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コンクリート造りの無機質な建造物が見える。かなり年季が入っているのか、40年から50年はくだらない。――それこそが、第一中学校の校舎である。
僕が向かうべき場所は、無機質なコンクリートの塊ではなく、広大な敷地の中にあるプールである。どうやら、吉岡美里はここでスイミングスクールの手伝いを行っているらしい。当然だけど、中には誰もいない。
吉岡美里は話す。
「スイミングスクールは土日の午後5時から7時まで行っていて、生徒さんの数はだいたい30人ぐらいよ。――教え子の親御さんが脅迫状を送りつけてきた訳じゃないとは思うんだけど」
「それはそうだろう。――普通に考えてあり得ない」
「そうよね。私に脅迫したところで、そんな簡単に犯人に対して『はい、身代金です!』って渡すかしら? いくらなんでも、そんなマヌケな話はないわ」
彼女はそう言いつつ、僕はスイミングスクールの生徒名簿を見せてもらった。
「――特に怪しそうな人物は見当たらないな。まあ、子供なら当然だろうか」
「一応、親御さんの名前も書いてあるんだけどさ、みんな――なんて言うんだろう、私に対して優しいのよ。私はオリンピアンの夢を諦めたけど、矢っ張り教え子の中には『吉岡選手みたいになりたい』っていう子もいるの。多分、日本選手権や世界選手権で活躍を見ていたんでしょうね」
「なるほど。――ちょっと待った」
「どうしたの?」
「確か、美里は『スイミングスクールの手伝いをしている』って言っていたな。先生というか――教えている人は誰なんだ?」
「ああ、そっちね。名前は『亀岡勝』よ。知ってると思うけど、彼は――リオオリンピックの代表選手よ。種目は200メートルバタフライだったかしら」
亀岡勝か。――聞き覚えがあるな。彼の活躍はなんとなくネットニュースで見ていたし、世界選手権に関しては速報レベルで結果が入ってきていた。見た目はイケメンで、女性人気が高かったことも覚えている。
「そんなスターが、豊岡でスイミングスクールを営んでいる? どういうことだ」
僕がそう言うと、吉岡美里は――声を小さくしながら答えた。
「彼、東京オリンピックの選考大会の前にドーピングでしくじったのよ。結果的に日本水泳界を追放されて、人知れず豊岡にやって来た訳」
「なるほど。――結構訳ありだな」
そんなことを話していると、続々と子供たちがやって来た。――これが吉岡美里の教え子か。
こんな状況で、僕はここにいていいのだろうか? それが分からなかったので、僕は彼女に質問した。
「僕はここにいていいのか?」
彼女は、申し訳無さそうに答える。
「もちろん。――探偵さん、私のことを守ってよね」
つまりは――「護衛をしてくれ」ということか。それなら悪くはない。
「分かった。――何か変わったことがあったら教えてくれ」
そういう訳で、僕は吉岡美里のボディガードとしてプールサイドの椅子に座った。
*
その後は特に変わった様子はなかった。吉岡美里が襲われる気配もなかったので、僕は安心していた。
「――特に、何もなかったな」
「そうね。ボディガードをしてもらった甲斐があったかしら?」
「そうかもしれないな」
そんなことを話していると、大柄な男性がこちらへと向かってきた。男性は白い上着を羽織っているが、その筋肉質な肉体は――言うまでもなくアスリートのソレである。
男性は、僕を見るなり話しかけてきた。
「やあ、君が例の探偵さん? 僕が亀岡勝だ」
「そうなのか。僕の名前は――冬月絢華という」
「フユヅキアヤカか。――噂は聞いている。なんでも鴻上製薬の経営者を狙った毒殺事件を解決したり、京都で発生した刀剣による連続殺人事件を解決したりしたと聞いた。本業は小説家で、ペンネームは『月極冬華』だとか」
「ああ、そうだ。――どうしてそこまで知っているんだ?」
「そこの美里さんから聞いたんだ。こう見えて、美里さんとは長い付き合いだからね」
「まさかとは思うが、脅迫状を美里さんに送りつけたりはしていないよな?」
僕の質問に対して、亀岡勝は――当たり前の答えを返した。
「まさか。僕が美里さんに対して脅迫状を送りつける訳がない」
「それはそうか。――仕事仲間に対してそんなことをする訳がないか。無礼なことを言ってすまなかった」
「良いんだ。どうせ、真っ先に疑われるのは僕だろうと思っていたから」
その後も亀岡勝との話は続いたが、特にこれといった手がかりを掴むことは出来なかった。矢張り、彼が脅迫状の送り主という考えは捨てるべきか。
外が暗くなってきたので、スマホを見ると午後7時30分を指そうとしていた。――流石に、家に帰らなければ。
僕は、2人に対して「帰る」という旨を伝えた。
「それじゃあ、僕はこれで失礼する」
先に話しかけてきたのは、吉岡美里の方だった。
「あら、もう帰っちゃうのね。――でも、こうやって冬月さんと話ができて、少しは気が楽になったわ。また、変わったことがあったら連絡するから」
彼女に続くように、亀岡勝も僕に話しかけてきた。
「もう帰ってしまうのか。冬月さんとはもう少し話がしたかったんだけどな。――まあ、冬月さんには冬月さんの都合があるだろうし、無理強いはしないよ」
そう言いながら、僕は――教師用駐車場の方まで向かった。バイク用の駐輪場には、愛車――カワサキグリーンのバイク――が止まっている。
「何か、変わったことがあったらすぐにスマホに連絡してくれ」
「分かってるわ」
ギアを入れたところで、僕は――実家に向かってバイクを走らせた。
いくら8月の終わりといえども、矢張り――豊岡の湿度はジメッとしている。
そのジメジメとした空気を吸いながら、僕は幹線道路沿いをひたすら走っていた。――田舎の店は午後8時で閉店してしまうことが多いので、多くの店は閉店準備をしていた。閉店準備をしていないのは、パチンコ店と24時間営業のファミレスぐらいか。
*
実家に戻ると、知らない人が来ていた。当然だけど、喪服を身に纏っている。
「――誰や?」
僕がそう言うと、母親――御幸は端的に説明してきた。
「せや、絢華は知らんのか。――冬月商事の大口顧客である『兼近化学』の社長さんや」
兼近化学か。――就活で落ちた企業の1つだな。本社機能は豊岡にあって、元々はソーラーパネルを開発していたのだが、いつの間にか総合化学メーカーになっていた。確か、化粧品事業や食品事業も手掛けていたか。
僕は、和室の障子越しに父親と兼近化学の社長の会話を盗み聞き(?)していた。
「――それで、冬月商事の本社機能を神戸へと移転させるという話は本当なんでしょうか?」
「はい。現時点では、神戸へと移転させるつもりです。その方が、弊社のためにもなると思いますので」
「そうは言いますが、冬月商事から弊社へ出向している社員の扱いはどうなるんでしょうか?」
――なるほど。冬月商事は兼近化学に対して社員を出向させているのか。「豊岡は狭い」というが、狭からこそこういうコネクションが広がっているのだろう。僕はそう思った。
話は続いていく。
「その点に関しましては、兼近化学の方へと戻すということで……」
「そうですか。――分かりました」
矢張り、「豊岡で働く」ことは大変なのか。僕は飽くまでも芦屋の人間なので、その感覚が分からない。
とはいえ、あの時兼近化学に就職できていたのなら――僕は、もっと苦労せずに済んだのだろう。多分、僕が持っている科学の知識を存分に発揮できたと思う。
盗み聞きをしているうちに、会話というか――取引は終了した。
「それでは、私はこれで失礼する。――くれぐれも、粗相のないように」
「分かっています。私の方もそこは弁えていますので――絢華、聞いていたのか」
「どうしてそれが分かったんだ」
「どうせ、盗み聞きして次の小説のアイデアを練っていたのだろう」
――バレテーラ。
「バレていたか。――まあ、いいや。とにかく、兼近化学との取引で苦労していることは知ったからな」
「それはそうと、これが――兼近化学の社長だ。念のために挨拶しておくように」
そう言って、初老の男性は僕に向かって話しかけてきた。
「私の名前は兼近雅人と申します。言うまでもなく、兼近化学のCEOです。今後ともお見知りおきを」
「僕は冬月絢華だ。小説家だが、訳あって探偵業をやっている。――当たり前の話だけど、御社に干渉するつもりはない」
「でしょうね。――とにかく、私はこれで失礼するよ」
そう言って、兼近雅人と名乗った社長は――黒いトヨタクラウンに乗った。恐らく、運転手がいるのだろう。
そして、車は発進していった。――帰ったのだ。
*
和室の後片付けをしつつ、僕は父親――康介と話した。
「それにしても、ホンマに冬月商事の本社機能を神戸へ移転させるんか?」
「うーん、今ンところは神戸への移転を考えざるを得ない状況や。ただ、神戸へ移転させるということはリスクも伴うんやな」
「せやな。確かに、豊岡での雇用は格段に減ってしまうことになる。――今の豊岡でまともに就職できるのは、冬月商事しかあらへんしな」
父親から聞いた話、正直言って冬月商事の業績は――芳しくない。それは最近の不景気もあるのだろうけど、矢張り材料費の高騰が尾を引いている。材料費が高騰しているということは、当然コストカットも余儀なくされる。とはいえ、材料を国内ではなく海外から調達したら――品質の劣化に繋がる。正直言って、難しいのだ。
すべての片付けが終わったところで、僕はシャワーを浴びることにした。
白い肌に、痛々しいまでの自傷行為の傷痕が目立つ。最近は色々あって、自傷行為の傷痕は日に日に増えている。これはあまり良い状況ではない。
心臓の鼓動に合わせて、傷痕がズキズキと疼く。それは僕が生きている証拠なんだけど、傷の痛みに耐えられる訳がない。
僕は、痛みのあまり、衝動的に――カミソリで左腕に傷を付けた。傷痕から、血がどくどくと流れ出していく。白い肌が、血で穢れていく。
――ああ、これでいいんだ。
*
「――アンタ、何しとんねん?」
僕がその意識を覚醒させると、自分の部屋のベッドの上で寝かされていた。
ベッドの横には、ポニーテールの女性が煙草を吸っている。その嗄れた声色は――紛れもなく姉のものだった。
「――真衣か。帰ってきていたんやな」
姉――真衣は、煙草に火を点けながら話す。
「さっき帰ってきたとこや。シャワー浴びようと思っとったら、裸の状態でアンタが倒れとったんや」
「悪かったな、自傷行為への衝動に駆られて」
「別にええんやで。ただ、人様に迷惑かけることだけはやめてほしいんや」
「――まさかとは思うけど、オカンにチクってへんやろな?」
「スマン、チクった」
ああ、チクられたか。――これは後でものすごく叱られるパターンだな。
僕はどうやら中学生の頃から向精神薬の過剰摂取とそれに伴う自傷行為を繰り返していたようで、度々両親に叱られていた。それでも、やめられないモノはやめられない。
大人になるにつれて自傷行為は悪化していき、どん底だった頃は2週間に1回の割合で病院へと搬送されていた。病院に搬送されるといっても、全治半日で退院することはザラであり、却って病院に対して迷惑をかけてしまうことが多かった。――先日、心臓をナイフで刺されかけたことはノーカンだが。
僕の困り顔を見ながら、真衣は話を続ける。
「クソジジイが危篤って聞いとったから帰ってきたけど、遅かったみたいやな。アタシが帰ってきた時には、既に亡くなっとったわ」
「せやな。――昨日亡くなって、今日葬儀やった」
「ふーん。アンタの方が先に帰ってきとったのは予想外やったけどな」
「当然や。小説家は自由業やからな」
「――まあ、ええわ。とにかく、アンタは後でオカンとオトンから説教や」
「せやな……」
そういう訳で、僕は――両親から叱られた。自傷行為をしてしまったから、叱られて当然だろう。
説教が終わったところで、僕は0カロリーコーラとコンソメ味のポテトチップスを持って部屋へと戻った。そして、なんとなく京極夏彦の『絡新婦の理』(講談社文庫版)を本棚から取り出した。ちなみに、芦屋の自宅には講談社ノベルス版が置いてある。
僕は小説家ではあるが、京極夏彦ほどの実力はない。というか、とてもじゃないけど彼には追いつけない。僕は中学生の頃に読んだ『魍魎の匣』で衝撃を受けて同人レベルの小説を書き始めたけど、どうしても50ページ弱で止まってしまう。それは僕に小説家としての実力がないからなのだろう。
それでも、色々あった末に講談社に拾ってもらったので、僕はこうやって小説家という職業を名乗ることを許されている。――当然、裏の顔であるエクソシストのことは伝えていないのだけれど。
文庫が500ページを超えたところで、睡魔が襲ってきた。なんだか、今日は長く感じたな。葬儀からの吉岡美里との接触、そして自傷行為……最後は余計だが、色々とあった1日だったのは確かだ。
僕は、文庫に栞を挟んだ上で――寝ることにした。スマホの時計は、午前1時30分を指そうとしていた。
*
翌日。僕はスマホのアラームで目を覚ました。時刻は午前6時30分か。――流石に起きよう。
リビングでは、御幸がハムエッグを作って待っていた。焼きたてのパンも置いてある。
「おはよう。起きたんやな。――昨日は悪かったと思っとるで。絢華も色々と大変なのは知っとるし」
オレンジジュースを飲みつつ、僕は話す。
「せやな。自傷行為に関してはホンマに申し訳なかったと思っとる」
「だからって、今更やめられんモノはしゃーないわ。私もキツく言わんし」
「そうだな。――ん?」
僕は、朝のニュースで見たことがある場所が映っていることに気づいた。
「――ここ、第一中学校の裏山やな」
「それがどうしたん?」
「いや、なんでもないんやけど……」
アナウンサーは、事件の詳細を伝える。
「今朝、兵庫県豊岡市の市立第一中学校で女性の遺体が発見されました。女性の身元は元競泳選手の吉岡美里(32)と見られており、兵庫県警では――」
――えっ? 吉岡美里が殺された? 僕は、そのニュースを見ながら、一瞬思考が停止した。
フリーズした僕の思考を元に戻したのは、真衣だった。
「友達が殺されたん?」
「せや。――昨日、彼女に会っとる」
「なるほど。まあ、アンタはシロやとしても――多分、当日接触したということで事情聴取ぐらいは受けるやろな」
「それは分かっとるで。ただ、分からんことが多すぎる」
「それはそうやろ。――アタシが事件の目撃者でも、分からんことは分からん」
「せやな。――とりあえず、僕は第一中学校へ向かうで」
「ええんか?」
「ええんや。――僕、刑事さんと知り合いやしな。それじゃ、行ってくるわ」
こうして、僕は――バイクのギアを入れた。向かう先は、言うまでもなく第一中学校である。
そこでどんなことが待ち受けているかは知らないが、多分――僕が容疑者として疑われるのは確かだろう。




