第106話
「「かんぱーい!!!」」
七月が終わるその日の真昼、街でいちばん古い島田剣道場の隣にある、古民家の香りがする平屋建ての日本家屋の中にある広い客間に、聖漣高校の軽音楽部員全員と顧問の興津、そして瑠菜が、剣道部の九州遠征を終えて無事に帰宅した太陽を囲んでいる。
互いにジュースのグラスを小気味よい音でぶつけた彼らは、残念ながら二回戦敗退とはなったが、助っ人ながら中堅として勝ち抜き戦に出場し、一回戦の相手を三人連続で破るというすさまじい快挙を成し遂げた太陽の慰労会を始めていた。
「動画のアーカイブ見たけど、お前すごかったんだなぁ。動きに無駄がないのが素人の俺でもわかったっけ。二回戦目もいいとこまで行ってたのに、惜しかったなぁ」
コーラを一口飲んで、隆玄が親友を素直に褒め称える。
「あはは、日が変わってもこの勢いでいけるかなって思ったら、やっぱちょっとダメだったっけ。勝ちたい欲が強すぎて隙が出来た」
残念そうな、しかし清々しい笑顔を太陽は浮かべる。
「でも、これで推薦も大丈夫なんじゃないか? インターハイには間に合わなかったけど、無事試合に参加出来たし、成績も良かったんだから」
凛子がハンバーガー屋で買ってきたフライドポテトに手を伸ばしながら、反対隣に座る政宗が嬉しそうに言う。
「そうだな、まだいろいろやることはあるけれど、いちばん大事なことは片付いたよ」
瑠菜とミチルが用意したおにぎりを大皿からひとつ取って、太陽は肩の荷が下りた表情で微笑んだ。
「やっと、軽音楽部全員集合ね」
自分の皿に、くるみが買ってきた海辺の洋菓子店のいちごシュークリームを乗せて、祐華がほっとしたように部員たちを見渡す。
「やっぱり合奏、太陽先輩がいないと寂しいもんね。ねー、ミチルちゃん」
「えっ……! も、もう、やめてください、そういう含みのある言い方……」
傍らで祐華が自宅から持ってきたクリームどら焼きを手にしたくるみにからかわれ、ミチルは頬を真っ赤に染める。
「いよいよ週末から、ミチル先輩んちの別荘でOBの方々も一緒に合宿っすか……なんかアニメみたいっすね!」
テンションが目いっぱいに高まった様子の凛子が、政宗の用意した、ココアとバニラの市松模様のスポンジにチョコレートをかけたケーキを、そう言ってからひと口頬張る。
「オレ、バス酔うんだよなあ……乗ったら速攻寝るから起こさないでくれよ」
「大丈夫だって、寝るのは得意なんだろ? いつも授業中寝てるんだから」
今回は大人数になったため、ミチルのはからいでマイクロバスをチャーターして現地に向かうことになったのだが、その話を聞いたときからずっと不安そうな翔琉を敦哉が励ましながらからかう。
「いや、まあその通りなんだけど……なんかさ、一定のリズムと音程でずーっと鳴ってる音楽ない? 授業中の先生の話みたいなの。そういうのあったら教えてよ、あれ、寝落ちするにはもってこいなんだよね」
「森、聞こえてるぞ」
興津にじとりと睨まれ、自分が失言をしたことに気が付いた翔琉は首をすくめる。
「ちょうど合宿の間に花火大会があるみたいね、浴衣とか持って行った方がいいかしら」
合宿とは全く違うことでそわそわしている紗雪に、
「アハハ、なんだか練習に夢中でうっかり行き損ねる気がするなー。行くならちゃんとリマインドしとかないとね」
自分が持ってきたポンデケージョをつまんで、ソフィアがにこりと微笑んだ。
「いーなー、あたしも参加したいけど、参加してどうするって話だよね」
「ホントだよ、お前来たって何もすることないだろ。音痴なんだし、お前はマジで勉強しないとどうにもならないんだから、素直に塾行っとけ」
夏休みに入ってからアルバイトを辞め、塾通いを始めたばかりの瑠菜が羨ましそうに部員たちを見ているのを、興津が買ってきたフライドチキンを取ろうとして隣に移動した太陽が事実で制する。
「えー、みんなの食事作る係とかじゃダメ?」
それでも食い下がろうとする瑠菜に、
「……俺らについてきたら、そのぶん大井先生に会える確率が減るけど、お前それでいい?」
物心ついてからずっと彼女が恋している、門下生且つ聖漣高校の剣道部の顧問の名前を出すと、そちらの方が重要であることに気が付いたのか、瑠菜はぐっと言葉を飲み込んだ。
太陽は出来るだけ可食部位の多そうなところを選び取って皿に乗せてから、ちらと傍らを見遣って言葉を続ける。
「……お前さ、いつまで続けんの、その格好」
「いつまでって……ギャルはいつまでもギャルでいていいんだよ?」
ピンクのレオパード柄のオフショルダーに、明度の高いグレーにブルーの差し色を入れてくるくると大ぶりに巻いた髪と、テープで二重幅を作った目に、ミントグリーンのカラーコンタクトを入れた瑠菜は、弟の質問の意図を測りかねてきょとんとする。
「お前がいいなら俺は何も言わんけどさ、……大井先生には何も響いてないぞ、それ」
「……別に、まーくんは関係ないよ。あたしがこのカッコしたいだけだし?」
「馬鹿だなお前。心理学の本読んでるくせに、全然実用できてない」
「……」
図星を突かれた表情の瑠菜に、太陽は控えめな声で諭すように話しかける。
「お前いちど、自分の胸に手を当ててよーく考えてみろ。無理してその格好してないかとか、自分の気持ちに嘘ついてないか、とかさ。別に中学のときみたいに髪色黒くして地味な見た目に戻れって言ってるわけじゃないけど、高校入ってからのお前さ、明らかに空元気ばっかで、見てられないんだよ。……まーくん、ずっと心配してたからな。お前が急に派手になったのも、剣道辞めたのも。悪い友達が出来たんじゃないかとか、変な男と付き合ってるんじゃないかって、俺に訊いてきたことあったから」
「え……」
「その辺だけ、たぶんお前の思惑通り気にかけてくれてるよ。でも、お前はそういう風に、まーくんを心配させたいだけなのか? もう俺らも十八になったんだし、子供っぽい手段で大人に構ってもらおうなんてのは、やめた方がいいと思うぞ」
そこまで話してしまうと、太陽は手に取ったチキンをむしゃむしゃと食べ始める。
その隣で思わぬ言葉に戸惑いつつ、瑠菜はコンタクトで乾く目を瞬かせて僅かにうつむいた。
「藤枝先輩、ご自分のライブもあるのに、合宿のお手伝いにまで来てくださるなんて、大丈夫なんでしょうか?」
実家から送られてきた、と翔琉が丸のまま三本持ってきたゴーヤに大爆笑しつつも、美味に仕立てた瑠菜お手製のチャンプルーに箸を伸ばしながら、ミチルが首をかしげた。
「うん、初ステージもどうにか終わったみたいだし、空き時間で自分の練習するからいいって言ってたわ。まあ、油断して次のライブで失敗しないといいけど」
敦哉が自作したまぐろのから揚げにレモンをかけつつ、祐華がくすくすと笑いながら答える。
「ライブハウスかあ、初めて行くなあ……ホント、今年の夏は盛りだくさんだよ」
これでまた家に帰れば、ありすの世話もあるのだと思って、くるみは浮足立つ心を止められない。
「ねえ、バンドのメンバーってどんな感じなの? 人数とか構成とか」
目を輝かせて自分を見る彼女に、祐華は指折り数えながら答える。
「えっとね、全部で六人よ。お兄ちゃんがリードギターで、同じクラスの人がリズムギター、あとはベース科の人と、打楽器科でドラム担当の人がいて、ボーカルが女の子なんですって。それと、最初のライブをブッキングしてくれた、セミプロのキーボードの人。元音大生だって言ってたかしら。なんか、勝手に中退したら勘当されちゃったらしいわ」
「いや、それは勘当されても仕方ないと思う……」
祐華の口から聞こえてきた人物のロックな生き様に、くるみは思わず苦笑いした。
「いったい、どんな演奏をなさるんでしょうね。きっと、わたしたちとのものと全然違ってレベルも高いでしょうし、勉強になることも多いんじゃないでしょうか」
期待に満ちた表情でミチルがそう言うが、祐華は首を横に振る。
「ところがね、そうでもないみたい。本番直前にボーカルが体調崩して、お兄ちゃんが代わりに歌ったみたいなの。そのあとメンバー同士でもめたりして、いろいろ大変だったらしいわ。この間も、次のライブまでそんなに日がないのに、練習に来ない人がいるって嘆いてたっけ」
「うわー、練習来ないって、それはまずいんじゃないの?……紘輝先輩っち、大丈夫かなあ」
くるみは心配しつつ、隆玄と紗雪の買ってきたカレー入りの今川焼を手に取る。
「体調のことは仕方ないとはいえ、急なボーカルの兼任は、藤枝先輩も大変でしたでしょうね……ボーカルの方、お元気になられているといいですね。きっと練習に来ない方も何か事情があるんでしょうし、その分お家できちんと練習されてるんでしょうから」
ミチルの言葉に祐華はうなずく。
「そうね。次はきっと大丈夫よね。楽しみにしてましょ」
三人は顔を見合わせて笑うと、それぞれが取ったものを幸せそうに頬張った。
「ははは、さすが高校生だ。あれだけあったのに、きれいに残らずなくなったね」
持ち寄った食べ物に加え、後から太陽たちの両親が用意した大桶の寿司ふたつと生クリームのケーキ2ホールのおかげで、広い座卓の上に隙間がないほどあったはずの食べ物と飲み物がすべて空になったのを、興津が笑いながら眺める。
「いや、さすがに食い過ぎました。もう動けない……」
「どうせ夕食までにはお腹がすくよ、君たちの身体はそういう風にできてるから」
胃のあたりをさすって天井を仰いでいる太陽にそう言いつつ、自身も少し食べ過ぎた気がして、今日は酒を飲むのはやめておこうと彼が考えていると、
「先生」
隣にすとん、とくるみが腰を下ろした。
「どうした、牧之原」
彼女は周りの話し声に紛れてしまう大きさの声で、彼の目を見て心配そうに言葉を続ける。
「あの、……この間おすすめした映画、もう観れました?」
二、三日前、「映画スターの話だから少し荒療治かも知れないけれど、ハッピーエンドだから」と彼女が薦めてくれた『雨に唄えば』のことを思い出し、彼は少しだけ顔を曇らせる。
「……いや、まだだよ。いざとなると、決心がつかなくてね。配信サイトのお気に入りに入れて、それっきりだ」
「そうですか……やっぱり、難しいです?」
彼の返答に肩を落としたくるみに、興津はひどく申し訳ない気持ちで軽く頭を下げる。
「いや、大丈夫。必ず観るよ。……悪いっけね、せっかく薦めてくれたのに……」
「いいえ……先生の気持ちが一番大事ですから、無理はしないでくださいね」
「うん、ありがとう」
二人は恋人同士の距離感で微笑みを交わす。
と、そこに、
「先生とくるみ先輩、何の話してるんですかー?」
「「うわっ」」
ずい、とソフィアがしゃがんで間に割り入って来る。
「ソフィアちゃん、びっくりさせないでよ」
「アハハ、すみません。なんか深刻そうだったから気になっちゃってー」
悪びれない様子のソフィアに、二人は少しだけ邪魔をされたのが惜しい気分になる。
「……たいしたことじゃないから気にしなくていいよ、松崎」
「ふーん。あたしてっきり、デートの相談でもしてるのかと思いました」
「なっ……」
とんでもない発言に、興津は思わず言葉に詰まり、くるみは硬直する。
「だって、映画がどうとか言ってたじゃないですか。なんか二人で観に行くんです?」
「あー、……いや……」
地獄耳と言っても差し支えないソフィアの言葉にすっかり窮してしまった興津へ、
「あ、あの、先生大きいスクリーンで映画見るのすっごい苦手でね、音響もあんまり大きいと耳が痛くなっちゃうから困ったねって、そんな話してただけ! 二人で観に行くとか絶対ないよ、ソフィアちゃん。冗談でもそんなこと言わないでね。またこの間みたいに誰かに誤解されて、先生困っちゃうじゃない」
我に返ったくるみは瞬間的な嘘を混ぜた事実で助け船を出す。
「あ、ああ、うん、実はそうなんだ。あんまり大きなスクリーンだと画面酔いするし、見ようとするとめまいや耳鳴りがするもんで、もうずっと見てないんだよ。でも、それじゃ何だか少しもったいない気がしたもんで、この間牧之原に何かおすすめはないかって訊いたんだけれど、時間が取れなくてまだ見てないって話をしただけだ。頼むから無駄に話を飛躍させないでくれ、松崎。牧之原がまた迷惑を被るだろう」
それにうまく乗った興津が淀みなくまくしたてると、
「ふーん……まあそうですよね、そんな人の多いところでデートなんかしないか」
疑いの眼差しを緩めることなくソフィアは引き下がる。
「もう、そもそもデート自体しないってば。わたしたちはただの生徒と先生だよ?」
「まったくだ、仮に申し込まれても断るに決まってるだろう」
本当は堂々とそうしてみたいという気持ちを互いに抑えながら、くるみと興津はソフィアの疑惑を払拭しようと試みる。
すると、今度はくるみの背後から、
「あの、先生。スクリーンが大きくなければ、ご覧になれますか?」
ミチルが唐突に話に混ざってきて、三人は目を白黒させる。
「え、どういうこと?」
意図がわからないくるみが彼女に訊き返すと、ミチルは優雅に微笑んで言葉を続ける。
「去年はご案内しなかったんですが、実は別荘の地下には、スタジオ以外にホームシアターがあるんです。せっかくですから、くるみさんがお薦めされているその映画、合宿の時にみんなで一緒に観てみませんか? ソフト化や配信されているものでしたら何でも観られますよ」
途方もない発言をさらりと吐いたミチルに唖然としながら、彼女の家ならさもありなんとすぐに納得したくるみたちは、
「あの別荘、まだそんな能力を隠し持っていたとは……」
「牧之原、バトルマンガのセリフじゃないんだから」
「はー、ホームシアターかー……お金持ちのやることは違うなー、アタシのパパには人生三回繰り返しても無理だ……」
三者三様に反応し、それぞれに思案する。
「え、なに、何の話?」
「合宿で何かやるんですか?」
それを聞きつけて、すっかり食い倒れていた部員たちも彼らの周りに集まり始める。
くるみと興津は、まったく同じタイミングで顔を見合わせる。
「……先生」
「ああ」
それだけで何を伝えたいかがすぐにわかって、二人は少しだけ距離を詰めて指先を触れ合う。
一年前、バスに乗ったときがそうだったように、手を取り合えばきっと怖くない。
その確かな感覚に互いの目が凪ぎ、微笑みの甘さが増したのを、くるみと興津は感じていた。




