第108話
「ありすちゃーん、それじゃお姉ちゃん、行ってくるからね。ママといい子で待っててね」
母親に抱かれてきゃっきゃと笑うありすのぷにぷにした頬を指先でつつくと、くるみは名残惜しい気持ちでサンダルを履く。
「智、ゲームばっかりしてないで、ちゃんと頼子さんとおばあちゃんっち手伝えよ」
「もー、わかってるって」
姉の隣で靴の先をとんとんと玄関のタイルに打ち付けている、胸元にサカバンバスピスが描かれた白いTシャツとケミカルウォッシュデニムを着た兄に、面倒くさげに智が答える。
「二人とも、夜更かしはだめよ。くるみはちゃんと宿題もしなさいね」
「はいはい」
「返事は一回!」
エプロン姿の淑子の厳しい物言いに首をすくめて、くるみと慎は顔を見合わせ苦笑いする。
「まあまあ。……お土産楽しみにしてるよ、二人とも楽しんでおいで」
良一が淑子をなだめつつ、二人に手を振る。
「じゃあ、ちょっと留守番頼みます」
玄関の扉を開けながら皆に声をかけた朔太郎に続いて、
「行ってきまーす」
それぞれボストンバッグを手にしたくるみと慎は、リュックサックの上からギグバッグを背負い、息をするだけでも火傷しそうなほどの熱さの中へと躍り出た。
「紘輝先輩は、直接東京からバスで来るんだったよね?」
「うん、高速バスの直通便があるからそれに乗って、日曜日の午後に帰るって。お盆以外は夏休み無いみたいだし、バイトも無理言って休ませてもらったみたいだから」
助手席の兄と会話を交わしながら、白いキャミソールの上にブルーのシャツを羽織って裾を結び、スキニーデニムを履いたくるみは、日焼け止めを塗り忘れている箇所がないか確認する。
「へー、やっぱ専門って大変だなあ。それで生活費稼ぐのにバイトして、学校行ってライブの練習なんてやってたら、寝る時間ないんじゃないの?」
「たぶんな。チャットの返信、二日後とか最近普通だよ」
「うああ、そんだけ忙しいってこんかあ……ほんと、好きだから出来るんだろうね……わたしが同じことやれって言われたら、絶対無理だもん」
「お前の場合は特に根性ないからな、途中でホームシックになって帰ってきそうだし」
「はあ? 修学旅行から帰ったら熱出したお兄ちゃんに、言われる筋合いなんてないですー」
「何関係ないこと引っ張り出してきてんだよ」
「根性ないのは一緒でしょ」
「こら、二人ともケンカしない」
運転席の父に諫められ、慎とくるみはばつが悪そうに顔をしかめて口をつぐむ。
「しかし、藤枝菓子舗も大変だろうね。紘輝くん跡継ぎなのに、よく東京に行かせてあげたと思うよ。普通なら何としてでも止めるだろうに、ギターまで買ってあげるなんて優しいお父さんだ。ずっと紘輝くんが努力しているのを側で見ていたから、余計に応援してあげたくなったんだろうね」
朔太郎の言葉にうなずきながら、くるみはふと思いついたことを口にする。
「お兄ちゃん、大学出たら祐華ちゃんと結婚して、婿入りして和菓子職人になればいいのに」
「ばっ……! おま、何言ってんだ!!」
「いいじゃん、きっと祐華ちゃんも先輩も喜ぶよ? ねー、お父さん」
顔を真っ赤にして振り向いた兄に、くるみはなおもにやにやと笑いながら畳みかける。
「ははは、それで向こうの親御さんが困らないなら、父さんは別にいいよ」
「父さんもやめてくれってば! 頼まれたって無理だって、二人とも俺が絵ぇ下っ手くそだってわかってて言ってんだろ!!?」
「あっはっは、そのぶん独創的なお菓子のデザインが出来るかもしれないじゃん?」
「お前、完全に馬鹿にしてるだろ!」
またもや始まった兄妹喧嘩を、今度は止めることなく朔太郎も一緒になって笑いながら、三人を乗せた白いワゴンは焼け付く朝の光と熱風をかき分けて駅へと向かった。
「じゃあ、行ってきます」
「行っておいで、楽しんでくるんだよ」
送ってくれた父に礼を言って車から降り、去年の合宿の時とさほど変わらない暑さの中、その時よりも多い荷物を持って二人は駅のコンコースに向かう。
「お、いたいた。ホントに人数倍になってるな」
「これでも当初の8分の1に減ったんだよ」
「へえ……アニメの力ってすげー……」
「そのアニメを見てギター始めて、それでちゃんと弾けるようになった子もいるんだよ」
「マジか、それもすごいな。人間、何がきっかけになるか、わかんないもんだな……」
遠目に部員たちの姿を見つけて会話を交わしながら、くるみと慎は日陰の中に一刻も早く逃げ込もうと足を速めた。
「おはようございまーす」
くるみが挨拶すると、みんなが口々に同じ挨拶を返してくれる。
「おはようございます、先生」
「おはよう、二人とも。これで全員揃ったかな」
屋根の下の日陰で額の汗をタオルハンカチで拭いながら、白いワイシャツに黒いデニム姿の興津が微笑み、くるみと慎の方を見た。
「うん、ソフィアちゃんもいるし、これで全員ですね」
慎の側に嬉しそうに駆け寄りながら、レモンイエローのワンピースに赤いリボンの麦わら帽子を被った祐華がうなずく。
「もー、ひどいなあ。アタシだけ集合時間三十分も早いなんて連絡よこすんだもの」
ピンクのへそ出しのチューブトップとデニムのショートパンツから長い手足の伸びるソフィアが、豊かな胸の前で腕を組んで拗ねる。
「それだけ普段の信用がないんすよ、ソフィア氏は。実際来たのついさっきじゃないすか」
猛暑だというのに、爽やかなパステルグリーンに白いチュールレースをあしらったワンピースをまとい、同じ生地のリボンでポニーテールの根元を飾った、いわゆる『クラロリスタイル』の凛子の容赦ない言葉に、えー、とソフィアが抗議すると、和やかな笑いが辺りに響いた。
「もうバス来てるし、早く乗っちゃった方が良さそうっすね」
コンコースの正面のロータリーに止まっているマイクロバスを見て、黒いTシャツにダメージデニムの、個性的な服装の中では逆に目立つシンプルな服装の隆玄が言うと、
「あ、先生、自己紹介するなら今の方がいいですか?」
慎がはたと気づいて興津に問う。
「そうだな、じゃあ簡単にね。必要なら、また後で向こうに着いたら時間は取るよ」
興津の言葉に慎はうなずくと、新入部員の方に向かって頭を下げる。
「どうも、くるみの兄の慎です。一昨年の部長やってました、よろしくお願いします」
挨拶された方も慎に一斉に頭を下げ、よろしくお願いします、と声をそろえた。
荷物を思い思いの座席に詰めながら部員たちが乗り込む最後尾で、興津は肩にかけていた斜めがけのショルダーバッグから、カラフルな糖衣のチョコレートが入った筒を出す。
「先生」
優しい声に隣を見ると、くるみが彼を見上げて微笑んでいる。
「わたし、隣に座ってますから、寝たかったら寝ててくださいね」
「うん、ありがとう」
彼はそう答えてからチョコレートの筒の蓋をあけ、
「手、だして」
そう言ってくるみに差し出す。
「え?」
「僕だけ食べるの、ずるいだろ。シェアしよう」
「……はい」
頬を染めたくるみの白い手のひらに、ころころと色とりどりのチョコレートを乗せると、自分はひと粒だけ口に入れて、ピンク色の薄い糖衣をぱりん、とかみ砕く。
(……大丈夫。いつまでも怖がってたら、何も変われない)
一年前にくるみがかけてくれた優しい「おまじない」に、彼は心を預けた。
「去年の電車の旅も楽しかったけど、楽器の持ち歩きが大変だったから、今回は楽でいいね。本当にありがとう、ミチル。あとでお父さんたちにお礼言わないとね」
前側に座っていた彼女の隣に腰掛けながら、ネイビーのスポーツTシャツにジャージのハーフパンツを合わせた太陽が、ストラトキャスターの入ったギグバッグを抱える。
「いえいえ、お安い御用です。今年は演奏する曲目が多いですから、短縮できることはどんどん短縮して、練習時間を確保しないと」
白いパフスリーブの仕立てが良いワンピースの裾を揺らし、窓から射しこむ日差しのきつさにカーテンを閉めながら、ミチルがにこにこと笑って答える。
「それなあ、まさか演奏時間、四十分ももらえるとは思わなかったよ。な、りゅーげん」
通路を挟んで反対側の座席でスマートフォンをいじっていた隆玄に太陽が呼び掛けると、
「いやぁ、去年の盛り上がりっぷりが凄かったからって、生徒会長がノリノリでさぁ。逆に言えば下手なこんできなくなったってことだから、気合入れないとまずいぞ、今年は」
彼はそう言って肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。
「いいよ、やってやろう。俺たちにとっては高校最後のステージだ。な、政宗くん」
「へ?……え、あ、うん」
突然前から話しかけられ、政宗は持っていたタブレットを落としそうな勢いで顔を上げる。
「……何してんの? 作曲?」
太陽は行儀悪く膝を座席について後ろを向き、背もたれの上から政宗の手元を覗き込む。
「あ、いや、違う違う、……まあ、気にしないでよ」
一昨日投稿した曲の再生数を見るか否か迷っていた政宗は、慌てて自分を戒めてタブレットをケースにしまい、黒いデニムの膝上に置いた。
(何やってんだ政宗! 男に二言はないだろ!……ああでも、やっぱ気になる。めっちゃ気になる。今回はマジで気合い入れたんだ、牧之原ちゃんのビブラートとブレス参考にして、太陽くんのギターの音もらって、新しいボカロのソフトも買って、くっそ恥ずかしいけど自分でも歌って、PVだっていろんな動画参考にしてキネティックタイポグラフィとか影絵で自分なりにエモくしてみたんだ……あああ、これでもしも再生数1000も行ってなかったらどうしよう、俺泣いちゃうかも……)
すでに半分泣きそうな気持ちで目を瞑り、必死に邪念を追い払おうと政宗は深呼吸した。
その時、
「うえっ!? すすすすすすすすごいっ!!!」
後ろでソフィアの隣に座っていた凛子が突然大声を上げる。
その声に思わず政宗は閉じたばかりの目を開け、みんなと一緒に彼女の方を振り返る。
「リンちゃん落ち着いて。……なに? 何が凄いの?」
立ち上がった彼女の肩を押さえて座らせながら、ソフィアが不思議そうに尋ねると、
「いや、推してるボカロPの新曲が、二日で30万再生いったんすよ! ほら見て、これっす! 急上昇に入ってる!……うおお、わたしは伝説の始まりを目にしている……!」
そう言って彼女に自分のスマートフォンの画面を見せた。
(……まさか)
政宗はもう一度タブレットを取り出し、音を絞ってから動画サイトのマイページを開く。
「!……」
思わず凛子と同じボリュームとテンションで叫びそうになった声をぐっと飲みこんで、彼は震える身体を必死に抑えた。
四桁か三桁しかない再生数の動画の先頭にある『鏡のエデン』のサムネイルの右にある数字を、一の位から何度も読み返す。
『304,268』
今まで一つか二つしかなかったコメントも、十回押されていればいい方だった高評価も、バグではないかと疑いたくなる数をたたき出している。
タブレットにひびが入りそうなほど手に力がこもる。
ぽた、ぽた、と画面に雫がこぼれ、その中にある文字が三色に揺れて縁どられる。
喉奥から漏れてしまいそうな嗚咽を懸命に胸元で留めながら、それでも喜びに身体は耐えきれず、彼は伸びすぎた髪をはらりと落ちるままに、白いシャツの大きな背中を小さく丸め込む。
(やった、……やった、やった!)
声を殺して泣こうとしたが、やはりうまくいかなくて、政宗は一度だけ呻き、鼻水をすする。
「……ん? どした、政宗? もうバス酔いしたか?」
呑気な隆玄の声にうなずいて大嘘をつきながら、政宗は自分の人生の何か大事なものが見つかりそうな予感に、溢れ零れる嬉しさを全身で噛み締めていた。




