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名残の街の相談屋  作者: みやしー


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6/7

九時より前の客


 新しい張り紙を出した翌朝、八時半に戸が鳴った。


 私はまだ、朝の茶を飲んでいた。


 名残ある二つの湯飲みのうち、藍色の方には皿を被せている。あとで温め直すためだ。


 戸を開けると、私より少し若い女の人が立っていた。

 紺色の前掛けを着け、髪の生え際まで細かな水滴がついている。


「あ、すいません。準備中でしたか?」


 私の肩越しに、卓を見た。


「あとでまた来ます」


「大丈夫ですよ、どうぞ」


 口にしてから、昨日決めた時間のことを思い出した。


 女の人はほっとした顔で、一歩入ってきた。


「猫を探してほしいんです」


     *


 名前はユノといった。


 母親と二人で、川の近くにある洗濯屋を営んでいる。先週、店を移したばかりだという。


「新しい店は、前の通りから二本奥なんです。遠くはないんですけど」


「猫も、一緒に?」


「引っ越しの日にいなかったから、そのうち来ると思って。

 前も、ときどき何処かに行ってたんです。でも、もう五日で」


 ユノさんは膝の上で手を擦った。


 洗い物をする人の手だった。指の節に、細かな傷がある。


「どんな猫ですか」


「灰色で、足だけちょっと茶色いんです。右の耳の先が欠けてて。名前はサビ」


 私は鉛筆を止めた。


 灰色。右耳に切れ込み。


 祖母の帳簿で見た言葉だった。


「前にも、ここで探してもらったことがありますか」


「先生に? ないと思いますけど…

 サビがここに来てたんですか?」


「まだ、同じ猫かは分からないけどね」


 引き出しから帳簿を出し、覚えていた頁を探した。


『猫。灰色。右耳に切れ込み。魚屋の猫ではない』


 日付は、三年前の秋だった。


 ユノさんが身を乗り出す。


「それくらいです。うちに来始めたのも」


「おうちの猫では、なかったんですね?」


「はい、最初は勝手に来て、勝手に寝てて」


 ユノさんは少し笑った。


「それで、名前をつけたんです」


     *


 先に、古い洗濯屋を見せてもらった。


 川沿いの道から細い路地を入ったところにある、横に長い建物だった。

 表の窓は閉めてあり、入口には、移転先を書いた紙が貼られている。


 ユノさんは鍵を開けると、まっすぐ奥へ進んだ。


「サビは、」


 空の店に、声が響く。


 洗い桶も、台も、布を干す竿もなくなっていた。

 床には大きな家具の跡が、色の違う四角になって残っている。


「いつも、どこで寝ていたんですか」


「天気がよければ裏です。雨だと、取り込み台の下で」


 取り込み台は、もうなかった。


 私は床の四角を見た。


 猫に移転の張り紙は読めない。


 それは確かだったが、今ここで言うことでもなかった。


 裏口を開けると、小さな庭があった。


 片側に薪小屋。反対側に、屋根のある物干し場。塀の向こうでは、隣家の枇杷の葉が揺れている。


 ユノさんが、窓の下に置かれた皿を指した。


「ごはんは、ここに」


 皿は空だった。


「引っ越してからも、置いているんですか?」


「はい、毎朝。だから、食べに来てるのかもしれないんですけど…」


 戸口の上で、鈴が鳴った。


 私は振り向いた。


 小さな真鍮の鈴が、紐の先で揺れていた。

 風は庭の奥から吹いているのに、紐は室内の方へ引かれていた。


「あぁ、これ」


 ユノさんは見上げた。


「お昼前に鳴るんです。洗い上がった布を取り込み始める合図で、母がずっと鳴らしてたから」


 店の奥へ、軽い音が消えていく。


「持っていこうと思ったんですけど、母が古いから置いていこうって」


 鈴が止まると、庭はまた静かになった。


 私は薪小屋を見た。


 入口の下に、指先ほどの灰色の毛が引っかかっている。


「ここは、開けました?」


「いいえ、中には何もないので」


 扉は少し傾いていた。押してみると、半分ほど開く。


 薄暗い奥に、古い木箱があった。


 その陰で、何かが動いた。


「サビ?」


 ユノさんがしゃがんだ。


 しかし帰って来た声は、低い。

 返事をする声ではなかった。


 私はユノさんの肩へ手を置いた。


「いったん、そのままで」


 目が慣れてくる。


 木箱の向こうに、灰色の猫がいた。


 右の耳の先が、小さく欠けている。


 その腹のあたりで、もっと小さなものが動いていた。


 一つ、二つ。


 灰色の背中の下から、白い足が出た。


 ユノさんが息を吸った。


「……子供?」


 サビは私たちを見たまま、もう一度、低く唸った。


 ユノさんは伸ばしかけた手を引いた。


 表の通りで、荷車が通り過ぎた。


 空になったはずの洗濯屋の奥で、小さな声が重なっていた。


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