九時より前の客
新しい張り紙を出した翌朝、八時半に戸が鳴った。
私はまだ、朝の茶を飲んでいた。
名残ある二つの湯飲みのうち、藍色の方には皿を被せている。あとで温め直すためだ。
戸を開けると、私より少し若い女の人が立っていた。
紺色の前掛けを着け、髪の生え際まで細かな水滴がついている。
「あ、すいません。準備中でしたか?」
私の肩越しに、卓を見た。
「あとでまた来ます」
「大丈夫ですよ、どうぞ」
口にしてから、昨日決めた時間のことを思い出した。
女の人はほっとした顔で、一歩入ってきた。
「猫を探してほしいんです」
*
名前はユノといった。
母親と二人で、川の近くにある洗濯屋を営んでいる。先週、店を移したばかりだという。
「新しい店は、前の通りから二本奥なんです。遠くはないんですけど」
「猫も、一緒に?」
「引っ越しの日にいなかったから、そのうち来ると思って。
前も、ときどき何処かに行ってたんです。でも、もう五日で」
ユノさんは膝の上で手を擦った。
洗い物をする人の手だった。指の節に、細かな傷がある。
「どんな猫ですか」
「灰色で、足だけちょっと茶色いんです。右の耳の先が欠けてて。名前はサビ」
私は鉛筆を止めた。
灰色。右耳に切れ込み。
祖母の帳簿で見た言葉だった。
「前にも、ここで探してもらったことがありますか」
「先生に? ないと思いますけど…
サビがここに来てたんですか?」
「まだ、同じ猫かは分からないけどね」
引き出しから帳簿を出し、覚えていた頁を探した。
『猫。灰色。右耳に切れ込み。魚屋の猫ではない』
日付は、三年前の秋だった。
ユノさんが身を乗り出す。
「それくらいです。うちに来始めたのも」
「おうちの猫では、なかったんですね?」
「はい、最初は勝手に来て、勝手に寝てて」
ユノさんは少し笑った。
「それで、名前をつけたんです」
*
先に、古い洗濯屋を見せてもらった。
川沿いの道から細い路地を入ったところにある、横に長い建物だった。
表の窓は閉めてあり、入口には、移転先を書いた紙が貼られている。
ユノさんは鍵を開けると、まっすぐ奥へ進んだ。
「サビは、」
空の店に、声が響く。
洗い桶も、台も、布を干す竿もなくなっていた。
床には大きな家具の跡が、色の違う四角になって残っている。
「いつも、どこで寝ていたんですか」
「天気がよければ裏です。雨だと、取り込み台の下で」
取り込み台は、もうなかった。
私は床の四角を見た。
猫に移転の張り紙は読めない。
それは確かだったが、今ここで言うことでもなかった。
裏口を開けると、小さな庭があった。
片側に薪小屋。反対側に、屋根のある物干し場。塀の向こうでは、隣家の枇杷の葉が揺れている。
ユノさんが、窓の下に置かれた皿を指した。
「ごはんは、ここに」
皿は空だった。
「引っ越してからも、置いているんですか?」
「はい、毎朝。だから、食べに来てるのかもしれないんですけど…」
戸口の上で、鈴が鳴った。
私は振り向いた。
小さな真鍮の鈴が、紐の先で揺れていた。
風は庭の奥から吹いているのに、紐は室内の方へ引かれていた。
「あぁ、これ」
ユノさんは見上げた。
「お昼前に鳴るんです。洗い上がった布を取り込み始める合図で、母がずっと鳴らしてたから」
店の奥へ、軽い音が消えていく。
「持っていこうと思ったんですけど、母が古いから置いていこうって」
鈴が止まると、庭はまた静かになった。
私は薪小屋を見た。
入口の下に、指先ほどの灰色の毛が引っかかっている。
「ここは、開けました?」
「いいえ、中には何もないので」
扉は少し傾いていた。押してみると、半分ほど開く。
薄暗い奥に、古い木箱があった。
その陰で、何かが動いた。
「サビ?」
ユノさんがしゃがんだ。
しかし帰って来た声は、低い。
返事をする声ではなかった。
私はユノさんの肩へ手を置いた。
「いったん、そのままで」
目が慣れてくる。
木箱の向こうに、灰色の猫がいた。
右の耳の先が、小さく欠けている。
その腹のあたりで、もっと小さなものが動いていた。
一つ、二つ。
灰色の背中の下から、白い足が出た。
ユノさんが息を吸った。
「……子供?」
サビは私たちを見たまま、もう一度、低く唸った。
ユノさんは伸ばしかけた手を引いた。
表の通りで、荷車が通り過ぎた。
空になったはずの洗濯屋の奥で、小さな声が重なっていた。




