ただいまの、そのあと
エナは階段を下りてこなかった。
上着の前を握ったまま、私たちを見ていた。
「ごめんなさい」
ミナさんが首を振った。
「怒ってないわ」
そう言ってから、もう一度首を振る。
「違うわね。怒られると思ったから、言えなかったのよね」
エナの目が、足元へ落ちた。
ミナさんは階段の下まで行き、手すりに手を置いた。
「いつから起きていたの?」
「……前から」
「毎晩?」
エナは答えなかった。
私は卓の上の灯りを少し明るくした。
「足が冷えるから、いったん下りておいで。座って話そう」
エナは母親の顔を確かめ、それから一段ずつ下りてきた。
*
温め直した湯を、三つの器に注いだ。
エナは椅子の上に両足を載せ、上着で膝をくるんでいる。ミナさんは隣に座っていた。
私は戸の前へ戻り、掛け金を見た。
きちんと閉まっている。
戸が開き、しばらく待って、閉まる。今夜見た名残は、そこで終わった。
「お父さんが帰ったとき、いつも誰が開けていたんですか」
「私です」
ミナさんが言った。
「鐘が聞こえると、そろそろだと思って。路地に足音がすると、先に開けていました」
「開けてから、どのくらいで中へ?」
「すぐ入ってきますから……そんなには」
ミナさんの指が、器の縁をなぞった。
「でも、雨の日は、あの人が外で上着の水を払ってから入ってきます。
そのくらいかもしれません。さっきのは」
私は戸の取っ手に触れた。
内側だけ、手が触れるところが滑らかになっていた。
「戸を持ち上げるのも?」
「ええ。音がすると、エナが起きるから」
「起きてたよ…」
エナが小さく言った。
ミナさんが顔を向ける。
「いつも?」
「んーん、ときどき。お父さん、階段、静かに上がれないから」
ミナさんの口元が、少しだけ綻んだ。
「そうね」
私は取っ手から手を離した。
「たぶん、帰ってきた人の動きではなくて、迎えていた動きが残っているんだと思います」
名残について調査したわけでも、祖母に確かめたわけでもない。
だから、分かってきたことを一つずつ話した。
内側の掛け金が外れたこと。ミナさんと同じように戸を持ち上げたこと。
人が入るのを待つだけの間があり、そのあと閉まったこと。
ミナさんは、取っ手を見つめていた。
エナが器を卓に置いた。
「じゃあ、開けてても、帰ってこない?」
私は頷いた。
「この戸を開けておいても、お父さんが帰って来たことには、ならないと思う」
エナの顎が少し上がった。
泣くのをこらえるときの顔だと分かるまで、私は次の言葉を探していた。
ミナさんが娘の肩に手を置いた。
エナはその手を振り払わなかったが、寄りかかりもしなかった。
「分かってた」
しばらくして、そう言った。
「でも、閉めたら、入れないから」
ミナさんは目を伏せた。
「お母さんも、夜に縫い物をしてると、帰ってくる時間を考えることがあるのよ」
「……うん」
「時間が気になって、時計を見たりするのよ」
エナが母親を見た。
私は自分の器を持ち上げた。もう、湯気は立っていなかった。
二人の間で話せることまで、私が聞き出す必要はない気がした。
*
帰る前に、戸のことを相談した。
今ある掛け金は壊れていない。けれど、名残が動かしてしまう。
「別の留め具を付ければ、夜中に大きく開くのは防げるかもしれません。
戸がどう動くのかは、付けてから再び確かめる必要はありますが」
ミナさんは頷き、エナを見た。
「どうする?」
エナはすぐには答えなかった。
やがて椅子から足を下ろし、戸のところへ行った。
取っ手を握る。
少し持ち上げて開き、外を見た。
路地には誰もいなかった。
「雨が、入らないのが、いい」
振り返らずに言った。
*
翌日、私は向かいのパン屋へ行った。
戸の修繕を頼める人を教えてもらうためだった。
ベルタさんは焼き上がったパンを籠へ移しながら、二軒先の指物屋の名前を教えた。
「お代、いくらくらい掛かりますかね」
「戸によるでしょうよ」
「ですよね」
「あんたが払うの?」
「いえ。先に金額を聞いてから、お願いしようと思って」
ベルタさんは私の顔を見た。
「相談屋、続けるんだね」
「まだ、一件だけです」
「そう」
それ以上は聞かなかった。
代わりに、形の崩れた小さなパンを二つ、紙袋へ入れた。
「昨日の鍋だけどね、早めに返しておくれよ」
私は鍋のことを、すっかり忘れていた。
*
指物屋は、その日の午後には戸を見てくれた。
戸の擦れる部分を少し削り、内側に鎖の留め具を付ける。鎖を掛けても指二本ぶんほどは開くが、それ以上は開かない。
仕事が終わると、ミナさんが何度か動かして確かめた。
「軽くなったわ」
「下の蝶番も、少し締めましたから」
職人はそう言って、道具を片づけた。
代金はミナさんが払った。
私は自分の分を聞かれ、昨日から考えていた金額を伝えた。市場で買える、一人ぶんの簡単な昼食くらいだった。
「本当にそれだけで、いいんですか」
「今回は。私も、教えてもらいながらだったので」
ミナさんは小銭を数え、私の手に載せた。
私は財布へしまわず、しばらく握っていた。
*
その晩も、私は十一時までいた。
エナは眠そうな目をこすっていたが、今日は確かめると決めたからと言った。
鐘が鳴る。
古い掛け金が外れた。
戸が少し開き、鎖が張った。
冷たい空気が、細い隙間から入ってきた。
戸はそのまま待ち、やがて静かに閉まった。掛け金が落ちる。
鎖は、掛かったままだった。
誰も、すぐには動かなかった。
エナがミナさんの手を引いた。
「寝よっか」
「うん」
階段へ向かう前に、エナは一度だけ戸を振り返った。
私は何も言わず、二人が上がるのを見守っていた。
*
店へ帰ると、卓の上には朝の湯飲みが二つあった。
洗って伏せておいたものだった。今は空で、底まで冷えていた。
私はそれを棚へ戻し、帳簿を開いた。
『エナさん。夜に玄関が開く』
その下に、留め具のことと、指物屋へ払った額を書いた。自分が受け取った額も書く。
最後の行で、少し迷った。
『名残は残っている。鎖は外れなかった』
翌朝、ミナさんが改めてお礼を言いに来た。
エナはまだ眠っているらしい。
私は帳簿の最後へ、一行書き足した。
『今朝は、戸が閉まっていた』




