七時に開く店
鍋を返しに行くと、パンが積まれていた。
丸パンが三つと、平たいパンが二つ。
「あの、これって…?」
「配達、頼まれてくれないかい」
ベルタさんは紙袋の口を折り、細い紐で結んだ。
「革屋通りの、ガロのところ。行く途中だろう」
「どこへ行くと思ってるんですか」
「相談屋さ」
私は鍋を持ったまま、ベルタさんを見た。
店の奥からは、焼けた小麦の匂いが流れてくる。
朝早くから働いている人の前で、仕事をしないとは言いにくかった。
「今日は、片づけです」
「じゃあ、頼んだよ」
パンたちが、鍋と引き換えに私の手へ渡った。
*
革屋通りは、子どものころより短く見えた。
鞄屋の軒先には、見覚えのある緑の庇があった。
その隣の店は菓子屋だったはずだが、今は桶が並んでいる。
ガロ靴店は、通りの端に残っていた。
細長い硝子窓。その内側に、片足だけの靴が三つ。入口の脇には、木の看板が吊られている。
『ガロ靴店 営業中』
戸は閉まっていた。
叩くと、しばらくして中から声がした。
「修理は受けてないよ」
「パンを届けに来ました」
閂を抜く音がした。
戸を開けた人は、私より頭一つぶん小さかった。白い髪を短く刈り、厚い前掛けを着けている。
顔を見て、ようやく思い出した。
「ガロさん?」
「そう書いてあっただろう」
「昔、靴を作ってもらいました。祖母に連れられて」
ガロさんは私の顔から足元へ視線を下ろした。
「相談屋の孫か」
「リツです」
「その靴は、もう履いてないな」
「さすがに、足が大きくなったので」
ガロさんは頷き、紙袋を受け取った。
右手では袋の底を支え、左手で口を挟んだ。左の指は、あまり曲がらないようだった。
「ベルタさんからです」
「金は?」
「何にも聞いてません」
「そうか」
ガロさんは奥の棚から小さな箱を取り出した。蓋を開け、中の小銭を一枚ずつ卓に置く。
その間、私は壁を見た。
足の形をした木型が、何十も並んでいる。低い作業台には革の切れ端と、柄のすり減った道具たち。
片づいているのに、仕事の途中のようにも見えた。
「お店、お休みなんですか」
「辞めた」
私は看板の方を振り返った。
「でも、外に営業中と」
「知ってる」
ガロさんが小銭をまとめた。
「毎朝、そうなる」
*
表は営業中、裏は本日休業。
看板は鉄の輪で吊られ、裏返せるようになっていた。
ガロさんは五十年近く、毎朝それを返してきたのだという。
「七時きっかりだ。日暮れには、また戻る」
「お店を辞めたのは、いつですか」
「夏の終わりだ」
ガロさんは左手を前掛けに押し当てた。
「こっちがな。細かい仕事はダメなんだ」
「看板、外さないんですか」
「外した」
「でも、今は」
「戻したんだよ」
何か理由があるのだろう。
けれど、その先を聞く前に、通りから男の人が来た。脇に、布で包んだものを抱えている。
「よかったぁ、開いてた。ガロさん、ここの縫い目だけなんだけど」
「もう、やってないよ」
「そうなのかい。看板が出てたから」
「悪いね」
男の人は包みを抱え直し、少し先に別の靴屋があるかと尋ねた。
ガロさんは二本向こうの通りを教えた。
男の人が去ると、看板の鉄の輪が風で鳴った。
「困っては、いるんですよね」
「朝から三人目だ」
「なら、看板をどうにかした方が」
「だから、あんたの祖母に頼もうと思ってた」
私はガロさんを見た。
「看板のことを?」
「そうだよ」
「私、名残を消せるわけではないですよ」
「先生も、そんなことはしなかった」
ガロさんは店の中へ戻った。
私は戸口に立ったまま、看板を見上げた。
薄くなった文字の溝に、黒い塗料が残っている。
「どうして、戻したんですか」
奥で、紙袋を開く音が止まった。
少し待つと、返事があった。
「外したら、目印がなくなった」
「お客さんの?」
「いや、わしの」
*
翌朝、七時前に革屋通りへ行った。
ガロさんは、店の前を箒で掃いていた。
「早いな」
「開くところを見たくて」
店の戸は閉まっている。窓には、薄い布が掛かっていた。
街の鐘が七つ鳴る。
看板が、ゆっくり回った。
風はなかった。
鉄の輪の片方が持ち上がり、木の板が斜めになる。表と裏が入れ替わり、こつん、と壁に当たった。
『営業中』
ガロさんは箒を止めていた。
私は看板へ近づいた。
手で裏返してみる。
『本日休業』
離しても、そのままだった。
「いったん動いたら、それきりなんですね」
「何度も返されたら、たまらん」
ガロさんは掃き集めたものを、集めていた。
その横へ、小さな女の子が来た。
片方の靴を手に持ち、片足は靴下のままだった。
「おじさん、とれちゃった」
靴の踵が、半分剥がれていた。
ガロさんは箒を壁へ立て掛けた。
「道の真ん中を、その足で歩いたのか」
「んーん、走った」
「走るな」
しゃがみかけ、途中で腰を伸ばす。
代わりに、店の前の木箱を指さした。
「そこに座んな」
女の子が腰を下ろすと、ガロさんは靴を受け取った。
底を見て、指で縫い目を確かめる。
「糸が先に切れとる。水に浸けたか」
「川に落ちた」
「足ごとか」
「靴だけ」
私は二人の顔を見比べた。
ガロさんは溜息をついたが、靴を返さなかった。
「直せますか」
私が尋ねると、左手が止まった。
少しの間を置いて、靴が女の子へ戻された。
「二本向こうの、青い庇の店へ行きな。まだ開いてなければ、家へ帰って待て」
「おじさんは?」
「もう、やらないんだ」
女の子は靴を受け取り、箱から下りた。
その背中が見えなくなるまで、ガロさんは通りを見ていた。
私は、裏返した看板へ目を戻した。
本日休業。
たしかに、それも違う気がした。




