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第113話


「いやぁ、それにしてもよかったなぁ。麗ちゃんたち、無事に県大会に出場かぁ」

 八月五日の午後、早目に練習を切り上げたくるみたちは、吹奏楽部員の清水麗が前日の夕刻によこした報せを、安堵の思いで反芻していた。

「次は県大会だから、まだまだ油断はできないって言ってたけど、きっと大丈夫よね」

「うんうん、麗ちゃんたちならきっと、県も東海も突破して、全国までいけるよ!」

「ひとまずは、去年の雪辱を果たしたな。本当によかった」

「皆さんの努力が報われて何よりです」

 浅からぬ縁のある相手――特に隆玄にとっては、恋人が懸命に打ち込んでいることだけに、まるで我が事のように喜びながらはしゃぐ上級生の後ろで、

「いやあ、本当によかった。去年はうち絡みでいろいろあったし、結局ダメ金で地区落ちだったからな、私としても喜ばしい限りだよ。これで藁科先生も面目躍如ってところだね」

 興津も胸をなでおろした様子でうなずいた。

「ははは、そうそう。俺もやっと気が楽になったっすよ」

 自分が麗を巻き込んだ張本人である隆玄が、目一杯に頬を緩ませる。

「お兄ちゃんも喜んでたわね、『俺たちのやったことは間違ってなかった』って」

 バイトがあるからといって、前日の夕方に東京へ戻っていった紘輝の喜びようを思い出し、祐華も胸のつかえがとれた様子で微笑む。

「県大会が月半ば、そこから先に進んで、東海まで行けば月末にまた大会ですか。まだまだ夏は終わらない、というところでしょうか」

「文化祭もあるのに大変だなあ、でも、ホントによかった! 帰ったらまずはお祝いだね!」

 ミチルの言葉に大きくうなずきつつ、くるみはスタジオから廊下に続く階段を上った。


 軽音楽部の合宿が本格的に始動した二日目から、彼らはほぼ缶詰め状態でスタジオに入っていた。

 朝は七時に起床し、八時までに朝食を済ませた後、八時半にはスタジオに入って、そこから昼食以外の時間のほとんどすべてを、慎は学園祭の、紘輝は次のライブの練習を合間合間にこなしながら、自分の担当する楽器と同じものを演奏する高校生たちに彼らなりのアドバイスをし、それを興津がサポートして全体をまとめ、彼は自身の文化祭の練習を真夜中に行う――というハードスケジュールだったが、全員が夢中になって取り組むうち、時間は矢のように過ぎていった。

 なぜここまで過密な練習をするのかという理由はただ一つ、今日の夕方から彼らは今回の合宿での一番のメインイベントとして、河口湖で行われる『湖上祭』で花火を見るという計画を立てていたのだ。

 女子生徒がわざわざ浴衣まで持参して楽しみにしているこの時間を確保するために、部員たちは全員リマインダーにこのスケジュールをセットしていたようで、彼らは合奏中に一斉に鳴り響いた種々のアラームに大笑いしつつ、慌てて片づけをし始めたのだった。


「でも、これで麗ちゃんは次のライブ、一緒に行けないことは確定だね」

「ちょっと残念だけど、コンクールの方が大事だもの。こればっかりはしょんないわよ」

 くるみと祐華の会話を聞いた隆玄が、少し寂しげな表情で肩をすくめて笑う。

「そうそう、麗ちゃんは麗ちゃんのやりたいことがあるからねぇ。これで全国行って金賞取れたら受験にも有利だし、頑張って欲しいなぁ」

「うん。……厳しいばっかりがいい指導じゃないって、藁科先生が証明してくれるといいな」

 太陽が、自分の中でまだくすぶり続けている苦い思いを託す眼差しで、窓の外を見遣る。

「そうですね。今回は麗さんも、前の曲のように譜読みに困らなかったと仰ってましたし、今年は巴先生も副顧問になりましたから、より細やかに指導が行き届くと思いますよ」

 顧問が藁科に変わり、さらに巴が加わったことによって部員同士の摩擦が減り、以前のような殺伐とした空気は部内にほとんどなくなった、と夏休み前に麗が語っていたことを思い出し、ミチルが太陽に相槌を打った。


「それにしても、去年のその『放送室ジャック事件』……本当にたっちゃんたち、すごいことしたんだね。そのおかげで第三中の裏サイトまでなくなったと思うと、なんかスッとするよ」

「でも、よく停学にならなかったと思うわ。話聞いた時、お兄ちゃんがそんなことやらかしたなんて、わたし、志望校なのに入れるか心配になっちゃったもの」

 一日目の夕食の時にたまたま紘輝の口から出たその話題を思い出し、敦哉と紗雪が改めて感心しつつ呆れる。

「聖漣の理事長先生は時代劇のお奉行様みたいな人だからね、正しい人間にはとことん寛大でちゃんと味方するけど、悪い奴は徹底的に許さないんだよ。おまけに前の校長先生が事なかれ主義だったもんで、理事会に問題をいつも報告しなくて、それでトラブルになってさ……」

「牧之原、下級生にそういうこんは言わなくていいぞ」

 卒業生である慎の口から言いたい放題の言葉が出てきて、興津はぴしゃりと口止めする。

「あはは、すみません。でも、先生も知ってるでしょ? 俺もあの音楽の先生大っ嫌いだったから、くるみから聞いたときには拍手しちゃいましたっけ」

「まったく……」

 慎の言葉にそうは言いつつも、清々しい気持ちになったことはどうしても否定できず、興津も立場上仕方なしに作った苦笑いを返す。

「先生、そこはかとなく嬉しそうですね」

「痛いとこつくなよ、磐田」

 政宗に鋭い一言を刺され、興津は口髭の下に手をやって表情をごまかす。

「いや、でもあの昼休みはホントに面白かったですよ、なんかアニメみたいだなーって思って聴いてました。俺もあの先生に授業でいろいろ嫌なこんはされましたし、溜飲が下がりましたっけ。あの後の文化祭のライブでも思いっきりイジってましたし、藤枝先輩のああいうセンス、俺は好きですね」

「ははは、こっちは肝が冷えたけれどね。反省文で許してもらえて本当によかった……」

 当時、紘輝の担任だったこともあり、自分の管理責任を問われる可能性も無くはなかったおかげで相当堪えたのだろう、興津は身を竦める。

「いいなあ、自分もその現場に居合わせたかったっすよ。そういうシチュエーション憧れるっす、いかにも青春、って感じで」

 凛子が心から残念そうに、政宗の隣でうんうんと腕組みしながらうなずく。

「放送室って言えば、前期のあれもびっくりしたっけなあ、なんとかチャレンジってやつ? 名前忘れたけど、なんか戦闘曲みたいな音楽流して、放送止められる前にワンフレーズ教室で踊れたら成功とかいうの。あれ、放送委員も犯人もうちのクラスの子だったんだよね。アタシ最初、頭がおかしくなったのかと思った」

「あー、あったねえそんなこと。でもボクは嫌いじゃないな、あの歌。動画サイトでもよくネタにされてるし、歌詞が頭悪くて笑っちゃうし、普通に名曲だと思うよ。メロディが妙に耳に残るんだよね」

 廊下の最後尾で、それなりに大事件だった出来事を思い出して呆れ笑顔を浮かべるソフィアに、けらけらと無邪気に笑いながら答えた翔琉を、興津は振り返ってじとりと睨む。

「……森、ここに社会科の教員がいること、忘れてるっぽいな?」

「あっ」

 彼は慌てて口を押さえて真顔になる。

「茶化したい気持ちはわかるけど、こっちにミサイル撃ってくる物騒な国の音楽だから、あんまり人前でそういう発言はしないように。実際迷惑被ってる人はいるし、不愉快に思う人もいるからね。ネットで面白がられていても戦争が起きている国だってあるんだから、ミームを現実に持ち込むときは細心の注意を払いなさい」

「はーい」

 翔琉はまたやってしまった、という表情で頬を掻く。

(この子、本当に大丈夫かな……)

 どうにもギター以外のことで不注意さが目立つ翔琉に、興津は文化祭の本番で何か失敗しないかと、今から心配になった。


「はい、出来上がり」

「ありがとうございます。……先輩たち、三人とも着付けが出来るなんてすごいですね」

 白地に紫紺と桔梗色の朝顔が舞う浴衣に、朱色の帯を蝶結びに締めてもらった紗雪が、自分を着付けてくれた祐華に頭を下げつつ感心する。

「そんな、うちはお店のお手伝いするときに着物を着るから、それで覚えただけよ」

 淡い桃色のダリアが描かれ、水色のグラデーションが裾からかかった爽やかな色合いの浴衣を、明るい向日葵色の帯の花文庫で締めた祐華が、ハーフアップにした髪の結び目にピンクのマーガレットがついたかんざしを着けながら笑う。

「うちもお父さんが毎日着物着るから、なんとなく覚えちゃった感じかなあ」

 赤い金魚と白い水玉模様が映える濃紺の浴衣の前側で文庫結びにした白と紺の縞模様の帯を、おはしょりを崩さないように姿見の中で背中に回しながら、くるみも会話に参加する。

「わたしも日本舞踊のお稽古で、覚える必要がありましたから……はい、ソフィアさんもこれで終わりですよ、お疲れ様です」

 細やかな模様が染め抜かれた綿紅梅の藍染の浴衣に、きりりと一文字で赤い紗の博多帯を締めたミチルが、頭一つ高いソフィアの背中で、モスグリーンの麻の葉模様のシンプルな浴衣にマスタード色の帯を矢の字で留める。

「ありがとうございます。……ていうかリンちゃん、その浴衣すごいね……」

「いやあ、おばあちゃんがもう着ないっていうもんで、勿体ないと思ってリメイクしたんすよ。見せたら卒倒する勢いでビビられましたけどね」

 珊瑚色に白い花が舞う浴衣の裾を膝上で断ち切り、襟袖と裾とおはしょりにチュールレースをたっぷりあしらい、レース付きのコルセットに見立てた太い桃色の帯にマゼンタの帯紐で結ばれた花を帯留めのように飾り、切った浴衣の裾の生地であつらえた大きなフリルリボンが背中に付いたミニドレスと、襦袢を同じ丈で仕立て直したペチコートにドロワーズと白いレースのニーソックスという和ロリ姿の凛子に、その場にいた全員が度肝を抜かれていた。

「ふふっ、凛子さんらしくていいですね、とても素敵です。ずっとしまわれているより、浴衣もリメイクして着てもらえる方がきっと喜びますよ」

「多分、今日花火に来る人の中でいちばん目立つわね」

 凛子とある意味真逆な格好のミチルの隣で、祐華がくるみの髪を結いながら、くすくすと楽し気に笑う。

「これはもう、迷子になったら凛子ちゃんに集合でいいね」

 どこからでも探しだせそうな格好の凛子を上から下までもう一度眺めつつ、くるみが袖の中で腕組みをする。

「やだなあ、ランドマーク扱いしないでくださいよ」

 くるみにからかわれて苦笑する凛子の隣で、

「……ほんと、凛子ちゃんすごいわ、わたしなんてミシン使うと、必ず糸が絡まるのに……」

 これが自作だと信じられない様子の紗雪が、思わずミニドレスの袖を手に取って眺める。

「いやいや、恐縮ですぞ。ふふふ」

 すっかり照れつつも、気を良くした凛子はドヤ顔を決める。

「リンちゃん、将来こういう服作る人になったら? 才能あると思うよ」

「あはは、わたしなんてまだまだ。昔、従姉のお姉ちゃんが貸してくれた漫画の主人公なんて、デザイナーになるために海外留学したりしてましたからね。そのマンガっていうのがまた面白くて」

「あー、ストップストップ、その続きは政宗先輩と話しなよ、リンちゃん」

 自分が振った話題が予想外の方向に転がり、図らずも長くなりそうだった凛子の話をソフィアが切断すると、

「え!? あ、……あははは、やだなあソフィア氏、なんでそこで政宗先輩が出てくるんですか」

 凛子は政宗の名前を出され、手汗をタオルハンカチで拭きながら狼狽え始める。

「いやー、政宗先輩だったらリンちゃんの話、最後まで聞いてくれると思ってさ」

「だからなんで、その、ま、政宗先輩がそこで出てくるんかと……」

「だって政宗先輩、明らかにリンちゃんだけ、喋るときの態度も口調も違うじゃない? いっつもリンちゃんの話にこにこして聞いてるし。アタシたちなんて話しかけても塩だもん」

「そんなことはないでござろう!? 先輩はみんなに平等にお優しいでありますよ!?」

 すっかり混乱し、いつも以上に奇妙な敬語になっている凛子の様子に、ソフィアが面白くてたまらないのを隠しきれず、したり顔で言葉を続ける。

「……ふーん、ひょっとして気づいてない?」

「へ?」

 ソフィアがちらりと部屋の中の女子全員を見遣ると、みんながみんな同じ顔で凛子を見る。

「政宗先輩、アタシたちのことは『苗字にちゃん付け』で呼ぶのに、リンちゃんのことだけ『凛子ちゃん』呼びしてるよ。入部した時からずっとそうじゃん」

「……そうでしたっけ?」

「そうだよ」

「確かにそうよね」

「うんうん」


「……え、まさか、本当に気付いてなかった?」

 顔から湯気が出そうなほど赤くなり、硬直したまま目の焦点が合わなくなっている凛子を、女子全員がなんとも言えない表情で見つめた。


 ほどなく、

「「……」」

 支度を終えて一階に降りた女子生徒全員が、待ちくたびれているはずの男性陣の姿を見て呆気にとられる。

「ふっふっふ、着付けが出来るのはお前だけじゃないことを忘れていたな、くるみ!」

 父から借りたと思われる麻地のベージュの浴衣をまとった慎が、してやったりという顔で口を開けたままの妹を見て腕組みする。

 見事に全員が浴衣姿で待ち構えていたことに数秒の間少女たちは言葉を失い、やがてそれぞれに驚愕のリアクションを取った。


「や、やだ、慎先輩、そういうの先に言ってください、……あの……困ります……」

 トマトのように顔を赤くした祐華が、慎のこなれた佇まいに両手で顔を覆ってしまう。

「あはは、驚かしてごめん。実は父さんから子供の頃に教わってて、こういうことも出来るんだよ」

 縮こまってしまった祐華の肩を笑いながら優しく叩くと、慎は後ろに立つ隆玄を振り返る。

「いやあ、でも隆玄、お前背でかいから着付けするの大変だったよ。うちの部に入りたての頃は、俺とどっこいどっこいだったのになあ」

「あはは、すみません。なんか気が付いたら半年で20センチ伸びたっすね」

 すらりとした体躯を引き立てる黒紅色の浴衣姿の隆玄が、申し訳なさそうに頭を掻く。

「麗ちゃんに画像送ったら? 喜ぶと思うぞ」

「どうだろなぁ、一応、試しに送ってみようか。あ、全身の画像後で撮ってよ、太陽」

 剣道着とはまた違う雰囲気で留紺の碁盤格子をぱりっと着こなした太陽に勧められて、隆玄は先ずスマートフォンで自撮りを始める。

「……そうでした、先輩、着付けも心得てらっしゃるって、前に仰ってましたね……完全に忘れてました……」

 意表を突かれたせいですっかり照れたミチルが、ツインテールに留めた京紫の芙蓉の髪飾りを揺らしてうつむく。

「ふふっ、どうかな? なんか道着とあんまり大差ないかもだけど……」

「そんなことないです!……あの、とてもよくお似合いです……」

「……そう? ありがとう、ミチルもよく似合ってるよ」

 彼のストレートな誉め言葉に彼女はなおのこと照れ、言葉もないまま手に持った籠バッグの持ち手を指先で弄んだ。


「さゆ、すごくいいね、その浴衣。髪型にも合ってて、すごくお洒落に見えるよ」

「あ、ありがとう……ていうか、あっくんも浴衣持って来てたの……」

 鶯色の麻の浴衣に黒い帯が良く似合う敦哉と、その隣にすっくと立つ、カラフルな虹色のグラデーションに白い縦縞の入っている今風な生地に紺色の帯を締め、伊達男風に決めた翔琉に、紗雪がどうにか平静を保ちながら歩み寄る。

「ううん、僕のは翔琉からの借り物。着付けもしてもらっちゃった」

「そう……」

 初めて見る敦哉の浴衣姿に、紗雪はため息で心臓の鼓動をごまかそうとする。

「ははは、最初間違えて左前に着付けてたね」

「いやー、自分で着るのと人に着せるのだと左右がわかんなくなって、よくやっちゃうんですよ。気が付いてもらえてよかったです」

 慎と太陽に笑われながらも、うちわで顔を仰ぎながら屈託なくにこにこと翔琉は笑顔を返す。

「どう? 着物なんて初めて着るから、自分じゃ似合ってるかとか全然わかんなくって」

「……いいと思う。色もあっくんにぴったり。森くん、ありがとう」

「あはは、どういたしまして。おばあちゃんがしつこく教えてくれたことが、こんなところで役に立つとは思わなかったよ」

 互いに見惚れ合う幼馴染二人の姿に、翔琉は人の役に立てた喜びで満足そうに微笑んだ。


「……なんか、着物警察に怒られそうだな、その格好。大丈夫?」

 黒一色の小千谷縮に白い帯が映える政宗が、上から下まで凛子を見て不安気に言うと、

「だいじょぶっす、これは浴衣にあって浴衣にあらず、『和ロリ』ってやつです。たぶん似たようなの着てる子沢山いますよ、このくらいなら普通に通販で売ってますもん」

 凛子は臆することなく仁王立ちになって胸を張る。が、

「そんならええんだけど……変な奴に狙われるかもしれんから、会場に着いたら、俺から離れないようにしなね、凛子ちゃん」

 名前を呼ばれたとたんに先ほどの会話が脳内に蘇り、爆発でもしたかのように一気に顔を赤に染める。

「お、お、恐れ入りまするよ、どうも……よろしくであります……」

 クロスピンで長い前髪を留め、いつもよりも秀麗な顔があらわになった政宗をそれ以上見ることもかなわず、凛子は明後日の方向に顔を逸らした。


「……」

「あの、……何か言ってもらえると助かるな」

 漆黒に染め上げられた近江縮に墨色の角帯を合わせた興津が、自分を見上げたまま何も言わないくるみに困り果て、ぎこちなく笑いながら口髭を撫でる。

 やがて、

「……ずるい」

「は?」

 予想の斜め上の返答に、興津の喉から間抜けな声が漏れる。

「だめ、こんなの……」

 帯に合わせて淡く紅を乗せた赤い唇と同じ色に、ふわあ、と彼女の頬が上気し、彼にしか聞き取れないほど小さな声で、ため息とともに言葉が零れた。


「……そんな色っぽい格好、しないで……」


 彼女はそれだけ言うと、彼を直視できなくなってしまい、ざっくりと結い上げた黒髪に刺した緋色の玉が付いたかんざしのタッセルをぱらりと揺らして、そっぽを向いてしまった。


「……」

 不意打ちを食らった興津も、少年のように耳まで真っ赤になって彼女から目を逸らす。


「……」

「……」

 数秒の沈黙の後、

「……じゃあ、脱いだほうがいいかな?」

 先に心を落ち着かせた興津が軽い冗談を投げかけると、くるみはぶんぶんと頭を横に振る。

「!……だめ、……そんなの嫌です……」

 彼女は彼の浴衣の袖をつまんで、ほう、と息を吐いてから、潤んだ黒い瞳で彼を見上げる。

「似合ってるけど、だめ……ほんと、無理……」

「無理って……すぐ慣れるよ。大袈裟だな、牧之原は。でも素直に誉め言葉は受け取っておくよ、ありがとう」

 彼はにこりと微笑むと、生徒たちの方を見遣ってこちらに注目がないことを確認してから、刹那、くるみの耳に口元を寄せる。

「可愛いよ、くるみ。似合ってる」

 直接脳を揺らすような掠れた甘い声に、くるみの意識ははじけ飛びそうなほど過熱した。


「アハハ、いいサプライズですね。全員デニムかジャージで行くんだとばかり思ってました」

 ソフィアがからからと笑いながら男性陣を眺める。

「そりゃまあ、こんな機会はめったにないからねぇ。せっかくだから夏は堪能したいじゃん」

 和装に不釣り合いな斜めがけショルダーバッグを前向きに背負って、隆玄が答える。

「……りゅーげん……お前、もうちょっとこう、なんかなかったのかよ、それ」

 帯に灰色の信玄袋を留めた太陽が、最後の最後で雰囲気をぶち壊すことをためらわない親友に呆れる。

「えー、これ一番楽で間違いないじゃん、こうしとけばスリにも遭わんだろうし」

「風情がないねえ……まあ隆玄らしいっちゃ隆玄らしいか」

 袂にタオルハンカチを入れつつ、慎はいつも父がそうするように、唐茶色の信玄袋の紐を短く結って手に提げる。

「ははは、風情も何も、足元がスニーカーとじょんじょん(サンダル)の時点で気にしたら負けだよ」

 まだかちかちに固まっていたくるみの肩を叩いて我に返してから、興津は懐にしっかと財布をしまい、スマートフォンと扇子を帯に挿す。

「あっくん、わたしお財布とスマホ持とうか?」

「ほんと? 助かるよ、さゆ。ありがとね」

「ううん、使いたい時は言ってね」

 翔琉が雑にスマートフォンと財布を左右の袂に突っ込む横で、敦哉から預かったものを紗雪は巾着籠バッグの内ポケットにしまう。

「さあ、みなさんそろそろバスに乗りましょう。まだ明るいですけど、早めに行かないと、いい場所がなくなってしまいますから」

 落ち着きを取り戻したミチルがうきうきと弾む足取りで玄関に向かう。

「バス、富士山駅に停めてそこから電車だっけ。湖畔まで結構距離あるね」

「下駄だったら間違いなく、帰りにみんな歩けなくなってそうですね。人に足踏まれるかもしれないし、普段履きで正解かもっす」

 政宗と凛子がそれに続く後ろで、

「電車、満員になるらしいから、覚悟して乗らないとなぁ。……お、返信来た」

 麗から浴衣姿の感想が届き、わくわくしながら隆玄がスマートフォンを取り出す。

「麗ちゃん、なんて?」

 太陽が声をかけると、隆玄は微妙な笑顔を浮かべる。

「……『鉛筆みたい』って言われた……」

 容赦のない麗の感想に、全員がどっと笑った。

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