11 二十五年前の雲と風
領主カルロ・ミルデア伯爵は領館の執務室で、片手ほどの大きさの純銀の彫像を磨いているところだった。
今日の昼食ではユーク王子にどのような馳走を振る舞おうか。せっかく王家の人間が我が領地に訪れているのだ。中央での出世のために、盛大に歓待して取り入っておかなければ——たとえ、婚約者がありながら、公務に堂々と愛人を連れ回している軽薄な王子であっても——と、そんなことばかりを考えながら。
「伯爵様、王弟殿下がお越しでございます」
執事が慌てて入ってきたのはそんな折だった。急な訪れに慌てて彫像を取り落としそうになるが、ようよう立ち上がる。
ユークがすぐに飛び込んでくる。そして後にカリナとエリュシオンが続いた。
「こ、これはこれは。いかがなさいました王弟殿下」
「急ぎ、話したいことがあってね」
ユークがそう言い終わるか終わらぬかのうちに、執務机に取り付いたのはカリナだった。髪からは雫が垂れ、服も肩などが濡れている。何事かと目を見張る伯爵を前にカリナは早口でまくし立てた。
「伯爵さま、領民たちを避難させてくださいませ!」
「な、なんですかな、やぶからぼうに……」
「このままでは山崩れがおきます! 川の氾濫も、橋も!」
絶句した伯爵だったが、一瞬眉根をひそめるも、わざとらしく鷹揚に笑い出す。目の前に迫るカリナからは視線をそらし、その後ろのユークに顔を向けた。
「王弟殿下、お連れ様はいかがなさいましたかな。お昼寝でもされている所、怖い夢でもご覧になったのでしょうか。大丈夫ですよ、確かにまあひどい大雨ですが、そうそう山崩れなどおきません。避難など、そんな大げさなこと」
「い、いえ、これを、これを見てください」
カリナが執務室の机の上に広げようとしたのはバラけたまま抱えてきた論文だ。その後ろからエリュシオンが「ガルド旅次日抄」も頁を開いた状態で重ねる。
が、二人のこの仕草に伯爵は今度ははっきりと分かるように、疎ましげに口元を歪めた。視線は相変わらず後方のユークに定めたまま苦々しく言い放つ。
「殿下。先ほど朝食の席でも申し上げました通り、すでに雨については神殿に神意をお伺いしております。ご返信はありませんが、それこそが留意すべきことなしということでしょう」
そしてちらりと横目でカリナを見やる。すぐに顔をしかめて目を背ける、その表情には明らかにカリナに対する侮蔑があった。
「……まあ、お連れ様は、聖女様に対し色々と含むところがございましょうが……」
その時、執務室の扉が外から勢いよく開かれた。
「伯爵閣下!」
「閣下!」
数人の男たちが入ってくる。ミルデア伯爵の近臣たちだった。入りしな、ユークたちの存在にややたじろぐが、ユークが構わないという風に頷くと、一歩前に進み出て声高に伯爵に告げた。
「ただいま、ミルデア山中腹の街道の一部が、山崩れにて埋まったとの早馬が」
「……なに?」
「通行中だった隊商が一隊、巻き込まれたようです!」
伯爵は時が止まったように顔を硬直させ、数秒後にわななき始めた。
「な、なんだと!? そ、そんなことがあるか! 神殿——聖女からは、何も言われておらんぞ!」
近臣たちは次々と詰め寄る。
「救助隊はいかがいたしましょうか?」
「街道の封鎖もご検討いただいたほうが……」
「ギル川の水位も上がっているとの訴えが。こちらも対策が必要かと……」
「う、うるさい! うるさい! そんな一度に答えられるか! わしは知らん! 山崩れが起こるなど聞いておらん! な、何かの間違いではないのか!」
うろたえ、口からつばを散らしながら喚く伯爵に近臣たちもあっけにとられている。そんな中、近臣の一人の袖を横からぐいと引っ張った者がいた。カリナだった。
「何処が崩れたんですか?」
腕をぐいぐいと引っ張り、執務机の上に広げた地図の前に連れて行く。近臣は戸惑いを見せたが、さらに反対の腕をエリュシオンにも掴まれて地図の前に押しやられた。
「こ、この街道のこの辺りです。——そうです、この印の」
指さしながら、すでにそこには印が付けられていることに気づいたらしい。地図のその位置に書き込まれた数字をエリュシオンが読み上げた。
「一。一日目。——二十五年前、一番最初に崩れた箇所ということです。今回とも被っていますね」
「他に一は……」
その時、再びけたたましい声が執務室に飛び込んできた。
「伯爵閣下! 早馬でございます! フォリア村の東の山肌が崩れたと!」
カリナとエリュシオンが地図に飛びついた。
「フォリア村、どこです?」
「ここ! ここも一です」
二人の声に、伯爵を除くその場の全員が頭を並べて地図を覗き込んだ。近臣の一人が唸るように呟いた。
「そもそもこれは何だ? ミルデア山の古い地図のようだが……」
「そ、そうです」
カリナは地図を机の上に再度きれいに広げ直した。手書きの地形図の印を順に指で指していく。
「これは、二十五年前の大雨の時に崩れた箇所です。そして今日、こことここが崩れましたね。二十五年前の最初の山崩れの場所と一緒。そうすると、この印がついているところは同じように危険かもしれません。こ、ここに集落があるようなら、領民の方々を一刻も早く避難させないと」
やや上ずった声ながら、近臣たちはみなカリナの言葉に聞き入っていた。広げられた地図、論文内の地形図にも真剣な顔で視線を落としている。エルダニア語の論文だが、書かれていることは彼ら自身の土地のことであり、判別も容易だったのだろう。地図内の印をゆっくりと順に指差し、年嵩の近臣がボソリと呟いた。
「二十五年前の……。確かに、あの時、ここが崩れましたな」
「私も覚えています。まずここが崩れ、それからここ。そして、ここ……。あの時のことを、こうして記録に残していた者がいたのですか」
カリナは激しく頷いた。
「それだけじゃないです。この論文には当時の天候の状態を、雨だけでなく、雲や風の流れも合わせて記しています。さらに過去を知る土地の古老の方々から過去の大雨の時の様子を語ってもらってて、危険な雨と、そうでない雨の分類も行ってて」
「そ! そうだ! いつも大雨の度に、必ず崩れてたわけじゃない……!」
そこで悲鳴のような声を上げ、カリナの話を遮ったのは伯爵だった。
「今回だって、大丈夫じゃないのか。そうだ、雨もじきに止む! 儂が領主になってから崩れたことなど一度もないのだぞ!」
「閣下、しかしすでに崩落は起こってしまっていて……」
「う、うるさい! 報告が大げさすぎるのだろう! 実際見に行ったら、小さな石が転がり落ちただけだったということじゃないのか? ともかく、崩れるわけがないんだ。神殿からは何も聞いてない!」
近臣たちの言葉も耳に入らず、伯爵は喚き散らしている。山崩れなど起きてほしくない、信じたくない——と、まるで駄々をこねる子どものように。近臣たちは半ば呆れたように黙り込んだ。奇妙な静寂が、一瞬室内を包み込む。が、そこでカリナが一歩前に出た。
「——おっしゃるとおり、崩れる前に止んだ雨の時もありました」
喉がひどく乾いて、声がかすれた。衆目を浴びている緊張からだろう。だが小さく咳き込みつつもカリナは話を続けた。
「その時の雨は、それだけ見ればそう差はない、と論文にもあります。雨量は同じ、だけれども山崩れが起こった時の雨とそうでない時の雨の、雲! ——雲と風が、違うんです」
ざわ、と近臣たちのざわめきが、さざなみのように生まれ始めた。
「ミルデアは風の強い土地です。その風が、雨の雲を吹き飛ばす。だから雨が降らないし、時折の大雨もそのうちに雨雲が流れていってしまいます。ただ、時折その風が止む時がある。……こちらの『ガルド旅次日抄』という旅行記にも記されています。読みますね。『——山頂の風が止む時、黒雲は重く湿り始め、多量の雨を降らせる。雲に風の切れ目が無くば、雨は止むことはない。地は水を含み、川の流れは堰き止められぬ』」
その場のみなが一斉に執務室の窓から空を見上げた。
雨雲は厚く、時折白く光る稲光が、かえってその奥行きを感じさせた。雲の向こうは果てしなく遠い。
「論文にも、むしろ気にかけるべきは雨量ではなく風、とあります。風のない雨。今の、この雨は、まさにそうではありませんか」
おお……、と近臣たちから感嘆の声が漏れる。カリナは最後の気合を振り絞った。
「こ、これで信じていただけますか。今回のこの雨は危険なのだと。はやく、危ないところにいる領民を逃さないと……!」
近臣たちの目が、一斉に伯爵に向けられた。
「伯爵閣下」
「閣下、ご命令を」
伯爵はカリナの話の途中から徐々に青白くなっていった顔を、しかしまだ強硬に横に振る。
「……し、しかし、神殿からは何も……。聖女の神託は、何も……、何も起こらぬと言われているのに、集落ごと避難だと? そんな大仰なことができるか……」
「聖女の神託は『何も起こらぬ』ではないでしょう。神託そのものが、ないのでしょう? ご自身の中で、いつの間にか都合よく変わってしまっていますが」
冷静なエリュシオンの声がかぶさるが、伯爵は鼻の穴を広げて、何度も息を大きく吐くだけだ。
エリュシオンの視線が、伯爵ではなく、傍らのユークに移った。
カリナもまた、振り返ってユークの顔を見つめる。
その気配に、近臣たちも一人ひとり、伯爵から王弟ユークに視線を移していく。
その視線にさらされ、その意味を徐々に理解したユークは、全てに一瞥を返した後ゆっくりと頷いた。
「……そうだね、僕が責任を負おう」
ユークは進み出て、伯爵の正面に立った。
「ミルデア領主、カルロ・ミルデア伯爵。これは王弟として、国王陛下に任じられた巡察使としての命である。危険地域にいる領民たちを、一刻も早く避難させよ。わがオルニア国の宝である民の命を無為に損なうこと、国王陛下は決してお許しにならぬ。領民のため、疾く動け!」
真正面からの厳命に、伯爵ももう抗うことは出来なかった。
震える声で「はっ……!」と頭を下げると、近臣たちの目に光が宿り、一斉に動き始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
二日後。
ミルデア山中腹にある一つの集落が山肌からの土砂に襲われた。
多量の土砂は集落の半分ほどを埋め尽くし、その家々や畑を飲み込んだが、二百人ほどの住民は前夜のうちに麓の領館近くまで全員が避難していて、死傷者は一人も出なかった。
そしてその七日後に、一月あまり続いたミルデアの大雨はようやく止んだ。雲の合間から差し込む陽の光に、ようやく青空の切れ端を見出すと、領民たちはみな歓喜と安堵の声を上げた。




