第111話
「うああ、まじで本格的だ……壁にスクリーンが埋まってる」
「ホームシアターっていうより、完全にミニシアターね……」
空気清浄機の音とオレンジ色のダウンライトが、さながら本物の映画館のように感じられる空間に足を踏み入れ、くるみと祐華はため息を吐く。
スタジオへの入り口がある廊下の突き当りの扉を開けて地下に降りると、ずらりと並んだ映画のブルーレイと、ゆったりと座れる広さのボックスソファが目に入った。
そのソファに合わせた高さの座卓の正面に、ちょっとした映画館ほどの大きさのスクリーンが堂々と構え、そこから振り向くとプロジェクターやあちこちに設置されたスピーカーがある。
「せっかく作ったのに、まだ片手で数えられるくらいしか使ったことがなくて。メンテナンスは月に一度、必ずしていただいてるんですけれど……去年も使えばよかったですね」
ミチルが困ったように笑いながら、ブルーレイの棚の前に立つ。
「すごい……」
「ミチル先輩がいなかったら、こんな部屋一生見なかっただろうなあ」
すっかり圧倒された紗雪と敦哉の後ろで、言葉もなく凛子とソフィアがうなずく。
「ソフトの数もすごいですね、ちょっと見せてもらっていいですか?」
「どうぞ、ご自由にご覧になってください」
わくわくが抑えきれない様子の翔琉に、にっこりとミチルは微笑む。
「ありがとうございます、……わー、レンタルショップみたいだー」
「感想が完全に庶民だな」
嬉しそうに棚の中のブルーレイの背表紙を見て回る翔琉の背中に、政宗が苦笑した。
「?……あれ、……」
ふと、自分たちに付いてきているはずの興津が姿を現さないことに気が付き、くるみは落ち着かない部員たちの間を縫って、元来た階段をとんとんと上がっていく。
果たして、夜の帳がうっすらと降りた窓明かりの下、重い扉の前に彼は無言で立っていた。
「先生」
くるみの声に、興津はびくりと肩を震わせ、彼女の方を見遣る。
「……入れそうですか?」
「……うん……」
口ではそう言うものの、彼の身体は動こうとする気配はない。
「無理だったら、今日はやめにします?」
「いや、……せっかくここまでしてもらったんだ、そんなことはしないよ」
気弱な笑みを浮かべ、彼は小さなため息を吐く。
「……でも、……やっぱり怖いね、自分の中の、一番大きなトラウマと向き合うのは」
「……」
「……僕があの日、わがままを言わなければ、みんなまだ生きてたかもしれないって思うと、……苦しいよ……」
手の施しようがない、彼が生涯抱えるだろう深い心の傷が血を流しているかのように、真っ赤な夕焼けの名残りが窓の外にある。
自分がその痛みを少しでも引き受けられたらいいのに、と、くるみは届かない想いに張り裂けそうな胸を押さえ、夕闇に浮かぶ彼の綺麗な横顔の稜線を目で追った。
ややあって、
「くるみ」
彼に呼ばれるまま側に寄ると、腕を回す間もなく、彼女は息が出来ないほどきつく抱きしめられる。
交わす言葉は必要ない気がして、くるみは興津の腕に抱かれるまま目を閉じる。
彼がいつもつけているコロンの香りと、耳にぴたりと張り付いた身体から耳の奥に響く心音が、たまらなく心を刺した。
(……先生、怖いのも苦しいのも、わたしが今、全部吸い取ってあげる……)
黙って自分に甘えている彼の古く重たい記憶を、どうにかして少しでも軽くしたい一心で、くるみは興津の腰に細い腕を回す。
(大丈夫、わたしが一緒にいる……ずっと一緒にいるから……)
つむじに触れる頬の温かさに、ふいに胸の中から言葉が零れる。
「……あなたが、生きててよかった……」
自分を抱きしめる腕と大きな身体が、彼女はただ幸せに感じられた。
その言葉を聞いて決心がついたのか、彼は腕を解いてくるみの髪を撫でる。
暮れなずむ空を背に、悲しみとも喜びともつかない表情を浮かべた彼は、ひどく美しかった。
「行くよ」
苦しみの根源に目を向ける覚悟の響きを持った彼の声音に、彼女は自分の左手を差し出す。
「手、繋ぎましょう。……大丈夫。ここは学校じゃないから」
「……うん」
ゆるりと陽が落ちていく廊下の先の扉に、絡ませあった指を繋いで、二人は降りていった。
「……行った?」
「だいじょぶっす」
「えらいもん見ちゃったな……」
「ま、まあ学校じゃないし、多少はね?」
キッチンで飲食物を用意していた紘輝と隆玄、そして建物の施錠をして戻って来た太陽と慎は、今しがた見てしまった、曲がり角の先の出来事に冷や汗をかく。
「ねえ、ホントのとこどうなんすか、慎先輩。あの二人、付き合ってるんです?」
「俺からは何も言えんよ。ただ、連絡先は交換してないし、先生がうちの近所に住んでることはわかってるけど、お互いの家を行き来もしてない。それだけは信じてやってくれ」
妹との約束の手前、素直にそうだとも言えず、慎は隆玄に事実を述べてはぐらかす。
「……なんか、深刻そうでしたね。ちらっと聞こえたけど、トラウマがどうとか……」
「興津先生、昔、何かあったんかな?……下の部屋に行くの、すごくためらってたな……」
太陽と紘輝が揃って首をひねる。
「……まあ、俺らが心配してもしょんないっすよ。二人にしかわからないことがある、ってこんだけ。……先生、自分のこと本当に人に話さないから、推測したって全部邪推になっちまうなぁ、もうちょっと手の内明かしてくれたら、俺らだって気の遣いようがあんのに」
隆玄が大きなため息を吐いて背筋を伸ばし、手に持った菓子盆と、載せきれなかった菓子の袋がいっぱいに詰まったビニール袋を持ち直して歩き出す。
「ほんとそれ。……こんなふうに仲良くなっても、心配もさせてくれないなんて、ちょっとつれないよな」
「いや、それが普通なんだよ。他の先生みたいにベラベラ家族や嫁さんのこと話されるより、ずっといいだろ?」
ほんのりと寂しそうな太陽に、大きなペットボトルの入った袋をぶら下げた紘輝が、自分も同じ気持ちなのをあえて誤魔化し、笑ってそう返す。
「……でも、もうちょっと俺らとも距離縮めてくれてもいいと思いますよ。さっきの様子だけ見てものを言えば、くるみちゃん一人に負担がかかるようなこんだったら、この先大変かもしれない」
黒いマジックを手の中で弄びながら、太陽が眉をひそめる。
「どうかな。くるみはああ見えて、不思議と懐が深い子だからね。あれで存外上手くいってるのかも知れないよ」
「その言い方、やっぱ付き合ってるんじゃないすか」
「だから俺の口からは何も言えんて」
そう言って隆玄の追及をかわす慎に顔を見合わせると、紘輝と太陽は彼らの後に続いた。
「ほーい、お菓子と飲み物用意してきたよー」
上から降りてきた上級生たちに、下級生たちは礼を言いながら場所を開ける。
「すみません、お手数をおかけして」
「いいっていいって、勝手がわかってる人間がこういうことしたほうが楽だもん」
朗らかにソフィアに答えながら、隆玄は菓子盆をテーブルの真ん中に置いた。
「紙コップ、自分の名前書いて」
ビニール袋の中から取り出したそれをばらしながら、太陽がマジックを隣の祐華に手渡す。
「飲み物はお茶と、グレープの炭酸と、コーラ。……先生、どれ飲みます?」
紘輝は一本ずつ中身の名前を言いながらペットボトルを同じテーブルに置くと、くるみと寄り添ってソファの隅に座っている、沈んだ表情の興津に声をかけた。
「……あ、ええと……」
事故に遭ってから一度も口にしていない、黒い炭酸飲料が目に入る。
(きっと、今飲まなければ、一生飲まない。……変われ。今しかないんだ、大地)
膝の上の手をぎゅっと強く握りしめて、ひと呼吸置いてから、
「じゃあ、……コーラ、もらっていいかな」
興津は思い切ってその飲み物を選んだ。
テーブルを囲むようにして置かれたソファの思い思いの場所に腰掛け、部員たちと興津は明かりを落とした室内で、プロジェクターから放たれる白い光を映すスクリーンを見る。
「『雨に唄えば』って、何年前の映画?」
慎の質問に、テーブルにあったパッケージを手に取り、裏を見ながら祐華が答える。
「1952年ですから……七十年以上前ですね」
「うわ、俺らのじいちゃんもまだ生まれてない頃じゃん」
妹から聞こえてきた年月の遠さに、紘輝が目を丸くする。
「音楽も映画もすごいな……いいものっていつまでも、こうやって残ってくんだから」
プロジェクターの操作をしながら、太陽が感嘆の息を漏らす。
「……今から七十年経った後、俺たちの時代のものって、何が残ってるんだろうなぁ」
そう言ってから、隆玄が小袋入りのクッキーを一つ開けて口に放り込む。
「ふふ、それは七十年先まで生きてみないとわかりませんね」
「八十八かあ、そこまで長生きできるかな」
ミチルの言葉に肩をすくめて笑い、太陽はプロジェクターの再生ボタンを押す。
「じゃあ、始まりますよー」
彼が大急ぎでソファの前の床の上に敷かれたクッションにあぐらをかいて座ると、一瞬だけ闇のような黒が映し出され、オーケストラの演奏とともに浮かび上がったライオンが、画面の中で吠えた。
(……ああ、そうだ、こんな感じだった)
スピーカーから放たれる全身を包むような音楽と、眼の前のスクリーン以外に目線が行かない世界で、興津は二十数年ぶりに封じていた記憶の扉が開くのを感じた。
(……あの日、父さんが僕の隣にいて、姉ちゃんが反対側に座って、母さんはその向こう側にいた。……売店で買ったポップコーンとコーラを手すりにおいて、僕らよりも前には、誰も座ってなくて……)
心になだれ込んできた寂しさに負けて思わず目を逸らしそうになったが、自分に寄り添って、今は手を繋いでいるくるみの気配に、彼は我に返る。
(……違う。これはあの日観たアニメ映画じゃない。それに、僕は独りじゃない。くるみがいてくれる)
分厚いストリングスの音色に古い記憶が上書きされていくような思いに胸が焼け、乾いた喉を潤そうと、彼は紙コップからコーラを口に含み、二十年ぶりに味わった濃い口の砂糖の甘さと、ちくちくする舌触りを、その飲み物をその味たらしめる爽快な香りとともに飲み下す。
(あの日飲んだコーラは、氷が入ってて、冷たかったけど、味も炭酸も薄かったな……そうだ、父さんに大きいサイズにしたいって言ったら、「途中で絶対トイレに行きたくなるからだめ」って、一番小さいのにされたんだっけ……)
ロビーでの会話まで懐かしく脳裏に蘇り、まるでここに家族がいるような気がし始めて、
(父さん、母さん、姉ちゃん、……一緒に観よう)
彼は鼻の奥が、つんと痛くなるのを堪え、くるみの手を強く握った。
物語が始まってすぐ、ジーン・ケリー演ずるドンと、ドナルド・オコナーが扮するコズモーが『フィット・アズ・フィドル』で軽快なタップを踏み、バイオリンをチェロのように床に立てて弾くシーンで、興津はみんなが笑ったのと同時に吹き出した。
(楽しい……そうだ、映画ってこんなに楽しかったんだ、本当に何もかも忘れてた)
スクリーンの中の華やかな色のドレスや、軽やかで浮足立つ爽快なダンスに、意識のすべてが奪われていく。
(怖くない。何も考えなくていい。なんだろう、すごく楽な気がする)
起きている間も寝ている間も常に頭の中で考え続けている何かを、今だけは手放せている確かな感覚のおかげで、彼の心には先程からずっと途絶えなかった緊張と引き換えに、同じだけの余裕が戻ってきた。
やがて、リーナが喋り始めたとき、くるみが隣でぎくりとする。
「どうした?」
彼がごく小さな声でささやくと、
「……わたし、ここまで声、ひどくないですよね?」
いまはもうすっかり耳慣れている、甘く鼻にかかった彼女の声が心配そうにつぶやく。
忘れていたコンプレックスをつつかれたのか、少ししょげてしまったくるみの様子に、興津は一瞬だけ教師の顔を取り戻し、
「全然。大丈夫、自信持って。君はもっと可愛い声だから」
そう囁いて、繋いでいるのと反対側の手で彼女の白い指を撫でる。
嬉しそうにひたりと張り付いた彼女の柔らかい半袖の二の腕が、エアコンが少し効きすぎている空気の中で、心地よく感じられた。
ジーン・ケリーのスタントマン顔負けのアクションと派手なダンスに心奪われ、ドナルド・オコナーの軽妙で豊かな表情と『メーク・エム・ラフ』の凄まじい動きに笑いつつも嘆息し、きらめくような居姿のヒロインを演じるデビー・レイノルズの温かいアルトの声をいい意味でぶち壊し、ぐいぐいと物語を引っ張っていくジーン・ヘイゲンのチャーミングな演技に大笑いしながら、物語はもっとも有名な、雨の中でドンが歌いながら喜び踊るシーンになる。
(……この歌、こんな話の後に歌ってたんだ……)
深く考えることをあえて避けてきた歌の解釈が変わり、すっと心の中に溶けていく。
傘などさしても意味がないほどの土砂降りの中でタップを踏むドンにすっかり感情移入していた興津は、少年の表情でスクリーンを見つめる。
真夜中の雨に濡れたドンの笑顔は、台詞の通り、真昼の日差しに照らされたように明るい。
(すごい……この人の踊りと歌を観ているだけで、こんなに幸せな気持ちになるなんて……)
すでに興津の心の中に映画というものへの恐怖はなく、彼は自分も一緒に雨の中で踊っているような気さえしていた。
(……ああ、そうだ、これだ……これからの僕が、しなくちゃいけないことは……)
不意に、彼の心に一筋の光が差し込んだ。
(僕はこれまで、自分のためだけに歌ってきた。あの日から埋まらない心の隙間をどうにかしたくて、辛いことから目を背けて、忘れたくて、楽になりたくて、そんな気持ちばかりだった。でも……これからは、僕の歌や演奏を聴いた誰かの、心を動かすことが出来たら……僕の『音楽』で、誰かの今日や明日を、苦しみや悲しみで壊れて、投げ出してしまいそうな心や命を救うことが出来たなら……生きていくための力を、少しでも分けてあげることが出来るなら、僕の『音楽』は何か違う、もっと意味のあるものになっていくかもしれない。……そうしたら今、将之たちとバンドを組んでいることも、軽音楽部の顧問をしていることも、ベースを弾き続けていることも……僕の『音楽』の、すべての意味が変わってくる。僕がここまで生きるための力を『音楽』からもらったように、僕はそれを、聴いてくれた人たちに伝えていきたい……)
スクリーンの中で高らかに歌い、鮮やかに舞い踊るその人が、そこに生きている『幸せ』を全身で表現するように、自分も『音楽』で同じことが出来れば。
彼はそんな想いに駆られる。
興津はくるみと繋いだ手の指をほどいて、彼女の手の甲から握りしめるように優しく包む。
自分を見上げた気配に刹那そちらを向いて微笑んでから、彼は視線をスクリーンに戻すと、水たまりで子供のように跳ねまわるドンの姿に小さな声をたてて笑い、繋いだ手に力を込めた。
(これから先、誰かの前で歌を歌うんだったら、僕にとって音楽と歴史がそうだったように、誰かが世界と自分を繋ぎとめるための力になりたい。生きていれば、きっとどうにかなるんだって。だって、僕がそうだったから。どん底からだって這い上がって来れるんだって、折れずに生きていくための力になりたい。……ただの理想論だと笑われてもいい。それでも、みんなの努力が等しく報われるように願って、歌い続けたい。絶望を糧にして歌うのはもう終わりにするんだ。僕の歌は、希望を見せるために歌うんだ。前を向け、大地!)
ダンスが終わり、通行人に傘を押し付けて意気揚々と去って行くドンの背中を清々しい気持ちで見つめながら、彼はコップをテーブルから取って飲み物を口に運ぶ。
「?」
確かにそこに置いてあったはずのコップの中身が、なぜかグレープサイダーの味がして、彼は戸惑う。
(……まさか)
隣を見ると、くるみが涼しい顔をして自分の名前が書かれたコップに口を付けている。
(やられた……)
可愛らしいいたずらに苦笑いして、彼は仕方なく彼女のコップの中身を飲んだ。
めまいがするほどカラフルな『ブロードウェイ・メロディー』の後、リーナの悪女っぷりにみんなで静かにブーイングし、最後の最後でどんでん返しになったハッピーエンドに拍手して、上映会は終わった。
「はー……面白かった……なんか、人としての実績解除した感じしますなあ……」
凛子がしみじみと、独特な表現で感慨に浸る。
「ふふっ、こんなに笑ったの久しぶり。最後スカッとしちゃった」
「正統派の悪役だったね、リーナ。あんまり過剰に可哀想って思わされなくてよかったよ、最近の映画ってそういうの多いから、後味悪くってさ」
「わかるわ、完璧な勧善懲悪っていうの、なかなかないもの」
紗雪と敦哉が楽しそうに映画談義を始める。
「あのグリーンのドレスのダンサー、素晴らしかったですね。ひとつひとつの所作がとても美しかった……ハイヒールと裸足であんなに安定感のある、綺麗な所作のダンスをされるなんて、とても真似できません……」
妖艶に、時には清純に、華麗な技を披露した、シド・チャリシーの踊りにすっかり魅せられたミチルが、ほう、とため息を吐いて立ち上がり、部屋の明かりを点けに行く。
「ミュージカルにしては唐突に歌い出すシーン少なかったな、これなら見れる」
これまでどうしても、台詞が突然歌に変わる演出が苦手だった太陽が、満足そうに独り言つ。
「しかし、女の子の衣装がどれもギリギリでしたねぇ。今じゃできなさそうだ」
「あれなあ、見えそうで見えないし、脚丸出しなの、時代もあるんだけどサービスシーンなんだろうな。映画が数少ない娯楽だった時代の慣例ってやつか」
「まあ、それでもそんなに際どくもないし、観ていてそこまでくるものでもないすね」
「それはそうだな、品がある」
ぱっと灯ったオレンジ色の明かりの中で、隆玄と紘輝が色気のある話に花を咲かせる。
「……途中のファッションショー、衣装はみんな可愛いんだけど、一生懸命身体の動き止めて、プルプルしてるの……すっごい、……うふふ、あっははは……」
思い出したシーンに祐華がひとり爆笑し始めるその隣で、
「ははは、いまいち祐華のツボがわかんないなあ……」
緑茶の入ったコップを片手に、慎が苦笑いする。
「この年代のミュージカルはノーマークだったな……もっといろいろ聴き込まないと」
様々な劇中歌に感銘を受けた様子で、政宗がつぶやきながら席を立つ。
「たまにはホラー以外の映画もいいな。あとで休憩時間にちょっと弾いてみよ」
そう言ってソファの上で大きく伸びをして、翔琉がコップの中身をぐいと飲み干した。
「……先生、どうでしたか?」
ソファの一番端でずっと寄り添い手を繋いでいたくるみがそっと身体を離し、傍らの興津を見上げると、彼の瞳が淡く潤んでいるのがわかった。
「ありがとう、……すごく楽しかったよ。忘れかけてた昔のことを思い出して、……父さんたちが一緒に観ているような、そんな気がした……」
「……」
泣いてしまいそうなのを堪えている笑顔が胸に痛くて、くるみは思わず両手で彼の手を包む。
しかし、彼はその手をそっと解いて彼女の手を優しく包み返すと、何かが吹っ切れたように首を横に振って、真っ直ぐな目で微笑み返す。
その迷いのない眼差しに、彼女は自分の心配が杞憂に終わったのを感じた。
目の前で自分を慮ってくれる彼女の黒い瞳を、彼は覚悟を込めて見つめる。
(この一年、僕はずっとくるみに甘えっぱなしだった。優しくしてくれるからって、うじうじ悩んで、いつまでも人として前に踏み出そうとしないまま、中から腐って崩れていきそうだった。……もう止めよう、そんなのは。足元だけ見ていたら、周りの景色は見えない。顔を上げて、自分の脚で前に進むんだ。二人で一緒に、光の差すほうへ)
一番怖かったことを受け止めきれたという自信が身体中に満ち、確かなその灯を胸に、興津はついに自分の力で、深い闇の底から立ち上がった。
「心配しないで、もう大丈夫だよ」
「本当に……?」
「うん」
一度瞬きをしてまだ目の縁に残っていた涙を収めると、興津はくるみに教師の眼差しで茶目っ気いっぱいに微笑む。
「映画の中でまで映画の話されたんじゃ、これ以上何も怖いとは思えないからね」
彼らしい感想に、彼女は頬を染めて顔を輝かせた。
「また後で、食事のときにでも話をしようか」
「はい……!」
繋いでいた手が離れ、二人はいつもの距離に戻る。そして、
「……ところで牧之原、コップの中身が違ったんだが?」
興津の控えめな声での追求に、
「うえっ!? ななななななにいってるですか、わわわわたしこっそり取り替えたりとか、そんなことしてないすよ!?」
真っ赤になって自ら罪を白状しつつ、彼女は慌てて席を立つ。
「なにー? くるみちゃん、なんかまたやらかした?」
「や、やらかしてませんですよ!!? なにいってるです!!?」
思わず大声を出したその言葉尻を捕らえられ、友人たちにからかわれておたおたするくるみを、興津はくすくすと笑いながら愛おしげに眺めた。
(……妬けるなあ、あんなにいちゃつかれたんじゃ、アタシが割って入る隙間なんてないな)
鑑賞中、片時も離れなかった二人の影が視界に入る度に、じりじりと身体の内が焦げるような気持ちになったことに疲れ、ソフィアは小さなため息を吐く。
(でも、たとえ割って入ったところで、先輩がアタシに同じ気持ちを持ってくれるわけもない。アタシが変なんだ、男も女も、どっちも好きになっちゃうアタシが。……どうしてこんな心で生まれてきたんだろう、アタシ)
もやもやした気持ちを洗い流すように、手にしたコップの中のコーラを飲み干して、ゴミ袋に捨てる。
(いっそリンちゃんみたいに「どっちも推し」みたいに言えればいいのに、先生に嫉妬しかないから、そんな聖人みたいな気持ちになれないよ。アタシの恋には、永遠にハッピーエンドは来ない……)
映画の結末を思い出しながら、パーカーのポケットからスマートフォンを出し、電源を入れる。
(……夏休みの間に会えるかな、くるみ先輩よりも好きになれそうな子。出来れば男の子がいいな……パパとママをがっかりさせたくない……)
夏休み前、手当たり次第に交換した個別チャットの返信を期待しながら、ソフィアは後片付けを手伝い始めた。




