第117話 ―第六幕プロローグ―
「はああ……」
「お前、昨日から何度目だよ、そのため息」
合宿から戻ってきてすでに十日ほど経ち、今日も学校での練習に向かう前、玄関でギグバッグを背負った牧之原くるみはすっかり意気消沈したまま、昨日から止まらないため息を吐く。
「だって、明後日にはありすちゃんも頼子さんも、おじいちゃんもおばあちゃんもみんな帰っちゃうなんてさ……しかもよりによってライブの日じゃん……もっとありすちゃんとふれ合いたかったよ……」
この頃本当によく笑うようになった母方の従妹のありすと、すっかり体調が回復したその母親である神崎頼子に、伯父の翼が「東京での身の安全が確保できたから、そろそろ戻っておいで」という連絡をよこしたのは、つい昨日のことだった。
「いいだろ、確かにちょっと寂しくはなるけど、ばあちゃんのお小言がなくなるんだから」
自身も大学のサークル仲間との合奏に向かうため、玄関先で靴を履く兄の慎が妹に冗談を言う。
「それはそうだけどさ、次にありすちゃんに会えるの、いつになるのかなあって思うと……」
「その間に保育士の資格取っとけばいいじゃん、そしたらもっと具体的に役に立てるだろ」
「今のありすちゃんの可愛さは今のありすちゃんにしかないんだよ、お兄ちゃんわかってないなあ」
くるみはもう一度、さっきよりも大きなため息を吐いた。
「諦めろよ。むしろ一番かわいい時期をずっと側で見たかったのに、どっかのバカのせいで見れなかった伯父さんの方が可哀想だ。おかげで進路も決まったんだし、もういいにしとけ。あんまりグダグダ言ってるとかえって悪いだろ」
「うん……」
意気消沈したままローファーを穿き、くるみは兄に続いて残暑の厳しい海辺の風を浴びる。
(……楽しかったなあ、今年の夏休み……これでライブ行ったら、あとは文化祭か……どんなに楽しくても、終わっちゃうんだよね、いつかは……)
突き刺すような八月の末の朝日に目を細めながら、くるみはスカートのポケットから自転車の鍵を取り出した。
その日の昼休み。
少々冷えすぎなくらいに除湿運転を効かせた軽音楽部の部室の中で、ベース担当の藤枝祐華が机の上に手書きの名簿とチケットホルダーを出して、部室全体に声をかける。
「はーい、それじゃ皆さん、ひとり2000円お願いします。でも先生は学割が利かないんで、2500円です」
「あはは、残念だな」
「ヒゲ剃って学生のフリしたらいいじゃないすか、たぶんイケますよ?」
冗談を言いながらポケットから財布を出した顧問の興津大地に、部長でドラム担当の伊東隆玄がせこい答えを返す。
「何言ってるんだ、そんな狡い真似したってすぐにばれるよ。……はい、藤枝。あとはその場でお金を払って、何か飲み物を頼めばいいんだっけね」
「はい。600円ちょうど用意しといてほしい、ってお兄ちゃんが言ってました」
「だそうだ。みんな忘れないようにね」
彼の言葉に、部員たちはきれいに揃って、はい、と返事をした。
緑色の厚紙で出来たチケットを現金と引き換えに祐華から手渡され、くるみはほんのりと寂しい気持ちになる。
(……今年の夏は、本当に盛りだくさんだったなあ。反動が大きそう……)
去年も去年で大きなイベントはいくつも――とりわけ、興津との秘密の恋が始まったことなどもあって、激動と言えば激動だったのだが、あまりにも刺激が多すぎて麻痺してしまうのではないかと思うほど、今年の夏はさまざまに心が揺れ動いたことを、くるみは身体の芯から感じていた。
(きっとこんな夏、二度と来ないかも知れない。せいいっぱい、残りも楽しもう。ステージだって、どんなに楽しくても終わっちゃうじゃない。終わりがあるから、全力が出せるんだ)
手の中にある、祐華の兄の紘輝のライブのチケットをしばし眺めると、くるみはそれを財布の中に丁寧にしまう。
(とりあえず、何着てくか考えようっと)
くるみは心を浮き上がらせる事柄を考え、口角を上げた。
「さーて、そんじゃ行程の説明ねー。今回の遠征は、高速バスだと首都高がめっちゃ混むらしいから新幹線だよー。駅前に九時集合だから、ソフィアちゃんは八時半に駅に来てねー」
「もー、部長、少しはアタシのこと信用してくださいよ」
「今日遅刻してきた人のセリフじゃないっすよ、ソフィア氏」
隆玄にブーイングするものの、あっさり隣の掛川凛子からストレートを食らい、松崎ソフィアが肩をすくめて舌を出す。
「向こうに着いたら、どっかでお昼食べて、その後は新宿のでかい楽器屋さんでうろうろして、五時過ぎたら歌舞伎町に移動する。で、六時から開場、六時半開演。そんな感じだねー」
「ちょっと待て、なんかアバウトすぎんか? どっかで飯食うってどこで食うんだよ」
あまりにもざっくりした行程の説明に、三年生の島田太陽が不安そうに問う。
「いやあ、だってどこの店がいいとかわかんねーもん、たぶんハンバーガー屋とかファミレスになるだろうしさ。それとも近くにでっかい公園あるみたいだから、テイクアウトして、そこでピクニックでもする?」
「新宿御苑ですか? あそこは入園料がかかりますし、場所によってはカラスが凄いですよ」
「うああ、入園料はともかくカラスはやだ……そもそも日に焼けそう……」
隆玄の提案に答えた二年生の菊川ミチルの言葉を聞いて、くるみは首を横に振る。
「僕もどこかいいお店ないか調べたけど、みんな予約必須で入りにくそうなんだよね……」
「ビュッフェなんかもどっちかと言うと大人向けのばかりで、わたしたちにはちょっと無理な雰囲気だわ」
一年生の舞阪敦哉と、その幼馴染である隆玄の妹の紗雪が、それぞれスマートフォンを眺めながら肩を落とす。
「でも、せっかくだから変わったお店で食べたいよなあ」
「それな。チェーン店でも構わないから、あまりこの辺じゃ食べられないものが食べたい」
腕組みをして悩む敦哉の親友の森翔琉のしみじみした物言いに、三年生の磐田政宗が大きくうなずく。
「居酒屋さんのランチタイムは……やっぱやめた方がいいですよね、ただでさえ誤解されそうなことしてるのに……」
「当たり前だ。今回は私が引率するから特別に許可が出てるが、君たちは本来ならライブハウス自体、出入り禁止だからね。飲酒を疑われるような機会は避けたい」
自分で自分の提案を取り下げたソフィアに興津が答える。
「お兄ちゃんに聞いても、ラーメン屋さんかカレー屋さんしか出てこないだろうし、そうするとこの人数で入るのは迷惑よね……」
祐華もすっかり困り果て、ため息を吐いた。
「ミチルちゃん、どっかいいお店知らない?」
「ごめんなさい、東京にいる間はほとんど個人的に外出したことがないので、わたしもお答えできるようなお店は知らなくて……」
「そっか……」
くるみとミチルも頭を抱える。
「いっそ、みんな各自で好きなとこ入ってバラバラに……」
「それ、この間迷子になった本人が言うか? 絶対ダメだよ、二度と会えなくなる」
前科がある自覚のない翔琉を敦哉がたしなめる。
「……もうバーガー屋でいいにする?」
「つまらんなぁ……」
太陽と隆玄が諦めモードに入る。そのとき、
「?」
くるみのスマートフォンから個別チャットの着信音が聞こえ、彼女はなんの気なしに画面をタップする。
(あ、伯父さん……)
そこには久しぶりに我が子と頬を寄せ合い、幸せでメロメロになっている翼の画像がある。
(ありすちゃんはともかく、伯父さんのアップは、あんまりありがたくないなあ……)
それでも親子が再会できた喜びに胸をなでおろしたとき、続けてメッセージが届いた。
【東京来るんだって? ありすの世話たくさん手伝ってくれたみたいだし、定期演奏会のときに奢れなかった分も含めてお礼したいから、どっかで落ち合って飯食おうぜ?】
「……うああ、渡りに船だ!」
くるみは目を輝かせ、スマートフォンを思わず握りしめる。
「うん? なあに、くるみちゃん?」
「うふふ、やっぱり赤ちゃんは人を幸せにする力があるんだなあ……!」
自分の言葉にきょとんとした祐華ににやりと笑ってから、どこからどう見ても娘可愛さで浮かれポンチになっている翼に、くるみは無茶振りをすることにした。
「……本物だ、本物の『神崎翼』様が、ここにおわす……! イベントに行かない限り、生でご尊顔を拝見することはないと思ってたお方が、この距離で今、わたしの目の前に……!」
東京駅の『銀の鈴』の前で、伊達眼鏡に黒いマスクを無精髭の顎に引っ掛け、白髪交じりのラフな髪にカンカン帽を乗せて、上品なデザインの腕時計を着け、モノトーンのアロハファッションでくるみたちを出迎えたその人の姿を見て、凛子が感動に打ち震える。
「凛子ちゃん、我慢しないと駄目よ。今日はプライベートだからね」
「わかってます、わかってますよ紗雪氏……でも、もうこんな機会一生のうちに二度と無いかと思うと、……ああ……」
「だ、大丈夫か、凛子ちゃん……」
卒倒しそうな空気を醸し出している凛子を、政宗は慌てて後ろから支えてやる。
「……生で声優さん見るの初めてだけど、やっぱりおしゃれだね」
「でも、それ以外は普通の人だね。今日の先生のほうがよっぽど人目を引くよ……」
自分たちの後ろに立つその人の方を思わず振り返りそうになって慌ててやめた翔琉と敦哉は、何とも言えない苦笑いを交わした。
「伯父さん、お疲れ様。今日はありがとうございます」
朝一の新幹線で先に妻子を家に送り届けてきた伯父に、くるみは歩み寄って微笑む。
「おう、くるみこそお疲れ様。俺たちの方こそ本当にありがとうな、みんなのお陰で頼子もありすも元気だし、親父とお袋もなんだか若返ったみたいにイキイキしてたよ」
周りに響かないようボリュームが控えめでも、よく聞こえる流麗な低い声で翼が答える。
「あはは、おじいちゃん、日焼けで真っ黒になってたでしょ?」
「ああ。なんか、昔、よく一緒に釣り行ったときの顔してた。よっぽど楽しかったんだろうな、新幹線の中でもありすの話題より、釣りの話ばっかりだったよ」
両親とゆっくり話したのも久方ぶりだったのだろう、翼は殊更嬉しそうな笑顔を浮かべると、
「どうも、伯父さん」
「よう、さっき振り」
今度はくるみの後ろからひょこりと顔を出した慎とハイタッチを交わす。
「後輩まで奢ってもらっちゃって悪いね、くるみが無茶言うもんだから」
「いいよ、気にすんな。ガチャに金突っ込むよりぜんぜん価値がある」
そして、
「……えっと、そっちが先生……?」
生徒達の後ろに立つ、黒いワイシャツにグレーのネクタイと白のスラックスを合わせ、胸ポケットに黒いサングラスを突っ込んだ、綺麗な口髭を蓄えた男性を見遣った。
車窓から見えるあれこれに、お上りさん丸出しで賑やかにはしゃぎ、中央線で新宿に移動したのち、これまた東口の巨大な書店やデパートの建物の圧に感動しながら、大通りに面したピザとパスタの食べ放題の店に入って子どもたちががっつく姿を横目に、それぞれにサラダやパスタを取った皿を挟んでから、翼は興津に少し白髪の混じった頭を下げる。
「本当に、いつも甥っ子と姪っ子がお世話になってます」
「いえ、こちらこそ、今日は生徒にご馳走していただいて……あの、私の分は後でお支払いしますから……」
「そんなのいいですよ、遠慮なさらないでください。定期演奏会のときに、いい歌と演奏を聴かせていただいたお礼ということで。あの時の『光るなら』、とても良かったです。僕の仕事仲間でも、あそこまで歌える人はなかなかいませんよ」
いかつい格好と真逆にすっかり恐縮する興津に、翼は笑って答える。
「……恐れ入ります、プロの方にそう言っていただけるなんて光栄です」
純粋に褒められたことが嬉しくて、興津は少しだけ顔を上げ、翼と目を合わせる。
(ああ、……なんとなく面影が似てるな、目元がそっくりだ)
隣のテーブルで、友人たちとわいわいおしゃべりしながらピザをぱくついている恋人とよく似たまつげの長い目に、彼は少しだけ緊張が凪いだ。
「いやあ、本当に素晴らしかったですよ。僕はネットでいじられるくらいひどい音痴なんで、歌える上に演奏ができるっていうだけで別次元です。……あれだけの腕をお持ちなのに、どうして教員のお仕事を選ばれたんですか?」
「え……ああ、いえ、家庭の事情で……」
それでも出会ったばかりの人間に詳細を話す気にはなれず、興津は曖昧な笑みを返す。
「やっぱり、ご家族に反対されたとか?」
「そんなところです」
自分を育ててくれた祖父母の側を離れ難かったから本心を話さずにいたという本当の理由も、差し出された平凡な答えでごまかす。
「まあ、普通はそうですよね。うちは逆だったんでどうにも……」
「逆……?」
ぽつりと漏らした翼の言葉を、興津は思わず生徒の話を聴くときの癖で拾ってしまう。
「ええ。うちはお袋がいわゆる『ステージママ』だったんで、俺も花音も幼稚園に上がる頃には地元の児童劇団に入れられて、CM出たりモデルとかやらされてたんですよ。自分が本当は女優になりたかったのに、家族に反対されて出来なかったから、俺たちに自分の願いを託したんです。俺はともかく花音は本当に可愛かったからなあ、あの子が東京に行ったとき、お袋は自分のことみたいに喜んでましたよ」
翼は一口水を飲んでから、慣れた様子で先を続ける。
「だから、花音が女優やめて義兄さんのとこに嫁に行くって言ったとき、お袋は凄まじい勢いで反対して、そこから慎が生まれるまでずっとギクシャクしてたんです。生まれた途端にそれまでのことが嘘みたいに丸くなったから、孫の力は偉大だなあって横で見てて思いましたね」
男子部員たちと一緒に席を立ち、二回目のおかわりを取りに行く甥っ子の姿を目で追って、翼は笑みをこぼす。
「花音はよく『子供の人生に親のレールは敷きたくない』って言ってました。……その言葉のとおり、あのきょうだいはいろいろありましたけど、自分の意志で自分の人生を自由に歩いてる。でも、きっと妹のその気持ちも、お袋と同じ『エゴ』なのかもしれないなと思いますよ。芸能人の子供を地方都市で、一般の家庭の中に混じって育てるなんて無茶だ。特に上ふたりは目に見える形でしわ寄せがありましたから、本当なら都内住まいで、芸能人御用達の一貫校にやれば、また違ったのかもしれないですね」
「……」
滔々と心地よい声色で語られる、極めて冷静な、そして残酷な言葉に、そうなっていたら自分は今どうしていただろうか、と考え、興津は返答に窮したまま、皿の上のミートボールパスタを無意味につついた。
「……でも、人生に『もしも』も『やり直し』もない」
店の喧騒をすり抜けて、翼の声が深い現実感を伴う響きで興津の耳に滑り込んでくる。
「どんなにたられば話をしても、セーブポイントはないし、死人が生き返る魔法もなければ、時間を戻すことも出来ない……どんな命だってこの世では一度きりで、毎日がやり直しのきかない本番なんですよね。やりたいことが出来なかったとしても、選択肢を間違えても、嫌なことや苦しいことが続いても、それはそれで抱えて受け入れて、その先にいいことがあると自分を励まして、騙して、なんとか生きていかなくちゃいけない……妹たちの選択は、傍目から見れば間違っていたかもしれませんが、今ああやって二人が笑って友達と一緒にいるのを見てると、そうでもなかったんだろうと思えます」
皿の上のペパロニピザにタバスコをかけながら、翼は続ける。
「俺、本当は高校卒業したら、漁師になろうと思ってたんですけどね、船酔いが酷くて諦めざるを得なくて。それでやけになって大学行かずに上京して、小劇場で芝居やってたんです。そのうちにやっぱり芝居が楽しくなっちゃって、そこからズルズル昔の伝手を頼って……結局お袋が敷いてくれたレールの上に戻るしかなかった。……俺みたいな仕事、よく『好きなことして金儲けしてる』みたいに言われますけど、好きだけじゃ絶対に続かないし、楽しいことばかりじゃないって思わず言い返しそうになるくらい、辛い時もあります。でも、俺が今この仕事をしていなければ、娘は生まれてこなかったし、妻と出逢うこともありませんでした」
おすそ分けと言うにはあまりにも尋常ではない量の喜びを押し付けるように、翼は幸せいっぱいの笑顔を興津に向ける。
「娘が生まれたとき『自分の選んだ道は間違ってなかった』って、四十五年生きてきてやっと思えました。そう思わせてくれた妻と出逢えたことは本当に幸運ですし、自分を芸能界に入れたお袋も、それに反対しなかった親父のことも許せました。今は少しだけ、妹の気持ちもわかる気がします。慎とくるみも、これからそう思える日が一日でも多ければいいと思いますよ」
そこまで喋りに喋ってから、はたと翼は我に返って慌てる。
「ああ、すみません、僕ばかり喋っちゃって。聞いてくださってるからって、つい……」
「……いえ、お気になさらないでください」
背負ったものの重さを感じたくなくて、幸福そうな人を見ることに怯えていた自分が、今まさに幸せしか感じていない人を目の前にしても、心が揺らがないどころか、自身まで顔をほころばせていることに改めてほっとしながら、興津は翼に答える。
「先生、これからも二人をよろしくお願いします」
「もちろんです。……二人とも優秀な生徒ですから、私も教わることばかりです。日々勉強させていただいて、私こそありがとうございます」
「いえいえ」
興津と翼はともに頭を下げ合ってから、同時に顔を上げて微笑みを浮かべる。
「そろそろ食べましょうか、冷めちゃいますし」
「ええ」
そう翼に促され、興津は人肌までぬるまったパスタを、フォークに丁寧に巻き付け始めた。




