6 聖女ローサ
オルニア王家の側には常に「聖女」の姿あり——。
彼女は王と民のために祈りを捧げ、神託を得て、国家安寧のために助言する立場にある。
百年前、飢饉と内乱により滅亡の際にあったオルニア王国を救った女性がいた。
王位すら追われかけた時の国王を匿い、助け、やがて復権に導いたのは彼女の「神託」という名の助言であったと言われている。
以後も聖女の力は代々引きつがれ、オルニア王国の安寧のための助言は時の国王たちに重宝された。そしてやがて「聖女」と彼女の務めを補佐する一族の男性が組織した「神殿」は、オルニア王家に次ぐ権威を持つようになった。
そして四年前、先代の聖女の死去に伴い、その娘が七代目聖女として地位を継いだ。名をローサという。
「聖女」と言っても、世俗と離れて暮らしているというわけではない。
住まいこそ王宮に隣接する神殿内であるというだけで、普通の貴族の貴婦人と同様、気軽に外出もすれば、縁談話があるように、夫を持ち子を生み育て、家庭を営むことも当たり前とされているのである。ただ、「聖女」には他の誰も代わることのできない、神託を受けるという役目があるだけだ。
とはいえ、カリナのような地方の下級貴族には、やはり「聖女」の存在は雲の上のものだった。
ユークやエリュシオンの話に出ているだけでは、おとぎ話のような遠い世界のことのように感じていたのだが、実際に目の当たりにすると、その存在の清らかさに息を飲んだ。
美しい、という言葉で形容するのも陳腐に感じられる。
そしてその至高にも思える存在に対し、自分は——お芝居とは言え——その婚約者を横から略奪しようなどと、なんと不遜なことをしているのだろうと、足元が崩れるような恐怖に落とされた。それは国王の叱責や他の貴族の侮蔑の視線などより、よほどカリナの心を揺さぶった。
ユークは前に進み出た。またさっと貴族たちが道を開ける中を気楽そうな足取りで進むと、ローサの前で恭しく礼をした。やや大振りな動作は芝居がかった風にも見える。
「ご機嫌麗しゅう、聖女ローサ。こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
ローサは答えない。青灰色の瞳にそんなユークの姿を映しているだけだ。
ユークは続けた。
「ちょうど良かった。紹介したかったんですよ、彼女は僕の——」
——運命の恋人です、と続くいつもの台詞だ。
ついに、当の婚約者の前でそう告げられる日が来た。カリナは息を飲んだ。喉に引っかかって、小さくひっと悲鳴すら漏れた。
が。
ユークの言葉はそこで止まった。
ユークはローサを見つめたまま、表情が固まっていた。いつものにこやかな、相対する人にとってはへらへらしているとも見える笑顔が消えて、ローサから視線を動かせないでいる。
カリナはその視線の先を探った。
ローサの冷たい仮面のような無表情のやや下、胸元の、銀の鎖のネックレスが目についた。鎖には親指の爪ほどの大きさの青い石が下げられていて、夜会の灯りに煌めいて、半透明の青石の内部で金色の煌めきが僅かに見える。
蒼星石と呼ばれる珍しい宝石だ。
たしかオルニア南部の鉱山で僅かに取れる石で、美しいが割れやすいために、こうして宝飾品として世に出ているものは本当に少ない。
「そ、その石!」
カリナは緊張の反動と興奮で目を輝かせた。
「あれですよね……! 二百年ほど前に隣国の王女をオルニア王が王妃として迎える際、結婚の誓いとして贈ったっていう……」
つい先日読んだ外交史にあった記述を思い出したままに口にする。
が、言われたローサも隣のユークも目を丸くして自分を見返していることに気づき、また自分が失態を犯したことに気づいた。
「……あっ! いえ、な、なんでもありません……!」
慌てて首を横に振る。偽愛人の芝居の最中だったとようやく思い出して頭を下げた。
「せ、聖女さま。どうぞ、お見知りおきを……」
礼はぎこちなく、口ももつれた。気をつけている『ふしだらな悪女』の演技をする余裕もなかった。
ローサはそんなカリナを前に、ふっと視線をそらした。表情は読めなかったが、そっと胸元に手をやり青い石に触れた。
「故事をよくご存知でいらっしゃること。でも、ユーク王子はそうではなかったようですね」
カリナの傍らで、ユークが息を飲んだのが伝わってきた。
「——お邪魔をする気はありません。私はもう帰りますので、どうぞごゆるりと楽しまれて」
そして優雅に身を翻す。
「戻りますよ、バフジャール」
また澄んだ声で、ローサは己の神殿長を呼ぶ。
バフジャールは慌ててその背を追いかけつつ、忌々しくユークを見上げ、叫ぶように罵声を投げつけた。
「とにもかくにも、神殿は婚約破棄など認めませんぞ! これは神殿と王家との正当なる約束事。王子お一人の我儘で覆せるような話ではありませんからな!」
そしてもう一度カリナの顔を飛び出た眼球で睨みつけ、ドシドシと荒い足音を立てながら去っていった。
二人の姿が消えるまで、貴族たち、そしてユークとカリナはその背を無言で見送っていた。
楽団が円舞曲を奏で、屋敷のホールでは優雅なダンスの輪が回っている。
ローサとバフジャールの退出で一旦は白けかけた夜会の空気も、主宰者の伯爵が手を叩いて仕切り直したおかげで、再びの賑わいを取り戻していた。
カリナはユークに手を取られ踊りの輪に加わった。厳かな曲、軽めの陽気な曲、カリナは何度も足をもつれさせながらもユークのリードで数曲を続けて踊り、さすがに二人とも息を切らせる。給仕からグラスに注がれた発泡酒を受け取ると、ユークはくいくいと数杯飲み干した。
場の空気が和んだため、最初は遠巻きにユークたちを見ていた貴族たちも、若い者たちを中心に声をかけてくるようになった。ユークはまたそれに気さくに答え、時折笑い声を上げたりもする。
側でそんなユークを見ていたカリナは、しかし頃合いを見て彼の袖をくいと引いた。
「……あの、大丈夫ですか?」
「ん? なあに?」
酒のせいか頬を上気させたユークが、とろりとした声音で返す。
カリナは囁くように尋ねた。
「お具合が悪いんじゃ……? なんだかご様子が」
いつものユークとは違う。そんなカリナの直感だった。
踊りの際に握られた手も、いつもは必要以上にカリナに触れようとしないユークらしからぬ力が入った強引なものであったし、貴族たちと上げる笑い声もやや羽目を外しすぎている。酒に酔っているだけか、とも思いもしたのだが、カリナにそう問われると、ユークの口元がゆっくりと下がっていった。頬の赤らみもすうっと消えていく。
「ユーク様?」
「うん……、そうかも……しれない」
「お辛いのですね!? ちょ、ちょっと、お、お待ちになってくださいね」
カリナは周囲を見渡す。心得た給仕がそっと近づいてくるので、もう退出する旨を告げた。
給仕はユークの顔色を見て、他の出席者たちに気づかれぬよう、ひとまず休める場へと先導してくれた。
ホールに隣接する小部屋に案内され、ユークを長椅子に座らせる。案内してくれた給仕にカリナは頼んだ。
「あ、あの、馬車でユーク様の従者が待っていますので、呼んでもらえますか?」
退出するにしても主宰者への挨拶などカリナには分からぬことが多い。エリュシオンを呼べばなんとかなるだろう、との判断だ。
給仕が退出してもカリナは落ち着かない。ユークは身を起こしていることも辛くなったらしく、目を閉じて長椅子に上半身を横たえている。
こういう場合はどうすればいいのだろう。
カリナは今まで読んだ医学書を思い出してみるが、いざ目の前で倒れている人間を前に、対処法の一文も脳裏に浮かばず、右往左往するばかりである。
ふいに、ユークがうわ言のように呟いた。
「みず……」
「お、お水?」
飛び上がったカリナは、何度もこくこくと頷いた。
「頂いてきますね! ちょっと待っててください」
部屋を出て周囲を探る。給仕か女中の一人でも捕まえたいと辺りを見渡すが、運悪く人影がない。
一人で行動するのは躊躇われたが、カリナは探りながら廊下を進んだ。
ホールから漏れ聞こえる舞踏曲が壁越しに聞こえてくる。人々のざわめきも聞こえはするものの遠く、無人の廊下はカリナに不安感だけを募らせる。
そんな時、不意に若い女性たちの会話がカリナの耳に入ってきた。
目の前の曲がり角の先で、幾人かの女性が立ち話をしているらしい。
「——見た? 聖女様のあのお顔。こう言っちゃなんだけど——いい気味って感じよね」




