第109話
一時間もすると、バスの中は連日の暑さの疲れからか、起きている者はほとんどいなかった。
最後部の座席では、ギグバッグを抱えた興津とくるみが、互いに身体を寄せ合って手を繋ぎ、静かな寝息を立てている。
その少し前では、自分のスポーツバッグを半分潰すような角度に背もたれを思い切り倒してソフィアが仰向けになり、隣の窓側と座席の隙間にポニーテールを嵌めるようにして安定させた姿勢で、凛子がすやすやと眠っている。
反対側の通路では、窓に頭をもたせ、口を開けて眠りこけている慎に寄り掛かっている祐華が幸せそうに目を瞑り、その前から自分の荷物を挟んで目いっぱいに座席を倒した隆玄が、眼鏡を外して小さないびきをかいている。
向かい側では涙の跡の残る頬で政宗が満足そうに自分のバッグの上に倒れ込み、そのひとつ前の座席の太陽とミチルは、彼女が彼の肩を枕に、くうくうと小さな子供のように眠りについている。
最前列の一人がけ用の座席では、ワイヤレスイヤホンで何かを聴きながら、アイマスクをしたジャージ姿の翔琉が、完全に身体の力を抜いた状態で深い眠りに落ちていた。
自分の肩に寄り掛かってうつらうつらしている紗雪の髪に頬を乗せ、敦哉はひとり眠れないまま、窓の外を流れていく高速道路の風景を見ている。
(藤枝紘輝さん……)
兄からの個人チャットにあった名前を思い出しながら、敦哉はまだ見ぬその人のことを考え、そして同時に複雑すぎる自身の家族を思い、真夏の日差しが作る影のような暗い気持ちでいた。
自分たち三人きょうだいが、全員母親が違うことを聞かされたのは、小学校に上がったばかりの頃、酒にしたたかに酔った父が自分を怒鳴りつけたときだった。
きっかけは、ただ一度、たまたま設問を見逃して75点をとった算数のテストだった。
それまでただ単に年が離れているだけだと思っていた、高校三年生の兄の大輔と、五つ年上の姉のいずみが、酒焼けした声で「出来損ない」という心無い言葉と共に飲んでいたグラスを中身ごと投げつけられた自分を、その夜は泣き止むまで寄り添って慰め、一緒に眠ってくれたのを覚えている。
傷付いた自分を、母が一言も庇わなかったあの日、敦哉の中で母に対する信頼は崩れ始めた。
後に母方の祖父母から憎々し気に「望まない妊娠で生まれた子だ」と冷酷な目で告げられた時から、自分はこの世界に存在してはいけないのかもしれないと思い始めた。
それでも、優しい兄と姉はまるで両親のように、「敦哉はいい子」と事あるごとに彼を褒めて、慰め、母にそうしてもらえない代わりに抱きしめて頭を撫でてくれた。
兄と姉がいなければ、自分はどれだけ心がねじ切れて歪んでいただろうかと思うほど、敦哉の家庭は何もかもが崩壊していた。
兄が東京の本郷にある国立大学に通うために家を出て行った後、家の中に残された姉と自分は、勉強も運動も優秀過ぎる兄と常に比較され、見下されながら、残酷で狼藉者の父と、それに何も異を唱えないロボットのような母から、身を護るようにしてひっそりと生きてきた。
それ以前から、彼女の生母に似たのか、思春期を迎えて女性らしい体つきになりはじめた姉を、父はとても実の娘に投げかける内容の言葉とは思えない言葉で、日毎夜毎、破廉恥に詰っていた。
敦哉の母はそれをまるで聞こえていないかのように無視し、時にその言葉に――むしろ姉に対して、嫌悪の眼差しを向けた。
そのうち、父の行為はエスカレートし、いずみは偶然を装って着替えを覗かれたり、洗濯機に入れた下着を見られたりするようになり、ある日、部屋のドアノブが「たまたまゴルフクラブが当たった」ことで壊されたのを、恐怖に涙を流しながら相談したいずみの身を案じた大輔の指示で、父の魔の手から逃れるため、彼女は敦哉の部屋で寝起きし、生活するようになった。
そうして暮らすうち、いよいよ危機感を覚えたのだろう、「有名な私立大学に入るために勉強に集中したい」と言って、いずみは寮のある駅前の女子校へと転入し、「通える距離なのに寮に入る必要はない」などと言って家を出ることに反対した父を、まだ大学に入ったばかりの大輔が「自分が寄付金と学費と寮費を出す、それが嫌なら自分が大学を中退する」と脅し、説き伏せて、どうにか無事に家から逃げたのだった。
長期休みで家に帰って来ざるを得なくなると、鍵のかかる敦哉の部屋に逃げ込んで夜を明かし、それでも父に怯えて、声を殺して泣いている姉を気遣うそのたびに、いつも涙を慌てて拭いてから「大丈夫」と悲しそうに答える笑顔を見るたび、敦哉は自分の無力さが歯がゆくて仕方なかった。
大輔が大学を卒業した後、そのまま東京で就職して、一生地元に帰らないと手紙をよこしたのと同じように、早くいずみがこの家を出て、無事にどこか遠くへ逃げ切って、幸せになって欲しいと敦哉は強く願っていた。
果たしてその通りに彼女は、見栄っ張りな父の自己顕示欲を満たせるだけの有名大学に合格し、二年前に兄を頼って家を出た。
駅の改札の向こう側で晴れ晴れとした顔をしてこちらに手を振ったいずみの姿を、敦哉は今でも時折思い出し、いつか自分も家を捨ててどこかに逃げ出すのだ、と、そのたびに心を奮い立たせるのだった。
(……姉さんの彼氏、か)
そんないずみに、恋人ができたという話を聞いたのは、兄がよこしたチャットからだった。
学校帰りに電車の中で痴漢に遭っていた姉を助けたその人は、どういう運命の巡り合わせか、祐華の兄の紘輝――先代の軽音楽部の部長だったのだ。
先輩たちから聞く限りの話では、その人は男気に溢れ、相手が教師であろうと何であろうと、正しいことは正しい、間違っていることは間違っているとはっきりものを言い、人のためなら手を貸すことを惜しまないという、とても義侠心の強い人間だということがうかがい知れた。
(そんな人だから、姉さんを助けたのかもな。あの街では、きっと誰もが見てみぬふりをするんだろうに……)
フィリピン人の血を引くゆえに目鼻立ちが濃く、凛としたきつい顔立ちや、女性にしては上背に恵まれている見た目と裏腹に、優しく穏やかで、人にものを言い返すことも躊躇するほどひどく心根の弱い姉が、痴漢に遭ってもなかなか反撃出来ないことは想像に難くない。
それゆえに、そのまま彼と姉が同郷同士ということで意気投合し、付き合い始めたのは当たり前のこととして納得できた。しかし、
(出逢って三日で同棲って、それはそれですごいな……)
思うに、姉の方が紘輝にベタ惚れしているのだろうが、あまりの展開の速さに苦笑する。
(でも、やっぱり居づらかったのかもな。兄さんだって恋人を家に呼ぶくらいはするだろうし、夜なんかは気まずくなるよな。男同士だって、することはするんだろうし)
その考えを伝って、引きずり出されるように思い起こされた、大輔が東京に出て行く前の日の記憶が蘇る。
あの日、自分といずみを部屋に呼んで、彼が父の最も毛嫌いする『同性愛者』であることを明かしてくれた時の深い恨みをはらんだ笑顔をふと思い出し、敦哉は少しだけ背筋が寒くなる。
(兄さん、あの時何も言わなかったけれど、……何か企んでる。この間ベース買ってくれた時も、父さんのこと、様子を細かく聞いてきたし……兄さんの中にもきっと、俺にはわからない父さんへの憎しみとか、そういうものがあるんだろう。それが何かはわからないけど……)
行方不明になってしまったいずみの母親とは違い、どうやら所在がわかっているらしい大輔の実の母との間でも、何か話が交わされているのかもしれない。
そこまで考えて、敦哉はすっかり頭が疲れてしまう。
(ほんと、嫌になっちゃうな。どうしてこんな家に生まれたんだろう。父さんが母さんを無理矢理妊娠させなければ、俺なんて、生まれてこなくて済んだのかもしれないのに……)
父への恨みを吐いたところで何が変わるわけでもない現実に、大きなため息を吐く。
(藤枝さん、知ってるのかな、うちの事情。もしも知らないで付き合ってて、わかったとたんに姉さんを捨てるような人だったら……)
紘輝がそんな人間ではないということは妹の祐華を見ていれば自明ではあるし、先輩たちのみならず、興津までもが彼に置いている信頼の大きさからも彼の人となりを察することは出来るが、あまりにも異様で歪な自分たちの家庭環境をすんなり受け入れてくれるのかどうかだけは、甚だ疑問だった。
「ん……」
隣で紗雪が小さな声を上げ、敦哉の身体に深く寄り添う。
(さゆ……)
夏休み前に太い眉の上で真っ直ぐに揃えた前髪が、エアコンの風に揺れている。
まるで過去を振り切るようにずっと伸ばしていたおさげを切り落とし、真っ白で細い首筋が露わになる長さでふっつりと終わっている柔らかい焦茶色の髪に、敦哉は思い切ってほんの少しだけ唇を寄せてみる。
(俺、さゆがいなかったら、……あの子と同じように、死んでたかもしれないよ)
一年前に自ら命を絶った同級生を思い出して、また敦哉の心に影が差す。
保育園で出逢った紗雪の存在がなければ、自分は中学生にすらならなかっただろう。
(さゆとたっちゃんは、俺っちきょうだいの話を聞いても、全然態度変えなかった……二人の家もそこそこひどかったから、余計にわかってくれたのかもしんないけれど、それでもやっぱり嬉しいよ)
田舎で暮らしていれば、自分たちのような『特殊な家庭環境』や『女癖の悪い父親の家』の噂はあっという間に広がり、近所の人々の知るところになる。
特に外国人の血を引くうえに愛人の子供ということもあり、姉への風当たりは、――同級生よりも、むしろその親や周辺の大人たちから――相当きついものだった。
その姉の出自を出汁にして、同級生や教師から奇異の目で見られていた敦哉を、隆玄と紗雪は実の兄妹のように庇い、いつも声をかけて遊んでくれた。
(兄さんと姉さんがいてくれたのももちろんだけど、さゆとたっちゃんがいなかったら、本当に俺、今みたいに呑気に高校生やれてたか、わかんないな)
ふんわりと紗雪の髪から香ったリンゴの匂いのシャンプーに、胸がぎゅっと痛くなった衝動のまま、敦哉はもう一度彼女のつむじに、今度は小さな音を立ててキスを落とす。
(さゆ、俺、さゆの役に立ちたい。たっちゃんの力になりたい。二人が医者になるなら、俺、看護師になるよ。少しでもいいから恩返しがしたいんだ。ずっと側にいたいよ、さゆ……)
隆玄の恋人の麗のように医者を目指すことは出来なくても、そのくらいならどうにかなる気がして、考え疲れた敦哉も意識を手放し、紗雪の細い身体に力を抜いて寄り掛かった。
(……あっくん、今、わたしに……)
ほんのりと夢から覚め、黙って自分に寄り添ってくれている彼に思い切ってもっと身を寄せた途端、柔らかいものが髪の分け目にくすぐったく触れた感触がして、紗雪の意識は覚醒する。
(どうしよう、……すごく嬉しい……あっくん、わたしのこと好きなんだ……ただの幼馴染じゃなくて、女の子として見てくれてるんだ……)
ここのところずっと心に抱えていた不安が消え、口元がほころぶ。
するともう一度、今度は優しく、ちゅ、という音を立てて、こそばゆく温かい唇が触れる。
(……ああ、目が覚めててよかった……好き……大好き……)
満足気に寄り掛かってきた彼のポロシャツの襟が肌に触れ、胸の奥が焦げるように熱くなる。
夏という季節のなせる業か、紗雪は確かに二人の間にずっと張られていた薄い壁が燃え落ちて、灰になったのを感じた。
(あっくん……わたしのこと、ちゃんとお嫁さんにしてね……わたし、覚えてるから……)
保育園の園庭で約束を交わしながら七夕の短冊に書いた願い事を思い出し、紗雪は再び敦哉に身を預け、浅く甘い眠りについた。




