8 独りよがりの恋
ふいのユークの姿に慌てたのはカリナだけで、エリュシオンは静かにその顔を見やった。
「おや、お目覚めですか。ご気分はいかがです?」
「最悪〜、だったけど、ちょっと眠ったら良くなったよ。ああ、辛かった……」
と言いつつも薄明かりの下でもまだ顔色の悪さが垣間見える。いつもの長椅子に近づく足取りもふらついている。
どさりと座りこんだ際、じっと顔を見つめているカリナに気づいてユークは小さく笑った。
「みっともない所見せちゃったね。お酒駄目なんだ、僕」
そして床に積まれた本に気づいて、手を伸ばした。
「ふうん、古今東西の恋愛譚……」
一冊手に取りぱらぱらと頁をめくるが、興味なさげにそっと元の位置に戻した。
「——で、なんで婚約破棄しようとしてるのかって?」
全部聞こえてました、と言わんばかりに、ユークはいたずらっぽくカリナを見返した。
「あ! いえ! えっと……すみません」
「謝ることないよ。知りたいよね。大好きだった女性と晴れて婚約できたのに、お前なにやってんの? 何がしたいの? って」
その声は明るく朗らかであったが、影に歪さも感じ、カリナはむぐと口をつぐみかけた。が、意を決して頷いた。
「はい。知りたいです」
ははは、とまず力ない笑い声が返ってくる。
「カリナは本当に、『知る』ことが好きだね」
——ユークが最初にローサに贈ったのは、しなびた蛇の抜け殻だった。
悪戯盛りの十歳の少年は、人との交流は言葉を尽くして振り向いてもらうより、驚かせ叱られることのほうが面白い、そう思っていた。気にかかる相手にはなおさらで、当時からその被害にもっとも遭っていたのは八歳年上の兄である。
ある日、王宮内でエリュシオンと二人駆け回っていた所、庭園から窓越しに覗いた客間の室内に、美しい少女が座っていた。
それがローサだ。
まだ先代の聖女の存命の頃で、ローサは母である聖女に連れられて王宮に参内していたのだった。
透き通る、水晶のような煌めきをもつ年上の少女に、ユークは圧倒された。ユークに気づいたローサが窓辺に近寄ってくると、反射的に右の握りこぶしを突き出した。
「あげる!」
差し出されたローサの手の上でぱっと広げると、蛇の抜け殻がずるりと落ちた。
しかし悲鳴をあげたのは側にいた女官だけで、ローサは無表情のまま、ユークの手にもう一度それを握らせた。
「これは土に還るべきもの。元のところにお戻しなさい」
ユークは途端に赤面した。驚かそうと思ったのに、冷静にたしなめられた羞恥に負けて、その場を逃げ出した。しかしかなり離れたところで一度だけ振り向くと、ローサは女官たちと並んでこちらを見ていた。まだユークを見ていた。目があった一瞬だけ、ローサはやや首をかしげた。
その瞬間に、ユークの初恋は始まったと言ってよかった。
ローサが王宮に参内していると聞いた日は一日中落ち着きがなかった。
なんとかしてローサのいる部屋を突き止め、用もないのに覗きに行った。蛇の抜け殻事件を知る女官たちはユークが来ると警戒し、顔をしかめたが、ローサ自身はユークの呼びかけには取り合わず、無視を貫いた。
彼女はすでに次期聖女として定められていて、王宮への参内は公務なのだ。うるさい子供に構っている暇はないとでも言いたげだ。
そのうちにユークは自分用の菓子をとりわけたものや、無断で切った庭園の花を持参した。蛇の抜け殻ではローサは喜ばないことを知って、ユークなりに頭を使ったのだ。だがそれらも全く受け取ってはくれなかった。文を書いたときだけ女官越しに渡せたが、返事が来ることはなかった。
——そのまま四年の歳月が流れた。
先代聖女が亡くなり、定められた通りローサが次なる聖女の地位についた。
就任直後の聖女は多忙を極める。ローサが王宮へ参内しても神官たちや護衛兵が周囲を取り囲み、ユークが近寄れる隙はほとんどなくなった。
「……一年くらい、式典で遠くから姿を見ることしかできなくてさあ」
ユークの口調は軽いが、当時を思い出してか、瞳の奥に揺らぎが見える。
「なんかもう、思い詰めちゃったんだよね。それでまあ、あのネックレスを作らせて、渡しに、忍んで行ったんだ。夜、王宮に泊まっていた彼女の部屋に。もう衛兵呼ばれて叩き出されたって、文句言えないよね」
カリナは聞いた。
「あのう、ご存知でした? 蒼星石は、昔の王族が求婚の時に贈ったものだって……」
「——うん」
ユークはややあって、頷いた。
「知ってた。そのつもりだった。やばいよね、十五のガキがなにマセたことしてんだって感じ」
ユークは夜更けにローサの部屋を訪れた。最初は女官たちにあしらわれ追い出されたが、諦めきれずに外からバルコニーに回った。
部屋とバルコニーをつなぐガラス戸に小石を投げた。カツンという音。中から姿が見える位置で待った。出てこないか、あるいは衛兵を呼ばれるか——。しかし、しばらくのちに戸は開いた。
ローサは一人で、部屋の中には誰もいないようだった。夜着にガウンという軽装で、いつも結い上げている金の髪も背中まで垂らしていた。
「……ユーク王子?」
名を呼ばれた。自分と分かって、外に出てきてくれた。
月の光に照らされたローサの姿は、頭から足の先まで、星屑が散りばめられたように輝いて見えた。ユークの心の臓は爆発しそうだった。
息が乱れて、口がもつれた。ローサの十九の誕生日にと用意したものだと、ネックレスを握ったこぶしを差し出した。その姿に、十の頃の蛇の抜け殻を渡そうとしたことを自分で思い出した。また同じ事をしている。ユークはあの時と同じように顔を真赤に染めた。
拳の指の間からこぼれた鎖と下がった蒼星石に、ローサは指を伸ばす。
「ありがとう」
チャリ……と鎖のかすかな音が二人の間に響いた。
「今日という日を覚えていてくれたのは、あなただけだったかも」
ユークの指の間をすり抜けて、ネックレスはローサの手の中に落ちた。
——その夜は、それで終わった。
ユークはもうそれ以上、ローサの姿を直視できなかった。じゃあと言ってバルコニーの手すりから身を翻した。二階から飛び降りたことにローサが慌てて手すりに駆け寄ると、下では見張りをしていたエリュシオンが、ユークの下敷きになってもがいていた。
何かが劇的に変わった訳ではなかった。
相変わらずローサとの距離はあり、自由に言葉をかけることもユークには難しかった。
無闇矢鱈な贈り物も、かえって怖気づくようになった。贈りものを選ぼうとしても、何一つローサの好みを知らない自分に気づいた。季節の折々に恋文ともいえない手紙を送ったが、想いを伝えられる言葉が記せたか、自信がなかった。
どうすれば自分がローサに求婚できるほどの男になれるのか、分からないまま時は過ぎていった。
王宮内でたまにすれ違い、その姿を垣間見る。ローサはあからさまにユークを無視することはなくなった。視線を交わし、小さく微笑んでくれるようにもなった。しかしその度にやるせなさと、己への不甲斐なさが胸の奥に積もっていく。
そして今から半年前のある日。ユークはレナード王に呼び出された。
ローサとの婚約が成立したことを、唐突に告げられたのである。
「——それで、ね」
ユークはくくっと笑った。それはカリナが見たことのない、卑屈で、切なげな笑いだった。いつもの愛くるしさはまったく影を潜め、瞳は濁った光をたたえている。
「僕、喜んじゃったんだよね」
「喜んだ……」
カリナもつられて呟き、しかし大きく目を瞬かせる。
「えっ、でも、喜ぶのは……不思議なことではないのでは。そんなにローサ様がお好きなら……」
「僕自身が求婚して、ローサに受けてもらったわけじゃないのに?」
ユークの言葉に、どきりと、カリナの胸が震えた。
「嬉しくて——でもその後にローサの顔を見た。兄さんの前で、ローサは恭しく頭を下げながら『王の仰せに従います』って。すごくきれいな顔だった。一番最初に窓越しに見たときのような、透き通る……赤みのない頬。ローサは命令だから従ったんだ。そうだよ。聖女と言えど、オルニア王家の一臣下には変わりない。王が結婚しろって言ったら従わざるを得ない。相手が誰であろうと——何の努力もなしに、降って湧いた縁談にただ浮かれて、ローサが自分のものになったと喜ぶ、馬鹿な子供だとしてもね」
一度言葉を切って、ユークは自分を見つめるカリナを見つめ返した。やや下目遣いに、覗き込むように。可愛らしく、甘えるような、いつものユーク王子の顔に戻して。
「だから、全部壊してしまおうと思った——ってこと。ローサは何も悪くない。悪いのは、一から十まで僕」
話はこれで終わり、とユークは伸びをして、長椅子に寝転んだ。
言葉の出ないカリナに対して、側のエリュシオンがカリナの手元の本を示した。
「さきほど貴女が提示したその説話、まさにそれですよ。カリナさんの洞察力はたいしたものですね」
「なーに? 説話って」
ユークが手を差し出すので、カリナはためらいつつ、開いていた説話集を差し出した。好いた女性に想いを告げられず、自暴自棄になって神を冒涜し、怒りの雷に打たれた男の説話。ユークが吹き出すように小さく笑った。
「まさにこれだね。これ、男が雷に打たれて終わり? 続きはあるの?」
「ありません」
エリュシオンがそう答えると、
「そう、よかった」
ほっとしたように、ユークはそう呟いた。
カリナは黙ったまま、また別の本を手に取った。目次を見て、頁の行頭を確認して、何かを探すように頁をめくっていく。ない、と判断すると次の本もまた同じように、手早く中身を確認していく。
「何かお探しですか?」
三冊目を閉じた時にエリュシオンがそう聞くと、四冊目の本を開きながらカリナは唸るように答えた。
「それで終わらない結末の、話が、どこかにないかと……」
唇を引き結んで、カリナは頁をめくり続ける。が、やがてユークが手で制した。
「探してどうするの?」
手を止め、再びカリナはユークを見上げる。答えられないカリナに、ユークは優しく微笑んだ。
「優しいね。でもいいんだよ。雷に打たれて終わり——それで」
そしてカリナの膝の上から本を取りあげて、エリュシオンにそれを渡した。
「さて、夜も遅いし。もう二人とも、寝ようよ」
ユークは長椅子の上で眠ってしまったようだった。エリュシオンは書き物机でまだ何かを書きつけている。
カリナも一度は寝ようと毛布に頭までくるまったが、落ち着かず、また頭と手を出して枕元の本をぱらぱらと読み始めた。
——雷に打たれた後の男の話。
音を立てないように静かに頁をめくり、次の本、その次の本を開く。しかしどれだけ探しても、求める説話は得られなかった。
カリナは一人、呟いた。
「本が読めても、何の役にもたたない。——また、役立たずだなぁ。私……」
自然と瞼が落ちた。
眠りに落ちる間際に、カリナは父の書斎で、背を丸めて本を読んでいる父の姿を見た気がした。
気づくと、父の姿はいつの間にかカリナの姿に変わっていた。
たった一人、本に埋もれた小部屋で本ばかりを読み耽る自分自身。
明り取りの窓の向こうでは、領民たちが農作業に汗を流している。
隣の部屋から、壁越しに女たちの機織り音が響いていた。
カリナはそんな光と音に囲まれて、ひとり孤独に書物の合間に埋もれていた。
「——あーさ! 朝だよ! さあ、美味しい朝ごはんの時間だよー!」
ユークがやけに陽気な声をあげながら、手にした鍋をお玉でカンカンと叩いていた。
飛び起きたカリナとまだ半分寝ているエリュシオンを台所の卓につかせ、ユークは鼻歌を歌いながら皿にスープを注いでくれた。
ユークは酒には弱いそうだが、二日酔いはしない質らしい。
反対にほとんど飲んでいないはずのカリナのほうが、悪い夢見のせいで顔色が悪かった。
不意に、屋敷の表の方から声が聞こえた。来客のようだ。
パンを咥えつつエリュシオンが出ると、戻ってきたときには仰々しい、王宮の官吏が着用する式服姿の男を一人引き入れていた。
「お客様ですよ、ユーク王子」
男は朝食の席で給仕をしている王子の姿にやや面食らったようだったが、気を取り直して、レナード王の使いであると名乗りを上げた。そして筒状の書状をうやうやしくユークに差し出した。
「兄さんから? ははっ、とうとう婚約破棄を認めてくれたかな?」
ユークはおどけたような口調で書状を開く。しばし真顔になり、なにやら考えて、やがて使者に頷いた。
「承知いたしました、と伝えて」
使者はもう一度恭しく礼をし、屋敷の玄関から出ていった。
「王はなんと?」
エリュシオンがそう問うと、ユークはエリュシオンとカリナの目の前に書状を広げた。
短い命令文が、王の印章とともに記されていた。
——王弟ユークに国内の巡察を命ずる。
「巡察……?」
「まあ、国内を視察してこいってことだね。要するに、しばらく王都から出ていけってことだよね」
「愛人を連れての毎夜の放蕩に、王も立場上看過できなくなったということですかね」
「神殿側から何か言ってきたのかなあ。昨夜のバフジャールの剣幕を考えると」
神殿を怒らせるのは当初の目的であったのだが——。
「怒りがそっちに向いちゃったかあ。あくまで婚約破棄をさせるつもりはないんだね」
ふむふむ、とユークとエリュシオンはしばし無言で考え込む。はたから見るだけのカリナは、落ち着きなく左右に視線を動かすことしかできない。が、やがてユークとエリュシオンは同時に頷いた。
「よし! じゃ、婚前旅行としゃれこみますか」
「王都の外にも、愛人騒ぎを広げましょうかね」
そして息のあった動きで、カリナに振り返る。
「カリナさん、お支度をお願いします。一緒に来ていただきますよ」
「えええ! 私も行くんですか……! い、いいんですか? ご公務では?」
「公務にまで愛人同伴するような、愚かな王子なんですよこの人は」
「聖女ローサの婿になんてとんでもない! って、今度は国中から糾弾されるようにしむけるよ」
「く、国中……」
夜会での、貴族たちからの白い目にもまだ慣れたとは言えないカリナだ。話の規模がどんどんと広まることに恐怖しか感じない。
が、目の前の男二人は、満面の笑みでカリナを取り囲んだ。
「——帝都留学、したいですよね」
「——紹介状、書いてあげたいなあ」
こんな恐ろしい笑みもあるだろうか。——しかし。
すべてはエルダニアへの帝都留学のため。
カリナは目をつぶり、口を一文字に結んで、「わ、わかりました……」と頷いた。




