十一時の玄関
「お父さん、何のお仕事だったの?」
エナは丸パンを両手で持ったまま頷いた。
「川の倉庫。荷物が遅く着く日は、遅くまでいなかった」
「それで帰ってくるのが、十一時」
「だいたい。その前に帰る日もあったけど」
パンの皮から、小さなかけらが落ちた。エナは指先で拾って、口に入れた。
私は卓の端に便箋を置いた。
名前。住所。戸が開く時刻。
書いてみると、わからないことばかりだった。
「いつから開くようになったか、覚えてる?」
「寒くなってから…」
「お父さんは?」
「死んじゃった」
エナの声は変わらなかった。
私は鉛筆の先を紙から離した。
「そう」
「倉庫で、荷物が崩れたって」
窓の外を、桶を二つ担いだ男の人が通り過ぎた。水が跳ね、朝の日差しの中で一瞬だけ光った。
何か言わなければと思ったが、エナはパンの残りを口に運んでいた。私は茶を足した。
エナの分は、湯で少し薄めた。
「名残、なの?」
「かもしれない。戸を見てみないと、まだ分からないけど」
「お父さんが帰ってきてるんじゃ、ないですよね」
鉛筆を持つ指に、力が入った。
私が小さかったころ、亡くなった隣家の犬の足音が、夕方になると庭先で鳴っていた。
犬が戻ってきたのだと喜んだ私に、祖母は足音のする地面へ肉を置かせた。
足音は毎日同じ場所で止まり、肉は毎日残っていた。
『寂しいときほど、確かめないといけないことがあるよ』
あのときは、意地悪だと思った。
「名残だったとしても、お父さんではないよ」
エナの手が止まった。
「人や物が何度も繰り返したことが残っているの。だから…」
「……そうですか」
エナは湯飲みを両手で包んだ。
ほっとしたのか、がっかりしたのか、私には分からなかった。
「戸が開くの、嫌?」
「少し」
しばらくしてから、エナは付け加えた。
「雨が、入るから」
*
エナの家は、職人通りから横道へ入ったところにあった。
お隣と壁が触れそうな細長い家で、一階の窓には繕い物を引き受ける札が出ている。
エナは戸の前で足を止めた。
「お母さんに、言うの?」
「家を見せてもらうからね、黙ってはできないよ」
長い袖口が、手の甲まで落ちていた。
「私から説明してもいいかな?」
エナは少し考え、頷いた。
戸を叩くと、中から椅子を引く音がした。
出てきたのは、エナと同じ色の目をした人だった。
髪を頭の後ろでまとめ、片方の袖には糸くずがついている。
「エナ!どこへ行ってたの」
それから私を見た。
「あの、娘が何か?」
「坂の相談屋に来てくれたんです。私はリツといいます」
「先生の……」
「孫です」
エナの母親は、一度姿勢を正した。
「お悔やみも、まだ伺えていなくて。すみません」
「いえ。今日は玄関の戸のことで」
母親の視線が、エナへと移った。
エナは私の斜め後ろで、上着の裾を握っていた。
「夜に開くと聞いて。掛け金を見せてもらってもいいでしょうか」
母親は戸の内側へ目を向けた。
驚きはしなかった。
「……やっぱり、開いていたのね」
「ご存じだったんですか」
「朝、閉め忘れたのかと思う日があって。気をつけていたから」
母親は額に手を当て、息をついた。
「私、エナが開けたのかと」
「開けてない」
「そうだったのね」
エナの握っていた裾が、少し緩んだ。
*
玄関の戸は、見た目より重かった。
内側には鉄の掛け金がある。横に渡した棒を持ち上げ、受けから外す、よくある形だ。
受け側に大きな緩みはない。戸を閉めて引いてみても、掛け金は動かなかった。
「強く風が吹く日は?」
「川から吹くと、音はします。でも、開いたことは」
母親はミナと名乗った。
卓の上には、繕いかけのシャツが積まれている。
窓際に置かれた針山には、長い針と短い針が向きを揃えて刺してあった。
私は戸を開けたり閉めたりした。
下の縁が、床を擦る。
最後まで開けようとすると、途中で引っかかった。
「少し、持ち上げるんです」
ミナさんが戸の取っ手を握った。
軽く上へ引きながら押すと、戸は滑らかに開いた。
「雨の日に膨らんでから、こうなって。直そうと言っていたんですけど」
言い終わってから、取っ手を離した。
私は戸の下を見た。敷居には、幾重にも擦れた跡があった。
もし名残なら、風に押されたように開くとは限らない。
誰かがしていた通りに、持ち上がり、開くのだろうか。
「今夜、ここで見ていてもいいですか」
自分で口にしてから、私はエナを見た。
エナは目を丸くしていた。
「十一時までですか」
「開くところを、一度だけでも」
ミナさんは少しためらった。
「でも、お代が」
「お代は、見てから考えさせてください」
私にはいくらが適当なのか、本当に分からなかった。
*
いったん店に戻ると、卓の上の張り紙が目に入った。
私は二つ折りにして、引き出しへしまった。
その下から、祖母の帳簿を取り出す。
名残について、何か書いていないだろうか。
何頁かめくったが、見つかったのは、雨漏りの相談や、隣同士の境の木、
そして返しそびれている鍋の話だった。
途中、見覚えのある名前があった。
『ミナさん。屋根裏の箱下ろし。腰に気をつける』
少し前の頁には、
『ミナさん。冬物。袖を短くしすぎないこと』
それだけだった。
祖母は、何を聞いていたのだろう。
私は帳簿を閉じ、夜に持っていく灯りを探した。
*
十一時になるまでの時間は、思っていたより長かった。
夕食をごちそうになり、洗い物を手伝い、エナが寝床に上がったあと、
私はミナさんと卓を挟んで座っていた。
卓の灯りの下で、ミナさんはシャツの袖を繕っている。
私は、手帳に同じことを二度書いた。
戸は閉まっている。掛け金も掛かっている。
「母がいたころは、よく来てくれたんですか」
沈黙に耐えかねて尋ねると、ミナさんが顔を上げた。
「お祖母様?」
「あ、はい」
母と呼んでしまったのは、家にいたころの癖だった。
祖母も、隣人も、私の母が亡くなってからは、特に訂正しなかった。
「この春から何度か。家の片づけを手伝ってもらいました」
「相談ではなく?」
「それも、したのかもしれません」
ミナさんは、シャツを裏返した。
「何を話したか、あまり覚えていなくて。気がつくと、いつも一緒に手を動かしていたから」
壁際には、大人用の靴が一足あった。
きれいに泥を落とされ、爪先を玄関へ向けている。
見ていたことに気づいたのか、ミナさんの針が止まった。
「まだ、しまえなくて」
私は手帳へ視線を戻した。
何かを尋ねる前に、遠くで鐘が鳴った。
一つ、二つ。
ミナさんが針を針山へ戻した。
七つ、八つ。
二階で、床板が小さく鳴った。
十一の音が消えた。
しばらく、何も起きなかった。
私は息を吐きかけた。
かちり。
鉄の掛け金が、持ち上がった。
受けから外れた棒が、戸板に当たる。
私は立ち上がった。
戸はすぐには開かなかった。
最初に、ほんの少し上へ動いた。
それから、誰かが取っ手を握っているように、ゆっくり内側へ開いた。
冷たい空気が、足元へ流れ込む。
戸口には誰もいない。向かいの壁に、私たちの家から漏れた灯りが当たっていた。
見ているうちに、戸は途中で止まった。
人が一人、通れるくらい。
ミナさんの椅子が鳴った。
私はそちらを向いた。
ミナさんは立ち上がりかけた姿勢で、卓の縁を握っていた。
唇が動いたが、声にはならなかった。
二階で、また床が鳴った。
「エナ?」
私が呼ぶと、階段の上に小さな影が現れた。
寝間着の上に上着を羽織り、裸足のまま立っている。
「いつも、ここまでなの」
エナが言った。
「少し待ったら、閉まる」
私たち三人は、開いた戸を見ていた。
やがて戸は、また少し持ち上がった。
ゆっくり戻り、枠に収まる。
掛け金が落ちた。
朝に確かめたときと同じように、きちんと受けへ収まっていた。
「……閉まるんだ」
私は呟いた。
朝には開いている、と聞いていた。
ミナさんも戸を見つめていた。やがて、階段に立つ娘へ目を向けた。
エナが上着の前を握った。
「そのあと、私が開けた」
声は、とても小さかった。
「開けておいたら、今度は入ってくるかと思って」
ミナさんは卓から手を離した。
エナの方へ一歩進み、途中で止まる。
私にも、すぐには言葉が出なかった。
閉まった戸の向こうで、風が路地を抜けていった。




