9 ミルデアの雨
オルニア王宮の東端に、白大理石で築かれた白亜の宮殿がある。
王宮の敷地内に在りながら、諸侯や官吏の往来で賑わう王宮正殿とは異なり、常に静寂が支配する一角だ。ここには国王その人であってもみだりに立ち入ることは出来ず、白の花々のみ植えられた庭園に見えるのは、白地に金の装飾をした長衣を纏う神官や女神官ばかりであり、その姿もほとんど見ることはできない。
ここは「神殿」。国と民のために祈り、神託を得てその未来を示すことを担う「聖女」の在所である。
神殿内の奥深く。聖女ローサは地下に続く階段を一歩一歩下っていた。足元から冷たい空気がまとわりつき、絹布一枚だけの長衣の下で肌が粟立つ。下るたび、吸い込む空気は痛いほどに澄んで、頭の奥の、いつもは感じることのできない知覚が徐々に目覚めていく。
紋が床に描かれた最深部——祭壇に降り立つと、ローサは大きく息を吸い込んで、頭の先から一声、高く鳴いた。
その響きが地下の壁に共鳴する。暗闇に先の見えない奥に向かうにつれ響きは重なり、跳ね返り、一人の声とは思えぬほど複雑な共鳴が返ってくる。
共鳴が一度収まると、ローサは確かめるかのように一つ頷いて、後ろの若い女神官たちへ振り返らずに声をかけた。
「——始めましょう」
女神官の手には巻物が広げられている。女神官は記載された文を一行ずつ、ゆっくりと読み上げた。
「……天に兆し在り。ミルデア、サバ、ルシアの山々の空に影あり、雨続くこと十と五日、雷光の只中に巨大な飛蛇の姿見ゆ。神意問い給う」
女神官が言葉を切ると、ローサはゆっくりと長く息を吐きながら、鈴の音そのもののような声を響かせた。それは歌だった。歌詞はオルニアの言葉ではなく、ここに居る誰もが、どこの言葉かも分からなかった。不思議な旋律に乗せて、ローサの歌声は祭壇の奥深くまで響き、冷たい空気を震わせた。
長く長く、ローサは歌い続ける。響きは幾度も重なり合い、複雑な音階を作り上げる。——が、やがて不意に、ローサの声が止まった。反響はそのまま徐々に遠く、薄れて消えていった。
「天に飛蛇の群れ見ゆる。青き飛蛇、地潤し、種を運び、白き飛蛇、水零し、山を崩す——」
ローサのその呟きを、別の女神官が素早く書き取った。
しばしの沈黙の中、ローサは視線だけで振り返った。
「これはすぐに、神殿長に報告を」
「かしこまりました」
女神官が長衣の裾をおさえつつ、足早に階段を登っていく。その足音が消え去ると、ローサは表情を改め、巻物を持つ女神官に声をかけた。
「次を」
恭しく頭を下げた女神官が再び巻物を読み上げ始めると、ローサはまた、喉の奥から鈴の音に似た声で、歌い始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「今日もお天気、悪いですねえ」
ユーク王子がカリナとエリュシオンの二人を伴って巡察の旅に出て、数えて十日目の朝であった。
領主館の窓から見上げる空は、真っ黒な雲が重く垂れ込めていた。とうに東の空から朝日がのぼっている時分だが、この暗さはまだ夜の只中にあるようだ。重い垂れ幕のような雨が視界を鈍く曇らせている。
レナード王から直接命じられたとは言え、具体的な目的や行き先を指示されたわけではない。この十日間、ユークたちは王都から国内に伸びる街道に沿って、地方の街を一つ一つ順に巡っていた。
行く先々でその地の領主のもとに顔を出し、王弟として歓待を受け、宿を借り、礼と言って幾ばくかの金銭を落としていく。そんな旅は順調に進んだ。王家の紋章をつけた大型の馬車は遠距離用とのことで乗り心地もよく、各地の風景や食事はみな物珍しかった。
が、ここミルデア領内に入ってから三日あまりは、この悪天候でずっと足止めを食らっていたのである。
「ミルデアは一年を通しても雨の少ない山岳地帯。すぐに止むだろう、と思っていたのですけどねえ」
エリュシオンも窓から空を眺めている。そそり立つ山々の山頂は雲に隠れて見上げることもできない。天候が良ければ峻厳な頂きが抜けるような青空に映え、ミルデアに旅する者たちの間でも評判の光景が見られるはずだったのに。
「まあ、天気だけはしょうがないよ。——さて、朝食の時間だ。行こうか、僕の『麗しの君』」
そしてカリナにすっと手を差し伸べたのはユークであった。朝食、というのに、王子の身分にふさわしい礼装をきっちりと着こなしている。カリナもこの早朝からすでにドレス姿だ。夜会に行くような派手で露出が多いものではないが、レースを幾重にも重ねた見目華やかなものである。
ここはミルデア領の領主であるカルロ・ミルデア伯爵の屋敷であり、ユークは王弟という立場、カリナはその愛人として滞在させてもらっている以上、朝から晩まで饗応を受ける立場にある。それにふさわしい服装というものがあるのである。
呼びに来た執事に連れられ、ユークの腕にカリナは己の腕を絡ませて、ともに食堂へ向かった。すでに領主の家族が待ち構えていた。
領主カルロ・ミルデア伯爵はやや小太り気味な三十半ばの男で、朝から宝石を縫い込んだ上着を着込んでいた。
「おはようございます。王弟殿下」
「おはよう。今日もまだ、出立は無理かもしれないね。迷惑をかける」
閉めてあるはずの窓からも雨音が響いている。伯爵は大げさに首を横に振った。
「殿下のご滞在は我が家の栄誉でございますれば、ご無理をなさらず、どうぞ今しばらく、ごゆっくりおくつろぎくださいませ。ご退屈とあらば楽団でも舞踏団でもご用意させていただきますよ」
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうよ。——ああ、気遣いは無用。僕はこの女性とゆっくりと愛を確かめ合う時間さえあれば、いくらでも心を満たすことができるからね」
と、ユークは傍らのカリナを抱き寄せる。朝から人目も憚らず愛人に溺れている愚者のごとく。カリナもそれに応えようと、歪ながらも妖艶に見えるように微笑んで見せる。
そんな二人を前に、伯爵とその家族は、ユークたちには見えぬ角度に顔をそらして眉根をしかめた。さらに伯爵夫人は汚らわしいと言わんばかりに小さく首を横に振っていた。
もうカリナも、偽の愛人を演じることでこうして白眼視されることにはだいぶ慣れてきていた。が、茶会の席や夜会の間という短時間とは違い、旅での滞在先である。朝から晩まで、衆目の中このような扱いを受けねばならないこと、もう、三日である。さすがに精神的な疲労が溜まっていた。
食事のさなか、伯爵一家はカリナをあえて視界にいれないようにしつつ、ユークには愛想よく話しかけてきた。ユークも人懐こい笑みを浮かべて応対しているが、滞在も三日を過ぎると目新しい話題が尽きてくる。
古来より、そんな時はもう天気の話題しかない。
「それにしても、よく降る雨だねえ。ミルデアでは珍しいんじゃない?」
「ええ、ええ。そうですねえ。まことに連日鬱陶しいことで、王弟殿下には申し訳なく」
ユークの問いかけに、伯爵は空いたグラスに蜂蜜酒を注ぎながら頷いた。
「昔からここミルデア、そして北へ伸びる山脈沿いの、サバ、ルシアの山々は『乾きの地』とも呼ばれておりまして、吹きつける風が雲をただ散らすのみ。夏の合間に細かな雹がパラパラと降る程度です。こんな十日も二十日も重苦しい雨が降るのは、十年に一度、あるかないかというところでして」
「それは常ならぬ事態だね。大丈夫なの?」
「王都の『聖女』様にはすでに神意のお伺いをたてましたが——」
続けて問うユークに、伯爵はそこで言葉を止めた。そしてちらりとカリナに視線だけやって、目を泳がせる。そのややわざとらしい行為に気づいて、ユークは自分から切り出した。
「気遣ってくれてるのかな? 大丈夫、『聖女』の名前を出してもこの女は気分を害したりはしないよ。——ねえ『麗しの君』。かわいいヤキモチは僕と二人きりの時だけ。ね?」
最後はカリナに振り向いて、片目をつぶる。急に話を振られてぎくりとするカリナだったが、はっと気づいて、少し拗ねるように唇を尖らせて、つんとユークとは反対方向に目をそらせた。そらしたものの、伯爵とその家族から漂う白けた空気に、また背中に汗をかく。
伯爵はごほんと一つ咳払いをして、話を続けた。
「あ、はあ。——それで、神意を伺いました所、神殿からのご返答はなく」
「返答なし?」
ユークはやや首を傾げた。が、伯爵は豪快に笑った。
「ということは、この雨もそう大したことではない、ということでしょう。なんらか憂慮すべき事態ということであれば、聖女様は神の声を我らに届けてくださるはずですから」
伯爵がそう言う最中も、雨音がさらに激しく高まった。一瞬伯爵は音に怯んで黙ったが、気を取り直して、中断した笑いを再開した。
「……ふぁりがとう、ごじゃいます」
部屋に戻ったカリナは、エリュシオンが自分の分から取り分けておいてくれたパンを口いっぱいに頬張りながら、半泣きの顔でそう礼を言った。
「いえいえ。私は別室でいただくことができますからね。パンの一つや二つ、いくらでも袖に隠して持ってこれますよ」
「もう、じぇんじぇん食べた気がしにゃくて……」
「ごめんねえ。三食そんな感じじゃホントしんどいよね」
頬を膨らませて咀嚼し、ユークから差し出されたグラスの水を飲み干して、ようやくカリナは一息ついた。
エリュシオンはまた窓から空を見上げている。山頂にかかる雲の合間からは時折白い雷光が煌めいている。
「そうですか、神殿は何も言ってこない、と」
ユークたちから朝食の席での伯爵の話を聞き、エリュシオンは呟く。口調に懐疑の響きがある。口の周りのパンくずを手で払いつつ、カリナも同意した。
「ミルデアから北部の山々に雨は降らない、というのは常識のように語られていますけど、時々はやっぱり今回みたいな雨が降っているんですよね。これ——ここに書いてあって」
カリナが広げたのは、旅の荷物の中に入れていた「ガルド旅次日抄」という本だった。数百年前の王族がオルニア各地を巡った際の旅行記で、ミルデアを始めとする北部山脈の旅の記述も詳細に記されている。その気候と、長年の歴史も。
「雨に備えのない土地ですから、大きな被害が出る時もあったとあります。でも今朝の話だと伯爵はそんな心配をされている感じでもないですよね」
「憂慮はしてるんだよ。だから神殿に神意を問うてる。でも、返事がない、か……」
ざあっと強い雨が吹付け、しかし急に音が途絶える。風はさほどないが、地面を叩きつけるような降り方だ。
カリナは「ガルド旅次日抄」の頁を再びめくるが、ミルデアに関する記述は一章のみ。しかも数百年前の事柄だ。
「——最近の記録が知りたいですね」
エリュシオンが独り言ではなく、明らかにユークを見つめてそう言った。
「ん? ——ああ。了解。ちょっと待ってて」
そしてするりと身をすべらせるようにユークは部屋の扉から出ていった。
ややあって、戻ってきた時には指先で大きな真鍮の鍵をくるくると回していた。
「この領館の書庫、開けてもらったよ」
「おお、さすが」
にこりと微笑み、エリュシオンは静かに拍手をする。カリナは目を丸くした。
「すごい。そんなあっさりと……」
「一応僕、王子様なんでね。言えば国中の、大抵の扉は開く」
「それこそが王子の最大の強みです。さて、参りましょうカリナさん」
「わ、私も行っていいんですか?」
「当然ですよ、知は共有するもの。——あ、王子も行かれます?」
「開けてって言ったの僕だし、僕の供と僕の愛人が一部屋にしけこむのを、僕が黙って見てるって変だろう?」
偽愛人計画は続行中なんだよ、と口を尖らせるユークに、エリュシオンは今思い出したかのように「ああそうでした」と頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
——ミルデア山脈中腹。山肌を切り開いて造られた、崖の壁面に沿った細い山道を、隊商の馬車が列をなして進んでいた。
雨続きで麓の集落で幾日も足止めをくっていたが、これ以上は留まれないと、わずかに雨脚が弱まったのを見越しての出発だった。
が、先頭をゆく道案内の若者が、雨よけの外套から顔を上げる。止まれ、と手を横にする。訝しむ隊の馬車が足を止めると、先を探るように一人ゆっくりと、足を踏みしめるように前に進む。カランと、崖の上から小石がひとつ落ちてきた。
とっさに振り返って隊に叫ぶ。
「崩落するぞ!!」
同時に地鳴りが響きだす。黒い激流が、崖の上から隊商の列に襲いかかった。




