第116話 ―第五幕エピローグ―
多少の隙間はあるものの、ほぼ満員になった車両の中、通路の真ん中あたりに追いやられてしまった軽音楽部員たちと興津は、どうにか女子生徒を他の乗客から守るように囲みつつ、短いはずなのに長い長い帰りの線路の上で揺られている。
「こんなに混んだ電車乗るの、大道芸ワールドカップの時以来だわ」
「……これ、やっぱ乗り過ごすほうがいいよな……」
くるみと背中合わせの祐華を腕に抱いた慎が、誰ともなく呼び掛ける。
「この位置だと多分、富士山駅では降りられませんね。……ミチル、大丈夫?」
「なんとか……乗り過ごした先で降りてから連絡して、そこからバスで帰る手筈にしましょうか」
人の中にすっかり埋もれてしまったミチルが、くぐもった声で太陽の胸元で答える。
「じゃあ、せっかくだから下吉田まで行けるかな? ひとつ思い出したこんがある」
「しもよしだ?」
自分を深く抱き留めてくれている興津の言葉に、くるみはままならないでも首をかしげる。
「思い出した、って、いったい何があるんです?」
「それは着いてのお楽しみだよ」
妹を敦哉とサンドイッチしながら車内で足を踏ん張る隆玄に、興津が楽しそうに答える。
「……これ、次で降りないといけない人、すごくぐいぐい来るわよね、きっと」
「間違えて巻き込まれないでよ、翔琉。もう助けに行かないからね?」
「あははは、大丈夫だよ、ほんとごめんて」
本部で引き渡されたとき、どこで買ったのか、ケミカルライトの腕輪をじゃらじゃらと付け、水に濡れたスーパーボールが入ったビニール袋をぶら下げ、首からは白い犬のキャラクターのハッカパイプ、頭には戦隊ヒーローのお面と水色に光るリボンのカチューシャをつけた、どう見ても花火よりも出店を満喫した姿で全員を呆れさせた翔琉は、さすがに興津からややきつめに叱られたのが堪えたのか、紗雪とソフィアに申し訳なさそうに返事をする。
その隣で、
「……す、すんません、なんか張りついちゃって」
「いや、俺こそ……別にやましい気持ちは、その、ないもんで……」
顔が赤いのは息がつまっているせいだけではないことが明らかな、両手を上げた間抜けな格好で立つ政宗の身体に、同じかそれ以上に顔を赤くしてべったりとしがみつく凛子の二人は、近すぎる距離に奇妙な緊張感を持って互いの身体の温かさを感じていた。
富士山駅と月江寺駅を過ぎて、半分になった乗客の中でやっと息を吐いてから、くるみたちは下吉田駅のホームに降りる。
「あれ……結構、人降りますね」
「今日は少し、特別な日だからだろうね、ファンにとっては」
「ファン?」
「まあ、すぐにわかるよ」
くるみの疑問に興津は答えを出さず、周りにいる部員たちに声をかける。
「みんなちょっと、この辺にいてくれ。……菊川、それじゃあ迎えに来てもらえるように、お願いしてもらってもいいかな。運が良ければその間に、河口湖行の電車が来ると思うから、このままホームでしばらく待とう」
はい、と控えめな声でばらばらな返事が響いたとき、乗ってきた電車のドアは閉まり、終点の大月に向かって滑り出していく。
バックパックを背負ったラフな格好の外国人や、浴衣姿の若者が、遠くに見える改札をくぐり、星明かりの清かな蒼い夜に浮かぶ黒い富士山の麓の町へと消えてゆく。
その胸元からきらきらと山小屋の明かりをネックレスのようにきらめかせる姿は、自分たちの暮らす街からは見られない、富士山の別の顔だった。
「……去年も見たはずなんですけど、見るたびに大きすぎて感動しちゃいますね」
「そうだね。これは静岡と山梨で論争が起きても仕方ないな、どこから見ても趣があるから」
興津と隣り合って、指先が触れない程度の距離を開けながら、くるみは秋の匂いがほんのり混ざる山際の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
白いペンキのはがれかけた待合室の屋根の下で、
「明日でこの街ともお別れかぁ、この涼しい夜だけでも、持って帰れねーかなぁ……」
去年の夏休み、こちらの気候と変わらない季節の移り変わりを想定して降り立った地元の駅のホームで思わず叫んだほどの暑さを思い出し、隆玄がぼやく。
「無茶言うな。……でも、そっか。俺は来年、こっちの合宿来れるかわかんないんだよな。推薦の条件が剣道部入るの必須だから、そっちで合宿あったら優先しないとだめだろうし、下手に音楽やってるってバレたら、先輩からの当たりもきつくなるだろうから……」
ふと思い出した事柄の寂しさに、隣にいた太陽がため息を吐く。
「……俺も合格したら京都だからな、なかなかこっちに来ることは難しいかもしれん」
一年生たちと賑やかに会話する凛子をちらと見てから、
「京都も暑いっていうよなあ、盆地だから。……俺、生きていけるかな……」
今から来年の夏のことを想像し、政宗はしんなりとしおれた。
「……なんかさ、俺たち、別にプロになるわけでもないけど、真剣だったよな、音楽のこと」
隆玄がふとこぼした言葉に、太陽がうなずく。
「そうだな、紘輝先輩みたいにギターで食っていきます、っていうわけじゃないけどさ、バカみたいに全力出した気がする。俺なんか特に、自分でもめちゃくちゃだったと思うよ」
「あはは、俺ほんとに心配だったよ、湿布して薬塗りながらギター弾いてたもんなぁ」
一昨年の夏を思い出して、二人は小さく笑う。
「……りゅーげん、俺のこと、軽音楽部に誘ってくれてありがとな。俺、あんなことがあっても、音楽が好きなままでいられたよ。りゅーげんが声かけてくれなかったら、どうなってたかわからない」
「いいって、そんなの。……あんな場所であからさまにへこんでる人間に、話しかけない方がおかしいだろ」
吹奏楽部を無理矢理退部させられた翌日、未練を断ち切れぬまま渡り音楽室の前で座り込み、自分の担当していた楽器の音がしないかと耳をそばだてていた太陽を見つけたその日。
同じクラスの彼の、やつれて縮こまった姿に思わず立ち止まり、まるで捨てられた子犬のようにこちらを見上げた目に「放っておいたら良くない」と直感した真夏の朝のことを思い出し、隆玄の胸にちくりと古い棘が刺さる。
その棘の痛みを心の中に丁寧にしまい込んでから、隆玄は長い腕を伸ばすと、頭の後ろに両の手のひらを置いて、わざと明るい声を出す。
「音楽って楽しいよなぁ、やっぱ。俺、医者になっても、一生ドラムは叩き続けると思うわ」
「ああ、俺もたぶん、ギターは死ぬまで弾いてると思うよ。上手いか下手かは別としてさ」
二人は顔を見合わせて笑い、ふと、隣でスマートフォンの画面を眺めている政宗の方を見た。
「なあ、政宗。お前も大学行っても、DTMやるんだろ?」
「え?……ああ、そりゃもちろん。……というか、今、少し考え始めてることがあってさ」
政宗はスマートフォンの画面を落とし、袖の中にしまう。
「え、何?」
「……もう一つか二つ曲を作ってみて、それからになると思うけど……まだ言えないな、文化祭の後にでも話すよ」
「なんだよー、勿体ぶっちゃって」
隆玄と太陽に脇腹と背中を肘でつつかれながら、彼はついに100万再生を超えた自分の曲に、確かな『音楽の作り方』の手ごたえを感じていた。
「星がきれいね」
「うん。街明かりがそこまで賑やかじゃないからだろうな」
肩を寄せ合い、手を繋いだ紗雪と敦哉が同じ角度で夜空を見上げる。
「……ブラジルの夜空は、ここと違うんだろうなあ」
不意にしんみりとしたソフィアの声がして、そこにいた一年生たちは一斉に彼女を見る。
「ソフィア氏、ブラジルに行ったことないんですか?」
「ないよ。海外もそうだけど、修学旅行以外で県外に出たこと、あんまないかも」
「へえ、なんか意外だね。割と頻繁に行き来するのかなって思ってた」
「アハハ、そんなこんないよ。うちはそこまでお金持ちじゃないし、ブラジルの親戚とは一度も会ったことないんだ。ママもこっちに帰化しちゃったしね」
翔琉にそう笑って返すと、彼女はもう一度空を仰ぐ。
「でも、行ってみたいなあ。ブラジルもそうだけど、アメリカもアフリカもヨーロッパも、……もっといろんなところに行って、いろんな人と出逢ってみたい」
「ワールドワイドね、ソフィアちゃん」
「英語しゃべれるんだから、キャビンアテンダントとかになればいいんじゃない?」
「ううん、アタシどっかの組織に属するっていうの、たぶん向いてないよ。……いっそのこと、バックパッカーにでもなっちゃおうかなあ、楽しそうだもん」
「いやあ、さすがにそれは今日半日で感化され過ぎでは?」
紗雪と敦哉の提案に否定の仕草を返したソフィアの口から出た単語を、凛子が咎める。
「でも、なりたいものか。もう来年の今ごろには決めとかないと、受験に間に合わないよな」
腕を組み、翔琉が不安そうにつぶやく。
「音楽は続けていきたいっすけど、それで食べていけるほど器用でもないし、挑戦する気持ちもないっすからね。藤枝先輩の話聞いてると、やっぱり芸事はリスキーだって思うっすよ」
紘輝から聞いた音楽学校やバンドの話を思い出し、凛子が深いため息を吐く。
「……まあ、今はあまり深く考えるのやめよう。まだ僕たち、月末にライブも観に行くし、文化祭だってあるし、高校入ってまだ半年も経ってないんだからさ。先生がいつも言ってるように、まずは何よりも、音楽を楽しもうよ」
「……そうよね、音楽を楽しむ。……大事よね……」
敦哉の言葉にみんながうなずいたのとはまた違った意味で、紗雪は同じ仕草をとり、彼の手を握る指にわずかに力を入れる。
(……もうすぐ一年……)
見上げた空の上をゆったりと点滅しながら流れていく飛行機の赤い光を目で追いながら、彼女は去年の夏の終わりに自ら命を絶った、かつてのクラスメイトの丸い背中と笑顔を思い出す。
(きっと今頃は、どこか新しい家族のところに生まれて、幸せになって……)
調査委員会から、『これはあなたが持っていなさい』という趣旨の短い手紙が添えられ、手元に舞い戻ってきた遺書の中の最後の一文を、心でなぞる。
(助けられなくて、ごめんね。……でも、わたしは、自分の人生をこれからも生きて、前に進むから。終わってしまったあなたの命を背負うことは、もうしない。辛くても苦しくても、たった一度だけの、このわたしだけの命を生きていくから……だから、もしも生まれかわっているなら、次は自殺なんてしないで、最後まで生きてね)
時間と音楽という薬が効き始めたのだろう、紗雪はあの日から自分にかかっていた『罪悪感』という呪いが解け、澄んだ空気の中で透明に溶けていくような気がしていた。
「紘輝のライブ、再来週だっけね。また泊まるところ貸してもらっちゃって悪いね、ミチルちゃん」
「いえいえ、お安い御用です。わたしも久々の里帰りですから」
待合所の屋根から少し離れた場所で、頭を下げた慎にミチルがにこにこと答える。
「調べてみたら渋谷は新宿から近いし、ライブの終わりは九時過ぎって言ってたから、そこからお兄ちゃんたちと話をしても、十一時までには余裕持って着けそうね」
慎の隣に立つ祐華が、既に待ちきれない様子で笑顔を浮かべる。
「そうですね。いざとなったらタクシー使えばいいですし」
「うおお、発想がブルジョワだな……いやまあ、それは置いといて。なんか、紘輝もミュージシャンになったなあ。この間までただのギター小僧だと思ってたけど、高校の時と全然弾き方が変わったよ」
さらりと出てきた単語に驚きつつ、慎は自分の後輩に思いを馳せる。
「そうですか?」
「うん、なんていうか、……うまく言えないんだけど、テクニックとかじゃなくて心構えが変わった感じ。楽しい、って気持ちだけで弾かなくなったっていうのかな……もしかしたら、最初のライブで何か掴んだのかもな」
「そっかあ、……うふふ、かなり大変だったって言ってましたから、トラブルの対処で経験値増えたのかも」
慎からの率直な評価に、祐華は我が事のように喜んで顔をほころばせる。
「演奏にはお人柄が出ますものね。次のライブもきっと、藤枝先輩は素敵なギターを聴かせてくださいますよ」
ミチルの優しい言葉に祐華はうなずくと、軽く息を吐いて星空を見上げる。
「そうね。プロになれなくても、それはその時で、お兄ちゃんには今のうちにやりたいこと全部やり切って欲しいな。いつもお兄ちゃんだから、跡取りだから、って我慢させられてばっかりだったし、わたしのこともあったから、ずっと迷惑かけて気を遣わせちゃったもの……」
「紘輝、彼女が出来て良かったよ。たぶん俺たちに話せないようなこと、いろいろ愚痴ってるんじゃないかな?」
「そうかも」
華奢な祐華の肩を抱きながら、慎も花火の欠片のように空に瞬く星々を見つめる。
「……すごいですね、天の川があんなにはっきり見える」
「さっき調べたらさ、このすぐ近くに、あの富士山と五重塔の写真で有名な山、あるらしいね。そっから見たら、もっとよく見えるんだろうなあ」
祐華と慎が緩い夏の夜に浸るのを邪魔しないようにそっと離れると、ミチルはホームの先端に目を遣る。
「……あら? あの方たち、何してらっしゃるのかしら」
自分たちとはまた別の若者の集団が何やら動画撮影を始める。
そのとき、
【間もなく、河口湖方面行きの電車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側に、下がってお待ちください】
反対側の踏切からレトロな本物の鐘の音が響く警報音と共に、今度は続けて英語で同じ内容を呼び掛けるアナウンスが聞こえた。
「みんな、ちょっとお喋りをやめて聴いててごらん」
興津が部員たちに呼びかけると、彼らは言われた通りに会話を止め、ぱらぱらと集まりながら、遮断機の古い鐘の音に耳を澄ませる。
そしてもう一度同じアナウンスが流れた後、ふわ、と柔らかくギターとピアノの音がスピーカーから流れ始め、部員たちは顔を見合わせた。
「歌だ……」
「うん? 何の曲?」
「珍しいですね、音源そのままなんて」
初めて聴いた人間のリアクションをとる翔琉と敦哉と紗雪が、首をかしげる。
「……ああ、先生が聴かせたかったのって、これっすか……!」
隆玄が感動を隠さない素振りで興津を見遣ると、彼は満足そうに微笑んでうなずく。
大月方面から静かに滑り込んでくる二両編成の電車のヘッドライトが、線路の枕木に柔らかい影を作る。
彼らはホームのひんやりした夜風にさざ波のように広がる、センチメンタルな歌詞と伸びやかで透き通った歌声が終わるまで、静かに耳を傾けた。
がら空きの車両の窓ガラスから明るく白い光をホームに落としながら、目の前に止まったドアが、チャイムと共に開く。
すぐ側から大急ぎで車内に乗った、大きなキャリーケースを引きずったアジア人の女性たちが、撮影した動画を眺めながら嬉しそうに笑っている顔が見え、くるみの頬からも笑みがこぼれた。
「フジファブリックの、『若者のすべて』……お母さんのiPodにも入ってたよね、お兄ちゃん」
胸が優しく締め付けられるような歌声と切ない旋律に、くるみの目頭は熱くなる。
「うん。……ああ、そっか。このバンドの初代のボーカルの人、この街の出身だったんだっけ。もう十年以上前に亡くなられてるけれど……」
あまりのロマンチックさに感激しすぎて、何も言えずに口元を押さえる祐華の肩を抱いた慎が、思い出したことを妹に答える。
「そっか、それで……もう、歌っていた人がいなくても、こうやって音楽は残るものなんですね……」
感慨深げにソフィアがそう言いつつ、歌い終えたスピーカーを眺める。
「大月方面のメロディは『茜色の夕日』だよ。この街は、フジファブの聖地なんだ。毎年、クリスマスイブの前後には、防災無線の定時放送のチャイムも、フジファブの曲に変わるそうだよ」
発車のホイッスルが鳴り、さりげなくくるみの側に寄った興津は、かすかに愁いを帯びた声でそう説明しながら、ホームから藍色と黒の中に金銀の街明かりが散らばる方角へと動き始めた電車を眺める。
「あそこで動画撮ってたのは、きっとファンの人なんすね」
「ファンだけじゃなくて、ずっとこうして、地元の人に愛されてる曲なんだな。……俺もそんな曲、作れるかな……」
凛子と政宗が、改札へと歩き去って行く、星空にカメラを向けていた浴衣の女性たちを見て、それぞれに想いをつぶやく。
「こんな到着メロディ聴きながら、仕事や学校に行くなんて、めっちゃエモいなあ」
「素敵ですね……」
走行音と共に湧き起こった風にまぎれてしまう大きさの声でそう言いながら、太陽とミチルは手を繋ぐ。
片手で足りるほどの乗客を乗せた、青いラインに銀のボディの電車は、線路に淡い黄色の残光を丸く落としながら、静かに街中へと去って行く。
警報機の鐘が止まり、動画を撮影し終えた人々がはしゃぎながら歩く足音が消えると、辺りは改札からうっすら聞こえる誘導チャイムと、あたりの木々を揺らす風の音だけになる。
もうすぐ眠りにつく街の夜の中に柔らかくなじんだ歌声とメロディの余韻に、くるみたちはしばらくの間、山間の風の涼しさに少し冷えすぎた身体の奥を、優しく温めてもらったような心持で浸っていた。
「……先生、もしかして、前にもここに来たことあるんですか?」
バスが来たという連絡を受け、ホームから改札に向かうまでの間、花火の熱が冷めた夜の空気に肩を並べて、しんがりを歩く興津にくるみは問う。
「いや、私も初めてだよ。ニュースで見てから、一度は来たいと思ってたんだ。それに……」
彼はわずかに立ち止まり、河口湖の方に向かって伸びる線路を見遣って、
「この歌に出てくる花火が、今日の『湖上祭』の花火だっていうのは知ってたから、来ないといけない気がしてね」
そう言いながら彼女の方を振り向いた。
(……うああ、先生、ちょっともう、……エモすぎ……!)
興津のはにかんだ笑顔に、くるみは幾度目かわからない恋に落ちる。
星明かりと改札の白い光の中で見つめるその姿は、またひとつ、彼女の心に焼き付いて離れない、愛しい残像になった。




