第110話
「よう! みんな久しぶり!」
菊川家の別荘に着くと、先に到着していた紘輝が玄関の軒先から姿を現した。
「わー! 先輩……あんま変わってないっすね」
「お前、開口一番それかよ」
けらけらと笑い合いながら、隆玄と紘輝がハイタッチする。
「お疲れ様です、紘輝先輩」
「おう、太陽も九州大会お疲れ様。三人抜きしたんだって? やっぱすごいな、お前」
「あはは、勢いでどうにかなっただけですよ」
肩を叩かれながら照れ笑いする太陽を、謙遜するなよ、と紘輝が肘でつつく。
「藤枝先輩、お久しぶりです」
「久しぶり。ミチルちゃん、今年も場所貸してくれてありがとな」
太陽の隣にいたミチルが頭を下げると、紘輝は部長然として礼を述べる。
「いえいえ。東京でのお暮らしはいかがですか?」
「はは、やっと水に馴染んできた感じかな。なんかここにいる間にリセットされそうな気もするけどね。……ああ、ところで……」
紘輝は何かを探すように、バスの中の一年生たちを見遣る。
「『舞阪敦哉』くんって、どの子?」
「え?」
たった今、紗雪に続いてギグバッグを背負って下りてきた少年に、彼らの視線は集中した。
別荘の中の空気を入れ替えるためにあらゆる窓を全開にすると、街よりは幾分か涼しい森の風が、部屋の中を爽やかな針葉樹の香りとともに洗い流していく。
その作業を二人、紘輝と敦哉は二階の部屋を周りながら、穏やかに言葉を交わしつつこなしていた。
「やっぱ、東京とも静岡とも違うな……木と水の匂いしかしない」
窓のロックを外し、網戸側を開けると、二人の頬を湖からの風がひやりと撫でる。
「……ベース、大輔さんに買ってもらったんだって?」
「はい」
「後で聴かせてよ。君さえよかったらだけどさ、セッションしてもらってもいいかな?」
「はい。……あの」
その穏やかさに耐えきれなくなったのは、敦哉の方だった。
「何?」
「……僕ん家のこと、変だって思わないんですか。藤枝さん、僕らきょうだいのことも、うちの事情のことも」
「知ってるよ。大輔さんから一番最初に聞いた」
紘輝の優しい声音に、敦哉は言葉に詰まる。
「いずみもよくその話をするよ。君が心配だ、早く逃げ出せればいいのに、って」
「……」
「俺は直接、君の親に会ったことないからさ、なんとも言えんけど、話聞いてる限りじゃ、確かに俺も心配になる。……なあ、変なこと聞くけど、暴力振るわれたりはしてないか?」
「いえ……」
「飯も食わせてもらえてる?」
自分がうなずいたのを見て微笑んだ紘輝の、本当に心から気遣ってくれている言葉と優しい目が、敦哉の心に降り積もっていた灰色の雪のような疑念を溶かしていく。
「俺も金ないからさ、そっちで協力は出来ないんだけど……どうしてもしんどくなったら、いつでも逃げてこいよ。そこから先、何をしてあげられるかはわからんけれどさ、とりあえずの居場所くらいは用意できるもんで。……まあ、俺んちよりは大輔さんたちの家の方が広いから、そっちのほうがいいかな?」
「え、……いえ……」
彼の口ぶりから、紘輝が自分達の『秘密』の何もかもを知っていて、その上でいずみを受け入れていることがわかり、敦哉は安堵で肩の力が抜けた。
「そうだ。後でさ、ベース持ってるとこ画像撮らせてよ。いずみに送るから」
「……はい……」
「そんな顔すんなよ、せっかく楽しい合宿なんだからさ」
涙を浮かべた敦哉の背中を、紘輝は優しく手のひらで叩く。
「また後でゆっくり話そう、今はとりあえず換気しないとな」
「はい」
もう一人自分の味方になってくれる人が増えたことに、一筋だけ敦哉の頬を雫が伝った。
「はあ……すごい、なんかドラマみたい……」
すっかり空気の入れ替わった広いリビングで、昼食に買ってきたスーパーの焼きそばをつつく手を止め、紘輝からいずみとの馴れ初めを聞いたくるみは感嘆のため息を吐く。
「お兄ちゃん……付き合ってるのはいいとして、一緒に住んでるのバレても知らないからね。とりあえずお父さんたちには黙っててあげるけど、いろいろ気を付けてよ」
隣で祐華がそう言って、助六の太巻きを頬張る。
「それにしても、同棲とは恐れ入ったね。なかなかやるなあ、紘輝。何で黙ってたんだよ、俺は口が堅いぞ?」
祐華の側でフライドチキンをかじっていた慎が、楽しそうにくすくすと笑う。
「いやぁ、バンドマンしてますねぇ、先輩。……どうです? いずみさん、すっげー可愛いでしょう?」
からかうように隆玄がそう言うと、紘輝は一瞬だけ照れた顔をして、すぐさま違和感に頬を引き締める。
「何だ、なんか引っかかる言い方するな、お前」
「だって俺の初恋の人ですからね、いずみさん」
「えっ、そうだったのか!?」
唐突な隆玄の暴露に、紘輝が素っ頓狂な声を上げ、それを知っていたのだろう紗雪と敦哉が苦笑いする。
「もしかしてお前、一年の時にずーっとぐじぐじ言って、引きずってた相手って……」
「そうっすよ」
「うわあ、気まずっ」
「昼ドラみたいだな」
紘輝の問いに平然と答えた隆玄を見て、当時を知る慎と太陽が引きつった顔で声を上げる。
「いやあ、だって、あんな可愛い人に惚れない方が無理ですって。なんたって優しいし、頭もいいし、料理上手いしスタイルだっていいし、もう完璧じゃないっすか。羨ましいなぁ」
「……りゅーげん、お前それ、麗ちゃんの前で言ったら殺されるぞ」
太陽が冷ややかな目で隆玄を見遣る。
「あー、もうとっくに知ってるから大丈夫。目いっぱいつねられたけどね」
「あっそ……」
心配して損をした、と言いたそうに、太陽は明後日の方を向いた。
「……お前、絶対だめだからな。手ぇ出すなよ」
疑惑の眼差しで紘輝にじとりと睨まれるが、隆玄はからからと笑ってそれをかわす。
「何言ってるんすか、もうとっくにいい思い出と化してますよ。むしろ紘輝先輩とくっついてて安心しました、それなら負けても惜しくないっす」
「お、おう……いや、なんか素直に喜んでいいのかわかんねえな……」
紘輝は複雑な表情で、とんかつ弁当の付け合わせのピンク色の漬物に箸をつける。
「どんな方なんですか? 月末のライブにはいらっしゃいます?」
「ああ……口で説明するよりは会ってもらった方が早いかな、その時みんなに紹介するよ」
フィッシュバーガーのタルタルソースを頬につけたままのミチルにそう答えて微笑んだあと、紘輝はくるみの方に目を遣った。
(……うん、もう、心が揺れる感じはない)
いつも通りに興津の隣にいるくるみの、白く華奢な身体や、日差しに透けてしまいそうな儚い雰囲気を、紘輝は美しいとは思えど、自分のものにしたいとは思わなかった。そして、
(もし付き合ってたら、振り回されっぱなしで、ギターどころじゃなかったかもなあ)
去年の夏の始まりに自分たちが起こした大騒動――『放送室ジャック事件』の発案者が彼女だったことを思い出し、紘輝は懐かしさに小さな笑いをこぼす。
彼女のどこか破天荒で危うい部分を、しっかり支えて受け止められるのは興津だけなのだ、と、もろもろの感情が腑に落ち、紘輝はかすかに笑みを浮かべてから視線を外す。
(それに、先生もすごく、人間らしくなった。……人は人を変えるんだな……)
くるみと楽し気に話しながら昼食をとっている興津の明るい表情には、はじめて彼を体育館の壇上で見た時の重苦しい雰囲気はどこにもない。
(俺もいずみと出逢って、変われたかな。いずみはどうなのかな……)
今ごろ大学の図書館にいるだろう、長い黒髪の後ろ姿を思い出し、紘輝はふわりと心が温かくなった。
「ねえねえ、ところで今日見る映画って何なんですか?」
たい焼きを半分に割りながら、ソフィアがくるみに尋ねる。
「ふふふ、それは見てのお楽しみ」
「もー、そろそろ教えてくださいよ、サメ映画っすか? それとも『親指タイタニック』? ひょっとして『シベリア超特急』っすか?」
「『メタルマン』?『死霊の盆踊り』?『北京原人』?」
「いや、君ら、なんでわざわざ山中湖まで来て、クソ映画観賞会なんかしなきゃなんないんだよ……」
「いやいやいや、タイトル聞いただけで、よくそれがクソ映画だってわかるな、お前」
各々妙な期待で目を輝かせた凛子と政宗に、紘輝が頭を抱えてどん引きし、慎が妙な感心をする。
「……ホラーじゃないですよね?」
「まさか。怖い映画じゃないよ、大丈夫」
「え、違うんですか? 残念だなあ」
ソフィアとくるみの会話を聞いて、翔琉が妙にがっかりした顔をする。
「な、なに? 翔琉くん好きなの? そういうの……」
「はい。特にこう、人間が絶対に敵わないとわかっている存在に立ち向かっていって、全力で状況を打開しようとするんですけど、結局全員死んじゃって何も解決しないとか、自分以外の人間が明らかに変なのにみんながそれを当たり前に受け入れてるのを見てどんどんおかしくなるとか、異形の者たちと接触してその中に取り込まれていくとか、生還したけど発狂してどうにもならなくなるとか……」
「やだ、やめてよ森くん、眠れなくなっちゃう!」
くるみの問いに嬉々として答えた翔琉に怯え、紗雪が隣の敦哉にしがみついて悲鳴を上げる。
「そういう精神的に来るホラーはゲームとテレビドラマで充分っすよ、翔琉氏……」
「もう『スリラー』のMVでも見てなよ」
「えー、オレ、ゾンビとかそういうのはだめなんだよ、無理無理」
「だめだ、翔琉の基準がわかんない」
凛子と敦哉に諭される翔琉を見て、ソフィアが額に手を当てて唸る。
「ああ、翔琉くんそっちの方の趣味があるのか。映画じゃないけれど、好きそうな曲、前に動画サイトで見たな。何だっけ、えーと……」
政宗が翔琉の嗜好を察して話に加わるまでもなく、翔琉は自ら餌を撒いて食いつく。
「あ、ダクヒルの『Nyarlathotep』ですか? 弾けますよ、ボク。政宗先輩あとでセッションしますか?」
「え、いや、セッションまでは……確かにその曲だけども」
「もう、磐田先輩までやめてください!」
すっかりその気になっている翔琉に政宗がたじろぎ、とうとう紗雪が耳をふさいで敦哉にくっつく。
(祐華が言ってた、ギター上手いけど、ちょっと変わってるのってあの子か……)
新入部員たちとはしゃぐ翔琉を見遣り、紘輝は秘かに自分の闘志に火がついたのを感じる。
(あとでお手並み拝見、だな)
スタジオで彼がどんなプレイを見せるのか楽しみにしつつ、彼は少しぬるくなった麦茶を飲みほした。




