと手を延べると、彼女はすがるようにそれを繋いだ。
安心も不安とも分からずうつむいた彼女のまとう影が濃い気がして、彼は首をかしげる。
(暗いな……もうこんなに夜が深かったかな?……ああ、いや、違う違う)
彼ははたと思い出し、サングラスを慌てて外す。
途端にぱっと周りが金色の光で満ち、夏の夕暮れの始まりが見え、彼は自分の間抜けさに苦笑しつつ、かえって酷く安堵した。
「牧之原」
呼ばれてもう一度こちらを見上げた彼女の顔が、黄昏の中で余計に麗しく感じられる。
彼は背を屈めて、彼女の耳元に恋人の距離で唇を寄せる。
「ライブの間も、怖かったら僕が手を繋いでいるからね。安心して」
そう言ってもう一度背を伸ばしたときに、やっと見えた彼の素顔と優しい目に安心したのか、くるみは嬉しそうに微笑んだ。
チケットをもぎりの女性に渡し、紘輝のバンド名を告げ、ドリンクチケット代わりのカジノチップを引き換えると、くるみたちはラウンジまで下りていく。
「大きな荷物はここでロッカーに預けてくださいね。貴重品は必ず持って。トイレは今のうちに済ませておくといいですよ。耳栓もすぐに出せるようにしておいてね」
いずみにそう言われて、くるみたちは慌ただしく準備を始める。
「ドリンクって、今もらわないとだめですか?」
「ううん、紘輝くんたちは一番最初だから、演奏が終わってからでもいいと思うわ。わかってると思うけど、アルコールは絶対飲んじゃダメよ。……ああ、それからあなたたち」
翔琉の質問に答えてから、いずみは凛子とソフィアに声をかける。
「ポニーテールとシニヨンは解いて、できればわたしくらいの高さで結んだほうがいいわ。後ろの人に迷惑がかかるから」
「おおっと! あざます、気が付かなかったっす!」
「アタシはただでさえ背が高いから余計にダメですね、わかりました」
二人は大急ぎでトイレに向かう。
「……俺ら、立ってても大丈夫かなぁ?」
「もとから背丈がでかいのは仕方ないだろ、不可抗力だ」
「しょんねぇ、なんか言われたら、中腰んなるかぁ」
共に180センチを超える長身の隆玄と政宗は、顔を見合わせて肩をすくめる。
「そうね、前の方にフェンスがあるからそこに寄りかかるっていうのも手よ。最前なら、紘輝くんたちの顔もよく見えるでしょう? それに、そこまで今日は人も来てないから大丈夫。きっと見たい人は自分から見やすいポジションに行ってくれるわ」
いずみの提案に二人は手を打つ。
「なるほどねぇ」
「じゃあ最前列に行くか。太陽くんもそれでいいかな」
「うん、ミチルもそのほうが見やすいと思うよ」
荷物の中から出したイヤーマフを首にかけている、背が低めな彼女を横目に見て気遣いつつ、太陽はうなずく。
「なんか、さすが姉さんだ、ライブ慣れしてるね」
「ううん、わたしなんてまだ二回目よ。もちろんネットで調べたりもしたけど、モトさんに教えてもらったことも多いの」
兄とごく近い距離で談笑している、美丈夫という言葉そのままの青年を少しだけ振り向いて、いずみは微笑む。
「ふうん……」
何気なく敦哉が同じ方に目をやると、ふとこちらを見た幹と視線が合う。
ふっと笑った彼に気づいた兄に手招きされて、敦哉は彼らに素直に近づいた。
「敦哉くん、改めて自己紹介するね。……縁あって、お兄さんとはもう六年位お付き合いしてます、早川幹です」
「あ、は、初めまして。舞阪敦哉です。兄がお世話になってます……」
何故か真っ赤になりながら、彼はたくましい体つきの優しげなその人にぺこりと頭を下げる。
(本当に兄さんとこの人は恋人同士なんだ……! 俺の小さい頃の思い込みじゃなかった……)
なにぶん兄が同性愛者であることを聞かされたのは小学校低学年のときで、それが何を意味するのかも分からず、ただ「誰にも話してはいけない」という兄との約束をひたすらに守り、大きくなってからその理由を知りはしたものの、気配のなさにひょっとしたら自分の記憶違いなのかもしれない、と思い始めていたことがやはり現実だったとわかり、何故か妙な汗が吹き出す。
「あはは、そんなに緊張しないで。それに、僕のほうが君のお兄さんにはお世話になりっぱなしだからね」
がちがちになっている敦哉に幹は優しく笑いかけ、背中を叩いて身体を起こさせる。
「そんなことないって」
「いや、事実その通りだろ。実質大輔に養ってもらってるようなもんだよ」
「やだなあ、僕は住むとこ提供してるだけだし、家事はほとんどモトさんがしてくれてるじゃないか。お世話になってるのは僕だよ、モトさんがいなかったら家の中めちゃくちゃだもの」
「……」
自分を無視していちゃつき始めた兄とその恋人に割って入ることが出来ず、敦哉はただ困惑の笑みを浮かべる。
「……ああ、ごめん敦哉。まあ、僕たちはこんな感じだよ。彼が優しいからうまくいってる」
リアクションに苦心している弟に兄はそう笑いかけると、ふと暗い目をする。
「なあ、……父さんは元気かな?」
「え……」
「特に病気とかはしてなさそう? 酒量が増えたとか、健康診断で引っかかったとか、そんなことはないかな?」
「あ……う、うん、……前より、飲み会に行く頻度は増えたけど……健康診断までは、ちょっとわかんないかな……」
「そうか」
どこか安心したような口調で大輔はつぶやくと、
「あの人、相変わらずテレビのニュース見て、女子アナに発情したり、うだうだ文句言ってるんだろ?……毎日顔合わせるの、しんどいかも知れないけれど、卒業までは耐えろ。大学はとにかくこっちの学校を受験しろよ。あの人がお前の行きたい大学にケチつけて渋ったら、費用は全部僕が出してやるから、気にしないで行きたいとこ選べ。僕はそのために、今の会社にいるようなもんだからね」
そう言って敦哉の頭を撫でた。
「う、うん……ありがとう……」
兄の言葉と笑顔の頼もしさと優しさに泣きそうになったのを、敦哉はぐっと堪える。
「敦哉くん、力になれそうなことがあったら俺にも言ってくれよ、協力するから。いずみちゃんみたいに、しっかり逃げ切れるように祈ってる。それまで絶対折れちゃだめだ、頑張れ」
「……はい、ありがとうございます」
幹の励ましの言葉も、温かく心に沁みた。
そして、
「そうそう、毎度念押しして悪いけど、もしもあの人が入院したり手術するようなことがあったら、一番に知らせてくれ。……まあ、くれぐれも事故にだけは気を付けてほしいね、最期に話ができなくなるのだけは困るんだ」
耳の奥に剃刀のように冷たく滑り込んできた兄の言葉に、背筋が凍った。
(やっぱりそうだ……兄さんは俺たちに、何かを隠してる……)
優しく微笑む兄の目の奥に見え隠れする、その深く暗い情念は消えない。
(でも、きっと聞いても教えてくれない。……ただ、父さんのことをすごく恨んでる。それだけはわかる……)
ベースを買ってくれたときにも同じようなことを言っていたのを思い出し、心拍数が上がる。
(……考えるのはよそう。俺にはわからない、俺が生まれる前からの何かを、兄さんは子供の頃からずっと抱えてるんだ。俺がどうこうできるものじゃない)
敦哉は目の前でごく自然に手を繋いで寄り添った二人に挨拶代わりに微笑み、その場を立ち去ろうとして、
「……ふふっ、あはははは、先生、ぜんぜん似合わない……!」
何故かTシャツに着替えた興津に大爆笑しているくるみに釣られ、彼女の言う通り本当に似合っていないその姿に盛大に吹き出した。
「……やめてくれ牧之原、あんまり笑われると本当に傷つく」
「ご、ごめんなさい、でも……っ!」
トイレから出てきた彼の姿に堪えた笑いが、くるみの頬をふくらませる。
白地に黒のプリントででかでかと正方形が描かれ、その中に集中線と三角フラスコという絵柄の上に、あえてそうしているのか創英角ポップ体で『エリクサーポーション』と書かれたシャツは、ほとんど肌着に落書きされているようにしか見えず、それなりがっちりした彼の体躯と真面目な雰囲気には全くのミスマッチだった。
「……慎先輩が好きそうなデザインだな」
「安心しな太陽、さっき物販コーナーで嬉々として買ってたから」
「ここまで白T似合わない人も珍しいな」
くるみの笑い声にそちらを見た三年生が全員、引きつった笑いを浮かべる。
「うわー、フォントが最高にダサいなあ……」
「スーパーのPOPみたいだわ」
「……矛盾塊かと思った」
「ねえリンちゃん、これ、オタク狙い?」
「いやあ、オタクでももうちょっと凝ったシャツ着ますよ」
「ちょっと……本当に刺さるから……君たち、もう少し言葉を選んでくれ……」
一年生の容赦ない攻撃にどんどん興津はいたたまれなくなってくる。
「お兄ちゃんが見たら、ステージの上で大爆笑しそう……」
「あの、せめて上にワイシャツを羽織られたほうがいいと思います……」
祐華の容赦ないとどめの一言の後、ようやくミチルから具体的な提案がなされ、
「……わかった、そうしておく」
彼は自分の着こなしセンスの無さに絶望しながら、手に持っていた黒いワイシャツを羽織って前ボタンをいくつか留めた。
「ああ、……うん、いい感じに隠れましたよ、先生。よかったよかった」
太陽がほっとした顔で彼を見る。
「ていうか、重ね着も似合うじゃないですか。中に着るものさえ間違えなければ、シャツ一枚だけよりもぜんぜんいけてますね」
「前から思ってたんすけど、休みの日くらい好きな服着たらいいんじゃないすか? いつもワイシャツばっかじゃつまらんでしょう?」
政宗と隆玄に言われて、興津はわずかに照れたのを隠すように口髭の下に手をやった。
「……あの、笑っちゃってごめんなさい、先生」
「もういいよ、事実似合ってないんだから。なんでだろう、昔っからどうも白T着ると、肌着っぽくなっちゃうんだよなあ……」
申し訳無さそうな顔で寄り添ってきたくるみに、彼は首をすくめて諦めの言葉と笑顔を返す。
「でも、今はさっきまでの格好より、全然いいです。すごくこなれた雰囲気になりましたよ」
「そうかな?……あまり褒めるなよ、本気にするから」
二人は見つめ合って、ふふ、と小さく笑う。
「……先生も前の方で見ますか?」
185センチとやはり大柄な彼に問うと、興津はふむ、と口髭の下に手をやってうなずいた。
「そうだね、私も背は低いほうじゃないから、一番後ろか、前で身体を屈めたほうがいいんだろうな。とりあえず藤枝の演奏中は最前列に行こう。……牧之原はどうする?」
「わたしもそうします。……いいでしょ?」
誰に見張られているわけでもない空間で、二人はもう恋人同士であることを隠そうとせずに寄り添い合った。
「……!!」
トイレから出てきたときにラウンジにいた一団と、その中にいる一人の人物を見て、下田実夢は思わず息を呑み、そして冷や汗をかく。
(軽音楽部……! うそ、なんで!? ていうか興津先生までいる……!)
確かに今日は前部長である紘輝が所属するバンド『AMYNAHS』の参加するブッキングライブではあったが、自分の通う高校の軽音楽部員だけではなく、その顧問でありクラスの担任の教師でもある興津までこの場にいることは、全くの予想外だった。
(やばい、一人でライブハウス行ってることがバレたら停学になる!)
慌ててトイレのパウダースペースに引っ込み、じっと鏡を見て自分の顔をチェックする。
(……学校行くときよりメイク濃いし、青いカラコンも入れてるし、つけまもしてる。こないだメッシュの色も変えた。服もゴスロリ着てたらわかんないだろうし、今日は髪も巻いてる……よし。大丈夫、絶対バレない)
ばくばくと鳴り続ける心臓を落ち着けようと深呼吸をしてから、念のためポシェットの中から黒のアイシャドウを取り出してもう一度上まぶたに重ね、赤いティントリップの上にパープルのグロスを乗せ、黒いマスカラの先を使って目元にほくろを描く。
(大丈夫、これで「二年一組の下田実夢」は消えた。……消えたはず。どうかバレませんように……ただでさえ成績悪いのに、停学なんかくらったら出席足りなくて、冬休みずっと補講になるから、それだけはなんとしても避けなきゃ……!)
トイレの出口から再度ラウンジを確認して、こそこそと壁伝いに彼らの固まっている方を遠回りして避けながら、実夢はモノトーンのエンパイアワンピースを揺らし、人の隙間を抜けてフロアへと紛れ込んでいった。
「マリアちゃん、ごめんね、お待たせ」
敦哉と大輔たちが話し始めたのを見届けたいずみに呼びかけられ、壁にもたれてスマートフォンをいじっていた赤毛の少女はそちらを向く。
「ふふ、いずみちゃん、お姉さんしてていいな」
「そんなことないよ、気になったことだけお願いしてきただけだから」
マリアの隣に並んで自分も壁にもたれると、いずみは一つ大きく息を吐く。
「……男の子ってあっという間に大きくなるんだね、弟も幼馴染も、会わない間にわたしより背が伸びてて、驚いちゃった」
「……そうなんだね。……わたしがいた施設の子も、大きくなってるかな。あんまり仲良かったわけじゃないけど、もうぜんぜん会ってないや」
マリアはいずみの言葉に、寂しそうに答える。
「あ……ごめんね、気が付かなくって……」
彼女が天涯孤独の身であることで余計に寂しさを感じていたのだろうと思い至り、いずみは慌てて詫びる。
「違う違う、全然気にしなくていいよ。……いいな、高校生か。わたしももう一回、高校生やり直したいなあ……」
「うん? なんで?」
「せめて高校の時に、楽器弾けた方がいいことに気が付いて、ギターの練習くらいしてたら、弾き語りであちこちライブに出られたかもな、なんて思っただけ。学校のギター借りとけばよかった。そしたら今の事務所みたいな、変なとこにもひっからなかったかもな、って……」
「……」
ボーカリストオーディションという名目で事務所に合格したはいいが、バンドとは名ばかりのコスプレ地下アイドルをほぼ無給でやらされている彼女が、自分の望むような音楽活動が出来ないことでひどいフラストレーションを抱えていることを知っているいずみは、かける言葉が見つからず、ただ黙って隣に立つことしかできなかった。
「……もっと炎上して、何もかも燃え尽きちゃえばいいのに、あんなグループ」
今月の頭、メンバーの一人が問題を起こしたことで世間から悪い注目を集めるようになった自分のグループが、早く消えてしまうことを望む呪詛が心に痛くて、いずみは目を伏せる。
ここで初めてライブをした時に、グループのコンセプト――女児向けアニメの主役たちを著作権違反すれすれで模したコスプレと、それが名誉毀損になりそうなほどのパフォーマンスの下品さと過激さ、そしてファンのマナーの悪さのせいで、彼女の所属する『魔法少女青酸アクリル』は今後一切の出演を断られている。
その噂は他のバンドのファンのSNSを通じて他のライブハウスにも共有され、もはや東京ではどこに声をかけても出演を断られるようになり、彼女はホームグラウンドである秋葉原のコンセプトカフェの小さなステージで、ミニスカートのパニエの隙間から下着を盗撮する男たち相手に歌い踊るしか方法がない。
あと一年ちょっとで契約は切れるのだが、先ごろの炎上からグループに対する風当たりも厳しくなり、それより先に精神のほうが摩耗してしまうのではないかというほどマリアは追い詰められていた。
「わたしも歌いたかったな、今日。……誰もわたしが『青酸アクリル』の『ひとみん』だって……アイドルだって知らないお客さんの前で、一曲でも、ワンフレーズでもいいから……」
絞り出すようなその声にふと思い立ち、いずみは彼女に一つの提案を持ちかけた。
「ねえ、……マスターに頼んでみよう? 伴奏欲しかったら、紘輝くんたちにお願いすればいいわ。飛び入り参加できないか、かけあってみればいいんじゃないかしら」
「無茶だよ……出禁になってるのにそんなこと頼めないし、時間だって押すだろうし……」
そうしてみたい気持ちを抑え込むように胸の前でこぶしを握るマリアの肩を、いずみは掴む。
「でも、出禁になってるのはあくまで『魔法少女青酸アクリル』であって、『ボーカリストの桜田マリア』じゃないわ。名前も隠したいなら、今日だけ別の名義使えばバレないよ。それにライブなんて時間が押して当たり前だって、いつも紘輝くんたちが言ってる。今日は『青酸アクリル』のファンだって一人もいないから、絶対に大丈夫。ねえ、話すだけ話してみようよ。マスターはマリアちゃんのこと、すごく買ってくれてるんだから、きっと協力してくれる」
「……本当にそう思う?」
こくん、といずみは力強くうなずくと、マリアの手を取る。
「行こう、もうきっとマスター、バーカウンターにいるから」
その言葉に一縷の望みをかけるように一度だけ長いまばたきをすると、マリアは壁から離れ、いずみに手を引かれて歩き始める。
「敦哉、ごめんだけど、わたしちょっと用事が出来たから先にフロアに行くね。あとで落ち合いましょ。みんなによろしくね」
「あ、うん。わかった。また後でね、姉さん」
そこにいた敦哉にそう声をかけると、二人の姿はフロアの薄明りの中へと消えていった。




