↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名残の街の相談屋  作者: みやしー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/8

閉店の張り紙


 祖母の家では、毎朝2人分のお茶が出る。


 そのことを、私は帰ってきた翌朝に知った。


 台所の小さな卓に、湯飲みが二つ。どちらからも細い湯気が立っている。


 一つは、縁の欠けた藍色の湯飲み。もう一つは、黄色い小さな花の描かれた、私の湯飲みだった。


 十年前、この街を出る日に、棚の奥へ押し込んでいったものだ。


「……それ、まだあったんだ。」


 返事はなかった。


 竈の火は落ちている。鉄瓶の蓋を持ち上げると、底に少しだけ湯が残っていた。

 昨夜、私が沸かしたものだった。


 茶筒の蓋が、斜めに閉まっている。


 祖母はいつも、きちんと閉めたつもりでも片方だけ浮いていた。


 私は二つの湯飲みをじっと見つめ、黄色い方を手に取った。


 ぬるくなる少し手前の、飲みやすい温度だった。


     *


 トワリの街は、川から離れるほど坂になる。


 川岸には荷揚げ場と市場。その上に職人たちの通りがあって、さらに上ると住宅が増える。

 祖母の店は、坂を上りきるには少し早く、下るにはもう面倒だと思うあたりに建っていた。


 入口の脇には、木の看板が掛かっている。


 『相談承ります』


 その下に、小さな文字で、


 『留守のときは、また明日』


 子どものころから、ずいぶん気楽な商売だと思っていた。


 十年ぶりに見ても、何も印象は変わらなかった。

 変わったのは、看板の角が丸く削れ、文字が薄くなっていたことくらいだ。


 祖母の葬儀は、私が着く二日前に済んでいた。


 向こうの勤め先で引き継ぎに手間取った。乗り合い馬車が雨で遅れた。

 どちらも本当だが、向かいのパン屋のベルタさんに説明するとき、言い訳をしている気分になった。


 ベルタさんは何も言わず、家の鍵と、紙に包んだ丸パンを渡してくれた。


 『鍋は台所にあるから。中身は今日のうちに食べて』


 家に入ると、豆の煮込みが置かれていた。


 鍋には、祖母のものではない赤い布が結ばれていた。


 私はそれを温めて食べ、空になった鍋を洗い、二階の昔の自室で眠った。


 翌朝、茶が二つ出ていた。


 その次の朝も、同じだった。


     *


 三日目の朝、私は藍色の湯飲みの茶を、小鍋に戻した。


 捨てるのは惜しかった。しかし、二杯続けて飲むと、腹が冷える。


 それだけのことだが、誰にも見られたくない気がして、窓を確かめてから戻した。


 今日は店の片づけに取りかかるつもりだった。


 一階の通り側が、相談を受ける部屋になっている。

 丸い卓と、椅子が三脚。

 壁際の棚には帳簿や紙束が並び、窓辺には枯れた鉢植えが一つ。


 祖母の椅子だけ、座面に薄い座布団が敷かれていた。


 私はそれを外して、籠へ入れた。

 座布団の下から、折り畳まれた紙が出てきた。


『左の脚、短い。動かさないこと』


「だったら直してもらいなよ」


 独り言が、やけに大きく聞こえた。


 紙をしまいこみ、椅子も戻す。


 卓の引き出しには、使いかけの便箋と、短くなった鉛筆、そして糸で綴じた帳簿が入っていた。


 いちばん上の帳簿を開く。


『水路の音。夜だけ。粉屋に聞くこと』


『猫。灰色。右耳に切れ込み。魚屋の猫ではない』


『ミゼさん、代金受け取り済み。卵六つ』


 何を解決して、いくら受け取ったのか、私にはさっぱり分からなかった。


 次の頁には、名前と日付だけが三行続いていた。

 その次には、パン屋への注文らしい数字が書いてあった。


 私は帳簿を閉じた。


 向こうの勤め先では、紙問屋の出納をつけていた。

 一枚の伝票が合わなければ、合うまで帰れない仕事だった。

 祖母の帳簿をあの店主に見せたら、きっとひっくり返ること間違いなしだ。


 便箋を一枚抜き、卓に広げる。


 『店じまいのお知らせ』


 そこまで書いて、鉛筆を止めた。


 祖母が亡くなったため。


 相談を受ける者がいないため。


 どちらも間違いではなかったが、続けて書くと、祖母に説明を求められている気がした。


 私は紙を裏返した。


『当店は閉店いたしました。長らくのご愛顧、ありがとうございました』


 今度は最後まで書けた。


 乾くのを待つ必要もないのに、しばらく眺めた。


 店を閉めたら、家財を整理する。残すものを箱に詰め、家の売り先を探す。

 帰ってくる馬車の中で何度も考えていたことだった。


 そのあと、どこへ行くかは決まっていない。


 しかし、紙問屋には、もう戻らないと伝えてある。


 そんな時、玄関で音がした。


 戸を叩くには弱く、風の音にしては、間が揃っていた。


 私は張り紙を持ったまま顔を上げた。


 もう一度、こん、こん、と音が鳴った。


 戸を開けると、女の子が立っていた。


 十歳くらいだろうか。茶色い上着の袖口から、両手の指先だけが出ている。

 髪はきれいに結んであるのに、片方の靴紐がほどけていた。


 女の子は私の顔を見て、それから室内を見わたした。


「先生は?」


 祖母のことをそう呼ぶ人がいるのを、忘れていた。


「先生はね、亡くなったの」


 女の子は足元に目を落とした。


「でも、窓が開いてたから」


 店の窓は、片づけのために私が開けたのだった。


「ああ……ごめんね。今は、営業してなくて」


 女の子の目が、私の手元へ動いた。


 張り紙を裏返すには、遅かった。


「もう、やらないんですか」


「私はここの仕事、分からないから」


「先生の、お孫さんですか」


「そう」


「リツ…さん?」


 私は頷いた。


 祖母が私のことを話していたのだろうか。

 話の内容が気になったが、尋ねる前に、女の子が一歩下がった。


 「分かりました」


 頭を下げて、坂を下り始める。


 三歩目で、ほどけた紐を踏んだ。


 転びはしなかった。けれど、何かをこらえるように肩が上がった。


「靴」


 声を掛けると、女の子が振り向いた。


「紐、ほどけてるよ」


「あ!」


 その場でしゃがみ、結ぼうとするが苦戦している。うまく輪が作れていなかった。


 私は女の子の元へと近づいて


「結んであげようか?」


 女の子は小さく頷いた。


 紐を結んでいると、女の子が私を見つめながら言った。


「戸が、開くんです」


「戸?」


「勝手に。夜になると」


 私は坂の下を見た。


 朝の市場から、荷車の車輪の音が聞こえていた。誰かが値段を呼び、別の誰かが笑っている。


「風で?」


「風のない日も」


「掛け金は?」


「掛けてます。でも、朝には外れてて」


 見上げた女の子の顔には、不安の色がついていた。


「お母さんには話した?」


「まだ」


「それなら、先にお母さんに——」


「言ったら…お母さん、寝ないから」


 私は続きを飲み込んだ。


 女の子は私を見ていなかった。上着の袖口を、指で押さえている。


「お母さん、やっと眠れるようになったんです」


 台所の方で、ことりと音がした。


 振り向くと、開け放した戸の向こうに、卓の端が見えた。

 片づけたはずの藍色の湯飲みが、また置かれていた。


 今朝の名残は、まだ終わっていなかったらしい。


 私は玄関の戸を、少し大きく開いた。


 「名前、聞いてもいい?」


「エナです」


「エナ。朝ごはんは食べた?」


 女の子は頷きかけ、それから首を横に振った。


 台所には、昨日の丸パンが半分残っている。


「私もまだなの。食べながらでよければ、話を聞くよ?」


「でも、もうやってないって……」


 卓の上には、張り紙が置いてある。


「まだ貼ってないからね」


 エナは迷ってから、入口の敷居をまたいだ。


 私は客用の椅子を引いた。祖母の椅子に座りかけて、メモの紙を思い出す。

 代わりに、残りの一脚をエナの向かいへ運んだ。


 「開くのは、だいたい何時ごろ?」


 エナは膝の上で両手を重ねた。


 「鐘が、十一回鳴ったあとです」


「毎晩?」


「はい」


 そこまで答えてから、初めて私の顔をまっすぐ見た。


「お父さんが帰って来てた時間なんです」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。