猫の引っ越し
「だから言ったじゃない」
新しい洗濯屋で、ユノさんの母親は腕を組んだ。
「お腹が大きいって」
「毛が膨らんでるのかと思って」
「もう、洗う前の毛布じゃないんだから」
ユノさんは黙った。
私は二人の間に立ったまま、店の奥を見た。
新しい店は、古い方より明るかった。窓が大きく、床も乾いている。
ただ、洗い場も、取り込み台も、物干し場への通路も、隙間なく使われていた。
猫が三匹の子どもと落ち着けそうな場所は、すぐには見つからなかった。
「見つかったなら、連れてくればいいんじゃないの」
ユノさんの母親が言う。
名前はマキさんというらしい。
「近づかせてくれなくて」
私は少し迷ってから言った。
「古いお店は、いつまで使えますか」
*
建物の持ち主は、隣に住んでいた。
裏庭に枝を伸ばしていた枇杷も、その人のものだった。
話を聞くと、次の借り手はまだ決まっていないという。
「掃除に入るつもりでいたんだけどね」
女の人は薪小屋の方を見た。
「子猫がいるなら、あの辺は後にするよ」
ユノさんが頭を下げた。
私は、いつまでもいいという意味ではないですよと念を押した。
女の人は頷き、来週また相談しようと言った。
少なくとも、今日、慌てて運び出す必要はなくなった。
裏口の鈴が、風に一度鳴った。
ユノさんは、窓の下の皿を洗い始めた。
「私…新しいお店に来てほしかったんです」
「はい」
「毎朝、呼んでたんですよ。前の道まで戻ってきて」
皿の縁を、何度も擦る。
「私から行けばよかった」
私は薪小屋の隙間を見た。
灰色の目が、こちらを見返していた。
「見つかったし、今度は相談できますね」
「誰とですか」
「お母さんと。それとここを貸してくれる人とも」
猫本人とは、まだ難しそうだった。
*
結局、新しい洗濯屋の裏に、猫の居場所を作ることになった。
そこにはマキさんが持ってきた古い戸棚があった。
店に入らず、雨除けの下へ置いたままだったものだ。
下段の扉を片方外すと、出入りのできる箱になった。
「これ、売るんじゃなかったの」
ユノさんが聞いた。
「買い手がついたら、ほかのを探すわ」
マキさんは答えながら、棚板の高さを変えた。
中に敷く布を選ぶところで、二人はまた揉めた。
「これはだめ。まだ使うもの」
「じゃあ、どれならいいの」
「その青い方」
「薄いじゃない」
「二枚にすればいいでしょう」
私は戸棚の下へ、そっと薄い木片を挟んだ。
傾きが直ると、マキさんが上から押して確かめた。
「そこに置くなら、洗い桶は出せるわね」
ユノさんは、戸棚の前にしゃがみ、中を見つめた。
まだ誰もいない箱を見ながら、少し笑った。
*
サビたちが引っ越してきたのは、それから三日後だった。
その間、ユノさんは古い店へ通った。
私も一度、皿を洗うのを手伝ったが、サビには相変わらず警戒された。
サビたちのお引越しには、猫を飼っている隣人が手を貸してくれたという。
私はその場にはいかなかった。
翌朝、開店の張り紙を確かめていると、ユノさんが通りを駆け上がってきた。
「やっと、、はぁ、、来てくれました」
息を切らしながら、それだけ言った。
「新しい家に?」
「戸棚に。今、四匹ともいます」
私は肩の力を抜いた。
「よかった」
「母が、店の人みんなに見せて回ってて。昨日まで、邪魔だ邪魔だって言ってたのに」
ユノさんは笑い、鞄から包みを取り出した。
洗って畳まれた布巾が三枚入っていた。
「お代なんですけど。これでもいいですか」
私は、受け取る前に一度広げた。
どれも、私の家にあるものよりずっと白かった。
「三枚も?」
「一枚だと少ないって、母が聞かなくって」
「じゃあ、一枚は次に来たときの分にしませんか」
ユノさんが眉を上げた。
「どうしてですか?まだ何か…」
「んー、なんとなくです。猫は四匹になったわけですし」
考えてから、ユノさんは一枚だけ包みに戻した。
*
帳簿へ、猫のことを書いた。
行方不明。古い洗濯屋。親と子猫三匹。新しい店の裏へ。
書き終えてから、祖母の三年前の帳簿を開く。
『猫。灰色。右耳に切れ込み。魚屋の猫ではない』
その下は、空いていた。
祖母はどこまで知っていたのだろうか。
洗濯屋へ行く前に、帳簿をもっと探していけばよかったのかもしれない。
そう思いかけ、閉じた。
私が見つけたとき、猫は薪小屋にいた。
今は、別の場所にいる。
新しい帳簿には、そこまで書けている。
棚へしまおうとしたところで、卓に茶の水滴がこぼれているのを見つけた。
私はもらったばかりの布巾を一枚濡らした。
よく水を含み、固く絞ると、手の中で柔らかくなった。




