第114話
富士山駅から乗った電車は、すでに満員に近い様相を呈していた。
「帰り、ここまで乗ってくるのはいいとして、降りるのキツイんじゃない? 間にもう一駅あるしさ」
祐華を腕に抱いて壁になりながら、慎が彼女と同じように太陽に抱えられているミチルに声をかける。
「そうですね、どこか先の駅まで乗り過ぎて、そこまで迎えに来ていただいたほうがいいかもしれません。……でも、運転手さんにも花火は堪能していただきたいですから、終わるまでは今の駅の駐車場で待機してもらいましょう。きっとあそこからならよく見えますから」
「ミチル先輩、やっさしーい」
ソフィアが隣からミチルをからかう。
「いえ、ぜんぜん。当たり前のことをしてるだけですよ」
後輩を軽くいなし、微笑んだミチルは太陽の胸にすっぽりと収まる。
「腹減ったなぁ、もう露店出てるといいな」
「駅についたら先にトイレにも行っておかないとな」
隆玄と政宗が会話する脇で、明らかに注目を浴びている凛子が不機嫌そうに窓の外を見遣る。
「凛子ちゃん、大丈夫?」
ここぞとばかりに興津にべったりとくっついて守られながら、くるみが声をかける。
「別にこの格好してるのも長いもんで、人に見られるのは慣れっこなんすけど、無断撮影されたのは嫌っすね。なんか一言くらい言えばいいのに」
「ソフィアちゃんが間に入ってくれなかったら、きっとまたわたしたち、SNSで拡散されちゃってたんだろうねえ……ソフィアちゃんが強気に出てくれて助かったよ、ほんと」
怪しい動きをした男がスマートフォンをこちらに向けたときにすぐさま気が付き、わざと流暢な英語で「失礼だ」「画像を消せ」「ロリコン」とすさまじい剣幕で詰め寄ったソフィアの周りは、騒動を目撃した人々のおかげで若干の隙間が空いている。
「終点の駅はもっと人がいるんだろうなあ、外国人も多そうだし、気をつけないと……」
「できるだけ固まって行動しないとな。はぐれたときの待ち合わせ場所を先に決めておこう」
胸元でぼやいたくるみの言葉を拾って、興津が答える。
「翔琉、迷子にならないでよ?」
「あっはは、大丈夫だよ。ちっちゃい子供じゃないんだから」
「心配だわ……」
自身を囲むように立っている敦哉と翔琉の会話に、紗雪が一抹の不安を覚える。
そうこうしているうちに、二両編成の短い電車は地元の遊園地の名前を冠した駅についた。
「ここの遊園地もいつか来たいねえ、新しいコースターも出来たっていうし」
窓から見える絶叫マシンの根元と、うっすら聞こえる悲鳴に慎が楽しげに微笑む。
「祐華ちゃん、絶叫マシン平気?」
「はい、ここも何回か来ました。あんまり楽しかったから帰りたくないって駄々こねて、叔父さんを困らせたくらいで……」
慎の問いににこにこと答えた祐華に、くるみは意外な彼女の一面を見て驚く。
「え、祐華ちゃん絶叫系大丈夫なの?」
「うん。くるみちゃんはダメ?」
「だめだめ、昔乗ったらその後動けなくなっちゃった。見てるだけでお腹いっぱい」
幼稚園の卒園記念に訪れたテーマパークで、かなりマイルドなジェットコースターに乗っただけで半日ぐったりしていた記憶が蘇り、くるみは窓の外に遠く見える恐ろしくえぐれた角度の黒いコースターや、駅舎の側でぐにゃぐにゃときりもみで回転上下する乗り物に戦慄する。
「別にお前を連れてくわけじゃないから関係ないだろ」
「なによ、別にデートに割り込むほど野暮じゃないもん」
「まあまあ、こんなところで兄妹喧嘩はやめなさい」
興津になだめられ、慎とくるみは双方の剣を鞘に納める。
「先生は乗れますか? 絶叫マシン」
慎の問いに、興津はやや表情を曇らせる。
「……いや、私も苦手だね。小さい頃はそうでもなかったんだけど……」
その顔の理由に思い当たりがあるくるみは、先ほどより詰まった人波に紛れて、そっと彼の背中に手を置き、優しく撫でる。
「……」
彼がわずかに自分に身を預けてくれたことに安心しながら、彼女は頬を寄せた熱い肌から香るいつものコロンのミドルノートを吸い込んで、終点に着くまで黙って彼の心音を聞いていた。
「ぶっはあ――――――っ、やっと息ができる――――!」
終点のホームに降り立った凛子が大げさに肩を上下させる。
「なんかすごいなぁ、乗客の半分くらいが外国人だ」
後からぞろぞろと自分達を追い越していく人々は、地元の人間より国内外の観光客が大半という比率だろうか、隆玄が自分たちの街では見かけない光景にあっけにとられる。
「完全にニューヨークみたいになってますね」
「たぶん、アジア系の人に日本人だと思って話しかけたら外国人だったりするんだろうな。電車の中で聞こえてきたのが、すでに日本語じゃなかったから」
同じくびっくりしているミチルに崩れた帯を直してもらいながら、太陽が人波を目で追う。
「すごいわ、港の花火大会と雰囲気がぜんぜん違う……」
「桟敷席ないみたいだしね、あんまり近くまで行かんで、少し離れたところに陣取ったほうが賢いかもしれない。下手に前に行ったら潰されちゃうよ」
「ちっちゃい子なんか連れてきたら、えらいこんになりそうですね……家から見える人は家から見るんだろうし、この辺のホテルも満員なんだろうなあ」
不安げな祐華の肩を抱いて考えを巡らせる慎の隣で、敦哉が相槌を打ちながら駅の周りの建物を眺める。
「浴衣の子は、みんなこっちの学生なんでしょうね」
「これはこの辺の先生っちも見回りが大変だろうな、人出が違う」
きゃあきゃあとはしゃいで自分達を追い抜いていった少女たちの鮮やかな浴衣の背中を見て呟いたくるみに、興津が教師らしい感想を述べる。
「……あれ、森くんは?」
「ほんとだ、いない」
ふと、派手な浴衣姿の少年の姿が見えないことに気づいた紗雪とソフィアが声を上げる。
「まさかもう迷子になったんじゃないだろうな……あ、いたいた。おーい!」
興津のよく通る大きな声にホームの人々が数人振り返るが、その中で一人流れに乗って改札に向かっていた翔琉もこちらを見たことに、部員たちは安堵の息を吐いた。
「……じゃあ、はぐれたと思ったらまずチャットに連絡を入れること。そのうえで、ここの建物の前で待機、ってことにしよう。とにかくできるだけ固まって行動。全員土地勘ないから、迷子になったら帰れないし探せないからね」
来る道すがら、すでに焼きそばを一パック手にした隆玄が、廃墟になった丸太づくりのレストランの前で部員全員に声をかけると、みんなは口々にはい、と返事をする。
「花火、何時から始まる?」
「八時前ですね、まだあと二時間近くあるわ」
「じゃあ、その間に露店めぐりしようよ、わたしりんご飴食べたい」
「わたしもお腹ペコペコです。先輩、たこ焼きあったら買いませんか?」
「オッケー、じゃあ探しながらいこっか。とりあえずみんなで湖畔の道歩いて時間潰そう」
「はーい」
彼らはまず、練習で空っぽになった胃袋を満たすため、ソースや油の香ばしい匂いに釣られるまま、金色の日差しをきらきらと跳ね返す湖と、その中に浮かぶ黒い富士山を左手に見ながら歩き始めた。
「さすがにこの辺はふもとだけあって、大きいですね、富士山。ここからも見えたらよかったのになあ、残念」
湖に渡る橋の向こう側で今日の夜を待つ、いくつかの山並みの豊かなシルエットを眺めながら、ふと、湖畔からは見えない富士山に思いをはせ、くるみは隣を歩く興津に声をかける。
「そうだね、うちの街からじゃあ、あまり大きくは見えないからね。富士山駅のホームからもよく見えたけど、この街に住んでる人は、あれを毎日見てるんだよなあ」
「さすがに、毎日見てたら飽きちゃうんでしょうけどね」
「ははっ、僕っちにとっての駿河湾みたいなもんだね。……ああ、あったよ、りんご飴、ほら」
ふっと目を逸らした先にくるみのお目当ての屋台を見つけ、興津が手で指し示す。
「あ、やったあ! 先生も食べます?」
「いやあ、僕は遠慮しておくよ」
「なにか食べないとだめですよ、終わるの九時なんですから」
「うん……いや、あのね、こういうお祭りなんて久しぶりだもんで、めちゃくちゃ目移りしまくっちゃって迷ってるんだ。ちょっと待ってて」
楽しそうに笑いながら子供のような言い訳をした興津に小さく吹き出して、くるみはりんご飴の屋台に駆けて行く。
(……可愛いというか、綺麗になったな、くるみ……)
浴衣のせいもあるのだろうか、後ろ姿が去年の今頃よりずっと大人びた気がして、興津の胸は愛おしさにちりりと焼けた。
(……大人になるまで、僕は君を抱かずにいられるだろうか。……いや、絶対そんなことはしない。しないって決めてるけど……ああもう、夏の陽気のせいだな、こんな気持ちは)
屋台の前で嬉しそうに飴を選ぶ白いうなじに噛みついてしまいたい欲をねじ伏せながら、彼は手の甲で額に滲んだ汗をぬぐう。
(このどろどろしたものはきっと秋が来て、冬になれば冷えて固まって、……そこから一年だ。そうしたら、まずは少し年の離れた友達として、君のことを見ていたい。君が大人になって、選んだ道に進んで、それでも僕と一緒にいてくれるなら……その時まで僕は待つよ。僕は何よりも、君に幸せな高校生活を送って欲しい。まずはそれがいちばんの願いなんだ)
礼を言って品物を受け取るくるみの整った横顔を見ながら、彼は自分を戒めつつ、それでもその美しさに見惚れる。
そして、先を歩いていた祐華や紗雪と言葉を交わしながらこちらに戻ってきたくるみが両手に何かを持って幸せそうに微笑んでいるのを見て、首をかしげながら自らも近付く。
「うん? りんご飴だけ買ったんじゃないのか?……」
くるみが左手に緑の着色料の溶けた飴の中で黒く形を浮かばせる、割りばしに刺さった大きく丸い物体の他に、右の手には真っ赤な飴が薄くかかった、団子のように三連で竹串に刺さったいちごがあることに彼は驚き、次いでそれが自分に差し出されたことに戸惑った。
「はい、こっちは先生の」
「え?」
「これならそんなにお腹に溜まらないでしょう? 一緒に食べたいから買っちゃった」
「そんな、気ぃ使わんでもええらに……なんか悪いっけね」
差し出された比較的軽めの甘味に恐縮しつつ、断るのも悪い気がして、興津は素直に受け取る。
「……じゃあ、次は僕がおごるから、食べたいもの見つけたら言いなさい」
「ふふ、嬉しい」
くるみは苺に負けないほど赤く、嬉しそうに頬を染めて彼を見た。
「それじゃ、遠慮なくよばれるよ。ありがとう」
「はい、どうぞ」
ぱりん、とくるみが底に平たく固まった飴を前歯で割り砕くのを見てから、興津も大口を開けて一番上の苺を薄い飴の層と一緒に、ぱきりと小気味よい音を立てて頬張った。
ベビーカステラ、じゃがバター、ロングポテトにジャンボフランクにたこ焼きと、部員たちは目についたものを片端から買っては食べ歩く。
「喉乾いた……かき氷あるかなあ」
「あ、ジュース売ってる!」
「ラムネもあるねぇ、俺買おっと」
「先生、ビールありますよ、キンッキンに冷えたやつ」
「飲むわけないだろう、一応引率なんだから」
湖畔からの風も届かないほどの熱気に汗をかきながら、くるみたちは思い切りはしゃいだ。
すっかり暮れた湖畔の道を明るく照らす露店の裸電球が、黒々と人の波を映し出す。
その中を花火が始まるのを今か今かと待ちながら、若者たちや子供を肩車した親子、外国人観光客の群れが、徐々に湖畔のボート乗り場や高台の公園へと歩を進めていく。
「……なんかもう、この辺から遠目に見るで良くない?」
「前行ったら完全に迷子になるでしょ、これは」
通行人の邪魔にならないようい少し道路の奥に引っ込んで、各々手にしたものを口にしながら空を見上げると、湖に映るホテルの美しい窓明かりの背景に深い青の山々がそびえ、月明かりのない空には、花火になど負けてなるものかとでもいうように、きらめきを放つ星々が昇っている。
「きれいだなあ……」
「あっちで見る星空より、なんか少しだけくっきりしてる気がするわね」
「明日の夜には、もう向こうに戻ってると思うと、少し寂しいですね」
くるみの隣で祐華とミチルがつぶやく。
「ふふ、……めいっぱい楽しんどこうね、来年も来れるかわかんないもん」
「そうね」
「来年は……そうですね、せっかくですから、遊園地に行きましょうか」
「えー、わたし酔うからやだよー」
ミチルの提案を即却下したくるみに、
「先生と一緒に、下でお話しして待ってたらいいんじゃない? そしたら、ずっと二人っきりになれるわよ?」
祐華が含みのある言葉を投げかけると、彼女は親友の不意打ちに目いっぱい照れる。
「うああ、やめてよ祐華ちゃん……! なんか最近お兄ちゃんに似てきたよ?」
「やだ、……くるみちゃんこそやめてってば、そんなことないわよ」
「……ふふっ」
ミチルが二人の様子を見て堪えきれずに吹き出し、くるみと祐華も顔を見合わせて笑いだす。
三人は、二度と来ない高校二年生の八月の夜空の下で、今日のことはいくつになっても、どんな遠くに離れてしまっても、きっとことあるごとに思い出し、死ぬまで忘れないだろうと感じていた。




