第115話
湖の上に色とりどりの宝石のような花火が、ぼん、という音とともに広がるたび、黒山の人だかりから大きな歓声が上がる。
周りの山にこだましては湖に返るざわめきと破裂音の中、くるみたちは数えきれないほど感嘆の声を上げ、趣向を変えては繰り返される、はじけ散る光の洪水と化したスターマインに拍手を贈る。
ばりばり、と小割が心地良い音を立て、枝垂桜が湖面を照らし、時折上がる蝶やハートなどの型物に、菊や牡丹が華麗に赤青緑に白、銀、時には虹色に咲いて、燃えながら落ちる星々の中を蜂がしゅるしゅると飛び回り、夏の星屑をかき消さんばかりに夜空を彩る。
圧巻としか言いようのない量の花火は、今日この場にいる人々すべてに、かつてはこの時期に訪れていた夏の終わりを感じさせるかのように、華やかに輝いては散っていく。
その火薬の匂いと共に湖上を流れて行く白い煙さえも、くるみには眩く、そして切なく感じられた。
「……観に来てよかったです、ここに。これを観てなかったら、あの歌はきっと歌えない」
隣で一緒に息を詰めて空を見上げていた興津にだけ聴こえるように、くるみは話しかける。
「そうだな、だいぶ解釈が違っただろう。……やっぱり、自分で体験したことは大きな糧になるからね。これからももっと、いろいろなところに行って、たくさん新しい経験をしなさい」
そう言ってまた次の花火が、ひゅうう、と音を立てて昇っていくのを見た時、彼の手に乾いた温かい指が絡まった。
「……その時は、二人いっしょにね、先生」
どん、という重たい一尺玉の爆ぜる音に紛れて、くるみの甘い声が興津の耳に届く。
返事をするのは野暮な気がして、彼はただその手を優しく強く握り返した。
「……ねえ、さゆ」
「うん?」
部員たちの一番後ろ、少しはぐれた場所で肩を並べ、湖に映る光さえも眩しい景色を見ながら、敦哉は紗雪に声をかける。
「変なこと訊いてごめんな。……さゆは今、さ、……その、好きな人、いたりする?」
「えっ……」
思わず花火から目を離し、紗雪は飲んだ息の先に続ける言葉もなく、ただ敦哉の横顔を見る。
「いや、ちょっと思い出したんだ、……保育園の時さ、俺、自分の家のこと何にも知らなくて、……さゆのこと、お嫁さんにする、なんて言ってたなって。ほら、年長の七夕ん時にさ、園庭で花火やって、短冊書いて……もう、さゆは覚えてないかも知れないけど、あの日は俺が小さい頃の、一番楽しかったことだから……今、花火見てたら思い出してさ」
彼の目は輝く光の破片を見つめながら、自分の心にとどめを刺して殺してしまおうとするかのように、暗い色を帯びる。
「知らないって、本当に怖いよね。知っても変わらないけど、……俺、バカなこと言ったなあって思うよ。俺んとこに来たって、あんな父さんと母さんがいたんじゃ、何も楽しくもないし、……幸せになんかできゃしないのに……」
自嘲の色を浮かべた敦哉の瞳が、夜空を光で埋め尽くしたスターマインを映して深く潤んだ。
「本当に、ちょっと思い出しただけなんだ。……もしもさゆが、それを覚えてて、その言葉に縛られて俺の側にいるだけなら、……もういいよ、って思ったから」
「……」
「さゆ、医者んなるんだろ。そんなら俺は看護師になって、さゆの手助けをしたいと思ってる。……でも、俺にできるのはそこまでだ。さゆを普通のお嫁さんみたいに幸せにするなんて、俺には出来ない。あんな父親と母親の血が流れてる、俺には無理だ……」
首を横に振って懸命にその言葉を否定する紗雪に見向きもしないで、敦哉は長い橋の下から紺青の空に高く高く上った一尺玉の行方を目で追う。
「俺、好きな人には、幸せになって欲しいからさ。だから、さゆを好きになって、幸せにしてくれる人の側で、ずっと笑っててよ。俺はそれを側で見ていられればいい」
天空に大きな枝垂れ菊と、盛大な爆音が響いた。
「……やだ」
自分の腕に柔らかい身体が抱き着いて、敦哉は堪えていた涙を悟られないように目を見開く。
「格好つけて嘘つくあっくんなんか嫌い。自分で自分のことそんな言い方して、わたしが納得すると思った?……おじさんとおばさんなんかどうでもいいよ、あっくんはあっくんでしょ。……わたしはあっくんがいればいい。誰から生まれたとか、そんなのは関係ないよ」
怒りと悲しみと、それ以上に溢れて止まらない愛おしさで、敦哉の腕に紗雪の指が食い込む。
「ずるいよ、あっくん。そうやっていい人ぶっておためごかし言って、……自分以外にわたしを幸せにできる人なんていないって知ってるから、そんな言い方するんだ。嫌い。大っ嫌い。……わたしがどんなにあっくんのこと好きか、わかってるでしょ……勝手にわたしの気持ちまで巻き込んで、否定しないでよ……」
「……」
「ちっちゃい頃から、あっくんのお嫁さんにしかならないって決めてるの。……約束したの覚えてるなら、今更反故にしないで……」
爆音とともに青と緑と銀色の舞い散るスターマインを見ようともせずに、紗雪は敦哉の肩に顔を埋める。
「……ごめん、さゆ。今のは俺がずるかった」
白い浴衣の背中に手を置いて撫でながら、涙で幾重にも揺らいだ火花が胸に痛くて、敦哉は瞼を閉じる。
「……好きなんだ、さゆ。ずっと仲のいい幼馴染だって思ってたのに、……さゆのこと、女の子だって思うたびに、友達のつもりでいるの、すごくしんどくて……」
再び空に上がった一尺玉に、わあ、と周りから歓声が沸き、彼は涙を抑え込んだ目を開ける。
「わたしもだよ、……あっくんが側にいると、すごくどきどきして、心臓が痛くなる……他の女の子にとられたくないって思って、苦しくなるよ……」
借り物だと思っても止めることが出来ずに、紗雪は浴衣の肩口にぽろぽろと涙をこぼす。
「そんなことないよ、大丈夫。さゆが俺の親なんてどうでもいいのと同じくらい、俺も他の女の子なんてどうでもいい。……子供の頃、俺んちの事情知っても、いじめたり陰口言わなかった女の子、さゆだけだ。もしもさゆがいなかったら、俺、今ここにいたかどうかもわかんないよ。……ほら、泣いてないで観なよ、さゆ。すごくきれいだからさ」
水上に拡がる半円の光が映り込み、赤紫や緑に湖面のさざ波をきらめかせる景色を見せようと、敦哉は紗雪の肩を叩いてそちらを向くように促す。
「もう、……意地悪言って泣かせたの、あっくんでしょ」
「ごめんって。後でなんか屋台で欲しいのあったら、買ってあげるから」
「やだ、もので釣らないでよ。子供じゃないもん」
首元に頭を寄せ、身体を任せてきた紗雪を、敦哉は思い切って後ろから抱きしめる。
「……ねえ、俺たち、幸せになれるかな」
「なろうよ、一緒に。わたしがあっくんのこと、幸せにしてあげる」
「あはは、なんか不甲斐ないなあ……でも、今、こうして一緒にいるだけで、俺、めちゃくちゃ幸せだよ。……帰りたくないな……」
絞り出すような敦哉の声がずきりと胸を刺し、紗雪は自分を抱く腕を撫でる。
「高校卒業したら、一緒に東京に行こうよ。大学のお金だけ出してもらったら、後はいずみさんや大輔さんみたいに、縁切っちゃえばいいよ。だから、それまで頑張ろう、あっくん」
「うん……」
まだ涙の乾かない二人の瞳に、湖面から吹きあがる幾筋もの光が飛び込み、そのすぐ真上で激しい音を立てて金色の菊が幾重にも爆発する。
幼馴染の距離から、やっとあるべき場所に収まった互いの身体の熱は、周りを取り囲む人々の中に溶け込まない温度で行き交い、二人の心を満たしていた。
超新星爆発でも起きたのかと思うほど激しい光を放つ最後のスターマインが消え、湖の上は白い煙と湖面に映るホテルの窓明かりにかすむ、黒く長い橋のシルエットだけになる。
人々はまだまだ続く夏の陽気に明日から悩まされることを思いながらも、これでもっとも暑気の濃い日々が過ぎたことだけは確かだと肌で感じられる程度には涼しい風を受けながら、ぞろぞろと大きな波になって移動を始めた。
「あはは、紗雪ちゃん、それすごく可愛いね」
対になったスプリングの先端に光る星のついたカチューシャを付けた紗雪を見て、くるみが笑う。
「ふふ、あっくんに、そこの屋台で買ってもらっちゃいました」
「どうせ明日には消えちゃうと思いますけどね。でも、せっかくのお祭りだから」
そう言って手を繋いで今まで以上に睦まじく肩を並べる二人に、花火の間に何が起こったかをなんとなく察し、くるみは嬉しさに思わず頬が緩む。
「お前、あほっぽい」
スプリングの先を引っ張って離し、隆玄が妹をからかう。
「あほで結構です。お兄ちゃんだって人のこと言えないよ、ずーっとスマホで画像撮影してばーっかで、ちゃんと花火見てないんだもん」
「うっさい、生でも見たわ。それに俺は、麗ちゃんにも花火を見せるという使命がある」
スマートフォンの画像フォルダをタップしながら、兄は妹に反論する。
「お兄ちゃんは麗さんのことになると、途端にあほになるよね」
「黙れ、麗ちゃんはお前の将来の義姉なんだぞ。もっと敬え」
「麗さんのことは敬ってます、お兄ちゃんは違うけど」
「何ぃ?」
「まあまあ……」
仕様もない喧嘩が始まりそうなのを、敦哉が苦笑いしつつ間に入って止める。
「さて、駅に行く前に全員いるか点呼するぞ」
微笑ましい兄妹を見遣りながら、興津が自分の周りを見回し、ざっと誰がいるかを確かめる。
「牧之原っちと伊東んちに、舞阪、藤枝と……掛川も磐田もいるし、松崎もいるな。島田と菊川もいて……あれ?」
ひとりだけいない人間に気が付き、興津がぎょっとして視線の範囲を広げる。
「森は? どこいったんだ、その辺にいないか?」
「あれ? そう言えばいない……」
「うっそ、まじかよ」
「翔琉くん、駅でもはぐれそうだったし、もしかして人波に飲まれちゃったんじゃ……」
派手な浴衣の人影を探して、部員たちが冷や汗をかいたその時、
【えー、運営本部より、迷子のご案内をいたします。静岡県からお越しの、『もり かける』くんのお連れ様。静岡県からお越しの……】
「……あのバカ……」
「これはひどい」
「高校生で迷子はないわー……」
その場にいた『お連れ様』たちは、全員が頭を抱えた。




