店じまいの続き
「新しい看板を、下げませんか」
私が言うと、ガロさんは露骨に嫌そうな顔をした。
「看板は、もうある」
「その下にです。修理は終了しました、と」
「だったら、古い方を外せばいい」
「外したくないんでしょう」
ガロさんは返事をせず、作業台の端に載せた革を揃えた。
私は店の中を見回した。
窓辺の片足だけの靴は、売り物ではなかった。大きさも形も違う。どれも履き込まれ、底には新しい革が当ててある。
「あれは?」
「直した見本」
「長く置いているんですか」
「真ん中のは、あんたより年上だ」
私は窓へ近づいた。
いちばん小さな靴には、甲に花の飾りがあった。花びらの一枚だけ、革の色が少し違う。
「仕事の道具を片づける予定は」
「そのうちな」
「木型も?」
「そのうちだ」
同じ答えだった。
私は卓の上の紙を引き寄せた。
『ガロ靴店の修理受付は終了しました』
そこまで書いて、ガロさんに見せる。
ガロさんは読んだ。
読んでから、窓の外を見た。
「それを出せば、人は来なくなるな」
「修理のお客さんは」
「あぁ」
紙を返す手が、ゆっくりだった。
*
その日は、札を出さずに帰った。
相談屋の卓で書き直してみたが、文面は大して変わらなかった。
修理は承っておりません。
長らくありがとうございました。
どちらも、私が分かっていることを、紙にしただけだった。
引き出しを開けると、自分の閉店の張り紙があった。
私はそれを取り出し、隣に置いた。
二枚とも、よく似ていた。
*
翌日、私は青い庇の靴屋へ行った。
開店して間もない店だった。入口には、まだ木の新しい匂いがする。
作業台にいたのは、三十歳くらいの男の人だった。
「ガロさんから、何人かお客さんを紹介されていると聞いて」
「えぇ、とても助かってます」
男の人は、縫いかけの靴を台へ置いた。
名はトマといった。
「昨日、小さな女の子も来ましたか」
「踵の取れた?」
「そうです」
「来ましたよ。今、乾かしてるところです」
棚に、見覚えのある靴が載っていた。
「ガロさんとは、お知り合いですか」
「店を開くときに挨拶を。それから、何度かお話を伺いに行きました」
「靴のことを?」
「ここの人たち、川の仕事が多いでしょう。底の減り方も、前にいた街と違うので」
トマさんは壁に掛けた革を指した。
「勧められて、厚さを変えました」
私は頷いた。
話すことがなくなっても、すぐには帰れなかった。
トマさんがこちらを見る。
「何か、気になることでも?」
「いえ。まだ、私が勝手に考えているだけなので」
私は、そこで一度口を閉じた。
私の思いついたことを、そのままガロさんの仕事にしてはいけない。
「失礼しました」
*
「教える気は、ない」
話し始めると、ガロさんはすぐに言った。
「まだ、何も」
「青い庇へ行ったんだろう」
「どうして」
「ベルタから聞いた」
私は口を閉じた。
世間は、思っていたよりずっと狭かった。
ガロさんは右手で革紐を巻き、木箱へ入れた。
「弟子を取るつもりはない。毎朝、人も待たない」
「……わかりました」
私は用意していた紙を鞄へ戻した。
週に一度、靴の相談を受ける日を。そんな案を書いていた。
求められていない仕事を、一つ増やすところだった。
「すみません」
「何が」
「店として続ける形を、勝手に考えてました」
ガロさんはしばらく黙っていた。
「相談屋だから、何かせんと気が済まんのか」
「そういうわけでは……」
言いかけて、やめた。
何か、いい案を出さなければと思っていたのは確かだった。
私は椅子に座り直した。
「看板は、残す。修理は、もう受けない。ほかに、決めていることはありますか」
ガロさんが私を見た。
「道具は、ここへ置く」
「使わなくても?」
「わしのだからな」
「はい」
「朝は、表を掃く」
「はい」
「ときどき、窓を開ける。カビ避けだ」
私は頷いた。
ガロさんは、今度は自分から窓を見た。
「座ってるだけで、人が覗いてくる。仕事を待ってると思ってるらしい」
「声を掛けられるのは、嫌ですか」
「修理を断るのは、嫌だ」
「それ以外は?」
ガロさんは顎を撫でた。
「話による」
*
新しい札は、看板よりずっと小さかった。
指物屋で端材を分けてもらい、紙に書いた文字を写した。ガロさんは私の字を見て、二か所直させた。
『靴の修理は終了しました。
ご用の方は、声を掛けてください。』
「これだと、何の用でも来ますよ」
「今までと変わらんよ」
その下に、青い庇の店への道順を書いた。
トマさんには、ガロさんから紹介してよいか確かめてもらった。返事は、その日のうちに来た。
札を取り付ける間、ガロさんは古い看板を支えていた。
「真っすぐか」
「もう少し右です」
「そっちが低いんだろう」
「では、左です」
「相談屋は、左右も怪しいのか」
私は紐を結び直した。
*
翌朝、七時。
古い看板が回り、営業中になった。
その下で、新しい札が少し揺れた。
通りかかった男の人が足を止め、順に読んだ。手に持っていた包みを抱え直す。
「青い庇か」
ガロさんが頷いた。
「底を直すなら、あそこでやってくれる」
「そうか。ありがとう」
男の人は歩きかけ、それから振り返った。
「川の階段、工事するって聞いたか」
「いつだ」
「来週から。荷車が遠回りになるって」
ガロさんが戸口へ出た。
私は少し横へ避けた。
二人の話は、川の工事から、雨が続くとどこが泥濘むかという話になった。
やがて男の人が去ると、ガロさんは看板を見上げた。
「これで、しばらくやろう」
「はい。困ることがあれば、また」
「いくらだ」
私は板と塗料に掛かった額を伝え、それに自分の分をほんの少し足した。
ガロさんは店へ戻り、小銭の箱を持ってきた。
一枚ずつ数え、私に渡す。
「字は、もう少し練習しな」
「読めますよ」
「読めるのと、上手いのは違う」
小銭を握りしめながら、私は笑ってしまった。
*
夕方、帳簿を開いた。
『ガロ靴店。看板が朝七時に営業中になる』
新しい札の文面と、掛かった金額を書く。
最後に、看板は外さなかったと書き添えた。
窓の外では、ベルタさんが店先の籠を引っ込めていた。
私は帳簿を閉じ、引き出しの奥から自分の張り紙を出した。
『閉店いたしました』
その文字をしばらく見て、裏返す。
『相談承ります』
そこまで書いてから、鉛筆を止めた。
正直、何でも引き受けるつもりはなかった。
分からないことばかりだし、家の片づけだってまだ終わっていない。
少し考え、下に書き足した。
『朝の九時から、お昼まで』
それを持って玄関へ向かう。
戸を開けると、坂の下からは夕飯の匂いがしてくる。
祖母の古い看板の下に、新しい紙を貼る。
一歩下がって確かめてみる。
少し、右が低かった。




