10 エルダニア語の記録
領館の書庫として案内された一室は、扉こそ重厚でものものしい雰囲気を醸していたが、鍵を開けていざ入ってみると、内部のがらんどうぶりにカリナたち三人は呆気にとられた。
「何も無いねえ」
ユークがそう広くもない部屋を見渡して、思わず口に出した。
壁際に書棚があるが、本らしい本はせいぜい十数冊。あとは色褪せた紙が棚や床に乱雑に積まれていて、一歩足を踏み入れる度に埃が舞い上がった。エリュシオンが書類の小山の前に膝をつく。
「なくはないですよ。この辺りは毎年の税収の記録ですね。その下は——領主あての、宝石の代金の請求書? これは? 橋をかけたいという領民からの嘆願書? これは? ふむ、飼育されている羊の数を集落ごとに書きつけたものかな。ふうむ、なかなか興味深い」
「もう、すぐ読みふけるんだから」
ユークが頭にひっかかりそうになったクモの巣を払った。
カリナも半開きになった木箱の中を覗き込んで、中の書類や書籍を発掘し始めている。
「これは……食事の記録? あ、王家の方をお迎えした時の晩餐メニューです。へえ、百年ほど前ですけど、こんな食材名聞いたことない。あと、これは集落での係争の……あっ、裁判の記録だ。結構重要なものだと思いますけど、こんな雑に積んで」
カリナもまた次から次に現れる書類に釘付けだ。ユークが一つ咳払いをした。
「はいはい君たち、夢中になるのは分かるけど、本来の目的を忘れないで。大雨の記録を探しに来たんだよ」
「ああ、そうでしたね」
「す、すみません」
そう言いつつも手にした書類の束から目を離さないエリュシオンと、慌てて顔を上げるカリナとを見比べ、ユークは小さく肩をすくめた。
「しかし、こう言っちゃ何だけど、全然整理されてないし、あきらかに量も少ないよね」
「公文書と領主の個人的な書類が一緒にされてますね。とりあえず紙のものはこの部屋に置いておけばいい、って感じで」
カリナは改めて、もう一度ぐるりとこの狭い書庫を見渡した。薄暗く、人の出入りもほとんどないため、空気は冷ややかに乾いていた。書庫とは名ばかり、ほとんど本がないせいで、むき出しの壁が迫ってくるような圧迫感がある。
——どこも一緒なのね。
一人、カリナは胸の内で呟いた。
カリナが生まれ育った故郷の領主館にあった書庫も、こことよく似た状態だった。
乱雑な書付やたまたま入手した古本などが適当に置かれていただけで、鍵もなく、領主の孫娘であったカリナは自由に入ることが出来たが、中の物を一通り見終わるのにたいして時間はかからなかった。
祖父である領主も、その娘である母も、祖父の死後、跡を継いで領主となった叔父とその一家の者も、その部屋の存在すら意識の外にあるようだった。物事を記録しておく。それを保管し、後世に残していく。そんな発想すらない人たちだった。
エルダニアからの旅の途中で母と知り合い、請われて婿となったカリナの父が持ち込んだ大量の書物も、かび臭く、場所を取るだけの大荷物としか見ていなかった。
「——はあ、申し訳ごぜえません」
扉のところから、低く弱々しい声が割り込んできた。ユークたちをこの部屋に案内してきた、書庫の番をしているという老人の男だ。
「おっしゃるとおりでごぜえます。昔からこうでして。今の領主様からも、何をどうしろというご命令がありませんで」
エリュシオンが問うた。
「何処に何があるか、貴方ならお分かりですかね?」
「ああ、いや、えー……」
「雨の記録を見たいのですが。まとまった資料はありますか?」
「雨……?」
「できれば、毎年の記録が順になっているようなものと、十年に一度か二度という大雨の時の被災記録を拝見したいのですが」
エリュシオンの問いに、書庫番はどんどんと困惑の表情を濃くしていく。
「記録と言われても……。そんなの、見たことも聞いたこともねえです。雨なんか降らねえし降ってもほんの少っと。そんなのいちいち書いて残したりなんて」
エリュシオンは驚きこそしなかったが、表情を曇らせた。書庫番はエリュシオンのそんな表情に、やや気分を害したのかも知れない。もごもごとした口調ながら棘のある聞き返し方をした。
「そんなん残して、何に使うんです?」
「使い道? そんなのは無限にありますとも。過去を知ることで未来の予測が出来る。この先どれだけ雨が降るか降らないかで領民の生活が変わるでしょう。収穫量や貿易での収支の変動、はたまた災害予知。記録がもたらす恩恵は計り知れない——」
「いや、そんなん言われても」
早口になりかけたエリュシオンの言葉は聞き取りづらさもあり、書庫番には理解できなかったようだ。ぐちぐちとくぐもった声で反論してきた。
「こん先のことが知りたきゃ、王都の神殿——聖女さまにお伺い立てればいいじゃねえですか。そんな、雨がどんだけ降ったなんて書き残してても、何の役にもたちゃしねえ」
——何の役にもたたない。
側で聞きながら、カリナの胸がどきりと震えた。
嫌になるほど聞き慣れた言葉だった。
故郷の領地は小さく、領主の血縁であっても、領民と同じく農作業や機織りの仕事を割り振られていた。働き者の叔父一家には、農具や収穫した作物を担ぐ力もなく、なんど教えられても文様をうまく織り出せないカリナは、足手まとい以外の何者でもなかっただろう。
表向きは「できないものはしょうがない」と優しく言ってくれたが、失笑と呆れ混じりのため息のあとで、決まり文句のように付け加えられた言葉。
——この娘は本ばっかり読んでるからさ……。
思い出すたび、喉の奥がきゅっと閉まり、息が苦しくなる。
書庫番の老人とエリュシオンの間の不穏な空気を見かねて、ユークが間に入った。
「じゃあさ、君に聞きたいんだけど。今回みたいな大雨で大きな被害が出たことってある?」
へ、へえと書庫番はどもりつつ答えた。
「被害っつうと、いや、雨が降るたびいっつもってわけじゃねえですけど、山崩れが起こったことは、まあごぜえます」
「山崩れ! それはいつ?」
「ええと、ありゃあわしの息子が隣村から嫁をもらった年の夏……だから、二十、いや三十年くらい前ですかねえ」
その頃の資料は、と重ねて問われて、書庫番の老人がしゃがみこんだのは扉のすぐ横の書棚の一番下だった。埃だらけの書類の山と、幾冊かの、紐で綴っただけの簡素な本が見える。
「私が」
と、カリナがドレスの裾も気にせず、その場の床に座り込んだ。書類の一枚一枚をめくっていく。
「どう? カリナ」
「そうですね、ここも先代のご領主様の頃のものがただ積まれてるって感じですけど……雨、大雨、えーっと、これは違う、これも……。これは……?」
他の本よりやや大きめの紙で、紐とじされている書類の束。棚の一番奥に押し込まれていたそれをカリナは引っ張り出した。
「あった?」
ユークが問うたが、カリナは答えず、床に座り込んだまま一枚一枚頁をめくっていった。無言になり、魅入られるように読み込んでいるカリナの姿に、ユークも近寄って書類を覗き込む。やや遅れて、エリュシオンも。
「——オルニア語じゃないね」
ひと目見ただけのユークがそう言うと、カリナも書面から目を離さないまま頷いた。
「これは、エルダニア語です」
「おやおや、それは興味深い。なにゆえ、ここにエルダニア語の書物が?」
エリュシオンは嬉しそうに呟いた。書庫番は知らない、と首をふるふると横に振る。数十枚の紙を綴じたそれをざっと見たカリナが代わりに答えた。
「著者は、エルダニア帝都大学の学生のようです」
「ほう!」
エリュシオンの興奮が高まった。カリナは文字を目で追いつつ続ける。
「日記というか、論文? 二十五年前にここミルデアに立ち寄り大雨に遭遇……、独自に調査しそれを記録したものですね」
「ほう、ほう! 何という貴重な資料か! 私にも見せてください」
さらにエリュシオンは声を震わす。カリナはもう古くなってちぎれかけている綴り紐を外した。一枚読み終えるたびにエリュシオンに渡していく。しばらく二人は床に這いつくばってその論文に夢中になっていた。ユークは二人の傍らに腰を下ろして、文字は読めぬまでも横から覗き込む。
「なるほど、なるほど……」
エリュシオンがうわ言のように呟いた。興奮のためかやや喜んでいるかのようにも聞こえる。
「降雨開始日から二十日目に第一の山崩れ、翌日ギル川の決壊、橋の流失、二日後に再びの山崩れ。毎日の雨量も詳細に記されていますね。今回も初日から計測していればすぐに比較が出来ましたが……」
読み進める度にエリュシオンは唸り声を上げる。
「情報が緻密で、私、ゾクゾクしてきましたよ。毎日の風向き、風速。雲の形、色、流れ方。川の水位まで! かなり危険な調査も行っていたようですね。事後ですが、山崩れの現場で地質調査もしています。その場の土の色、植物の生態……ほうほうほう!」
そんなエリュシオンとは対照的に、カリナは口をつぐんで目だけをしきりに動かしている。そして思い立って部屋を飛び出し、すぐに戻ってきたときには王都から持ち出した本を数冊抱えてきた。
その本を広げ、再び床に這いつくばる。
かと思えば今度はまた立ち上がって辺りを見渡し、書庫内に窓がないと見るや廊下に飛び出してテラスにつながる扉を開けた。
「カリナ? 雨に濡れるよ?」
背後からユークの声が追いかけてきたが、カリナは大粒の雨に濡れるのも厭わず外に出ると頭上の黒雲を見上げた。ミルデア山脈の頂きを覆い尽くす黒雲の中に、時折白い稲光の筋が見える。カリナの呼吸が荒くなった。
「カリナ!」
もう一度呼ばれて廊下に戻ると、迎えに出てきたユークの腕にすがりつく。
「びしょ濡れだよ、どうしたの……」
「は、伯爵の、こちらの領主様のところに参りましょう! お知らせしないと——この雨は危険な雨です!」
「カリナ?」
訝しげなユークとは違い、書庫から出てきたエリュシオンも、開け放したテラスへの扉から同じく上空の雲を見上げている。その手には先ほどカリナが部屋から持ってきた「ガルド旅次日抄」が開いたままだ。そして重く呟いた。
「——まさに」
ユークは事態が掴めないままも、書庫番の老人にカリナを拭くための手布を差し出させた。しかし頭に被せられたそれをカリナは煩わしげに払い除け、身を翻して領館の中にある領主の執務室に駆け出そうとする。
「この人——、この論文の人ですけど、調査の早い段階で何度も警告をしたようなんです。このままでは危険な集落がある。被害が出る前に、一人でも多く安全な地に逃がせと。でも外国の人間の言うことなんて信じてもらえなかったみたいで、結局、山崩れと川の氾濫で三つの集落に被害が出ています。本文中で危険と指摘していたところです。……もし二十五年前と地形に変化がなく、同じところにまた住み始めていたら、同じ事が起こるかもしれません」
カリナはぐっと唇を噛み締めた。
「この人、結びに書き殴っているんです。自分の調査は何の役にもたたなかった。——でも、そんなことないですよね。この論文はきっと今、役立てることができる。今、この雨の被害から、土地と人を守ることが出来るかもしれない」
カリナの耳に、故郷の叔母の声が蘇る。
——本ばかり読んで、何の役にもたたない娘。
それはきっと、ただの大荷物と思われていた大量の書籍に埋もれながら、孤立していた父にも向けられた言葉だっただろう。
——役に立たない? そうだろうか。
失笑とともに言われ続けた言葉を、カリナ自身もへらへらと笑うことで流していた。だがそうして心の奥底に押し付けていた思いが、結局のところ故郷を捨てさせ、エルダニアへの留学への意思に火をつけさせたのだ。
カリナがぐっと力を込めた手の下にある論文の最終頁には、著者であるエルダニア人の署名があった。
それはカリナの父の名であった。
——証明したい。本が、文献が、記録が、役に立たないものかどうかを。




