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名残の街の相談屋  作者: みやしー


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3/7

ただいまの、そのあと


 エナは階段を下りてこなかった。


 上着の前を握ったまま、私たちを見ていた。


「ごめんなさい」


 ミナさんが首を振った。


「怒ってないわ」


 そう言ってから、もう一度首を振る。


「違うわね。怒られると思ったから、言えなかったのよね」


 エナの目が、足元へ落ちた。


 ミナさんは階段の下まで行き、手すりに手を置いた。


「いつから起きていたの?」


「……前から」


「毎晩?」


 エナは答えなかった。


 私は卓の上の灯りを少し明るくした。


「足が冷えるから、いったん下りておいで。座って話そう」


 エナは母親の顔を確かめ、それから一段ずつ下りてきた。


     *


 温め直した湯を、三つの器に注いだ。


 エナは椅子の上に両足を載せ、上着で膝をくるんでいる。ミナさんは隣に座っていた。


 私は戸の前へ戻り、掛け金を見た。


 きちんと閉まっている。


 戸が開き、しばらく待って、閉まる。今夜見た名残は、そこで終わった。


「お父さんが帰ったとき、いつも誰が開けていたんですか」


「私です」


 ミナさんが言った。


「鐘が聞こえると、そろそろだと思って。路地に足音がすると、先に開けていました」


「開けてから、どのくらいで中へ?」


「すぐ入ってきますから……そんなには」


 ミナさんの指が、器の縁をなぞった。


「でも、雨の日は、あの人が外で上着の水を払ってから入ってきます。

 そのくらいかもしれません。さっきのは」


 私は戸の取っ手に触れた。


 内側だけ、手が触れるところが滑らかになっていた。


「戸を持ち上げるのも?」


「ええ。音がすると、エナが起きるから」


「起きてたよ…」


 エナが小さく言った。


 ミナさんが顔を向ける。


「いつも?」


「んーん、ときどき。お父さん、階段、静かに上がれないから」


 ミナさんの口元が、少しだけ綻んだ。


「そうね」


 私は取っ手から手を離した。


「たぶん、帰ってきた人の動きではなくて、迎えていた動きが残っているんだと思います」


 名残について調査したわけでも、祖母に確かめたわけでもない。


 だから、分かってきたことを一つずつ話した。


 内側の掛け金が外れたこと。ミナさんと同じように戸を持ち上げたこと。

 人が入るのを待つだけの間があり、そのあと閉まったこと。


 ミナさんは、取っ手を見つめていた。


 エナが器を卓に置いた。


「じゃあ、開けてても、帰ってこない?」


 私は頷いた。


「この戸を開けておいても、お父さんが帰って来たことには、ならないと思う」


 エナの顎が少し上がった。


 泣くのをこらえるときの顔だと分かるまで、私は次の言葉を探していた。


 ミナさんが娘の肩に手を置いた。


 エナはその手を振り払わなかったが、寄りかかりもしなかった。


「分かってた」


 しばらくして、そう言った。


「でも、閉めたら、入れないから」


 ミナさんは目を伏せた。


「お母さんも、夜に縫い物をしてると、帰ってくる時間を考えることがあるのよ」


「……うん」


「時間が気になって、時計を見たりするのよ」


 エナが母親を見た。


 私は自分の器を持ち上げた。もう、湯気は立っていなかった。


 二人の間で話せることまで、私が聞き出す必要はない気がした。


     *


 帰る前に、戸のことを相談した。


 今ある掛け金は壊れていない。けれど、名残が動かしてしまう。


「別の留め具を付ければ、夜中に大きく開くのは防げるかもしれません。

 戸がどう動くのかは、付けてから再び確かめる必要はありますが」


 ミナさんは頷き、エナを見た。


「どうする?」


 エナはすぐには答えなかった。


 やがて椅子から足を下ろし、戸のところへ行った。


 取っ手を握る。


 少し持ち上げて開き、外を見た。


 路地には誰もいなかった。


「雨が、入らないのが、いい」


 振り返らずに言った。


     *


 翌日、私は向かいのパン屋へ行った。


 戸の修繕を頼める人を教えてもらうためだった。


 ベルタさんは焼き上がったパンを籠へ移しながら、二軒先の指物屋の名前を教えた。


「お代、いくらくらい掛かりますかね」


「戸によるでしょうよ」


「ですよね」


「あんたが払うの?」


「いえ。先に金額を聞いてから、お願いしようと思って」


 ベルタさんは私の顔を見た。


「相談屋、続けるんだね」


「まだ、一件だけです」


「そう」


 それ以上は聞かなかった。


 代わりに、形の崩れた小さなパンを二つ、紙袋へ入れた。


「昨日の鍋だけどね、早めに返しておくれよ」


 私は鍋のことを、すっかり忘れていた。


     *


 指物屋は、その日の午後には戸を見てくれた。


 戸の擦れる部分を少し削り、内側に鎖の留め具を付ける。鎖を掛けても指二本ぶんほどは開くが、それ以上は開かない。


 仕事が終わると、ミナさんが何度か動かして確かめた。


「軽くなったわ」


「下の蝶番も、少し締めましたから」


 職人はそう言って、道具を片づけた。


 代金はミナさんが払った。


 私は自分の分を聞かれ、昨日から考えていた金額を伝えた。市場で買える、一人ぶんの簡単な昼食くらいだった。


「本当にそれだけで、いいんですか」


「今回は。私も、教えてもらいながらだったので」


 ミナさんは小銭を数え、私の手に載せた。


 私は財布へしまわず、しばらく握っていた。


     *


 その晩も、私は十一時までいた。


 エナは眠そうな目をこすっていたが、今日は確かめると決めたからと言った。


 鐘が鳴る。


 古い掛け金が外れた。


 戸が少し開き、鎖が張った。


 冷たい空気が、細い隙間から入ってきた。


 戸はそのまま待ち、やがて静かに閉まった。掛け金が落ちる。


 鎖は、掛かったままだった。


 誰も、すぐには動かなかった。


 エナがミナさんの手を引いた。


「寝よっか」


「うん」


 階段へ向かう前に、エナは一度だけ戸を振り返った。


 私は何も言わず、二人が上がるのを見守っていた。


     *


 店へ帰ると、卓の上には朝の湯飲みが二つあった。


 洗って伏せておいたものだった。今は空で、底まで冷えていた。


 私はそれを棚へ戻し、帳簿を開いた。


『エナさん。夜に玄関が開く』


 その下に、留め具のことと、指物屋へ払った額を書いた。自分が受け取った額も書く。


 最後の行で、少し迷った。


『名残は残っている。鎖は外れなかった』


 翌朝、ミナさんが改めてお礼を言いに来た。


 エナはまだ眠っているらしい。


 私は帳簿の最後へ、一行書き足した。


『今朝は、戸が閉まっていた』

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