5 夢の中の父
——あ、父さま。
ぼんやりとした視界の先に懐かしい父の姿を見つけて、カリナは自分が夢を見ているのだと悟った。
父が現れるのはこうした夢の中でしかありえない。八つの時に生き別れて、今はどこでどうしているのか、生死すら不明なのだから。
父は椅子に座っていた。その前の机には山と本が積まれており、父は背を丸めて読書に夢中になっている。
ここは父が書斎に使っていた領館の小部屋だ。領主の娘婿であったが、農作業も狩猟も不得手で、日がな一日本ばかり読んでいる父は広い屋敷にも居場所がなく、この一見物置にも見える小部屋にこもっていることがほとんどだった。
「父さま、なにしてるの?」
カリナはいつのまにか八歳の少女に戻っていた。入口の戸から声をかけると、父は顔を上げ、手招きしてくれた。表情は影になっていて見えない。父がどんな顔をしていたか、もう忘れかけているのかもしれないとカリナは思った。
「このご本、エルダニアの本?」
父の膝に座って、今父が読んでいた本に目を落とす。
「そうだ。読んでごらん」
「難しい……」
「この前教えただろう。この単語、これは『学ぶ』という意味だ。次は?」
「えと、『所』……『場所』?」
「そう。それからこの文字が先にくると、『〜のための』という意味になる。そうしたらこの文は」
「『学ぶ』『〜ための』……『場所』?」
「その前についているこの字は?」
「『大きい』。大きい小さいの、大きい」
「そう。つまり、『大きく』『学ぶ』『ための』『場所』。——『大学』という言葉になる」
「『大学』」
拙いながらもそう発音すると、父はカリナの小さな頭を撫でてくれた。
「覚えたか?」
「覚えた。『大学』」
カリナはもう一度本に目を落とした。同じページに大きな宮殿の絵が描かれている。父はその絵を指さした。
「これはエルダニア帝都大学だ。エルダニアのみならずこの世界すべての叡智が集まる学問の聖地。——父さまは、昔ここで勉強をしていたんだよ」
「ここで? 父さま、ここで?」
顔を上げる。自分を覗き込む父と目を合わせる。
——しかし父の顔はそれ以上見ることが出来なかった。視界がぼんやりと霞み、目を瞬かせると——。
カリナは見慣れぬ天井を見上げていた。
——父さまの夢。久しぶり……。
ぼんやりとしたまま身を起こす。薄い毛布一枚だけを敷いて床に寝ていたことを我ながら不思議に思ったが、手元に積まれた本の数々を見てようやく頭が覚醒した。カリナが眠る直前まで読んでいたのはエルダニア語の辞書だった。十年前、父の膝の上で読んだものと同じ辞書が古い記憶をゆすり起こしたようだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「カリナさん、貴女、エルダニア語の習得はどちらで?」
カリナが読み終えたエルダニア語の気象学の本を見て、エリュシオンが尋ねてきた。聞きながら本を手に取り、ぱらぱらとめくる。
「この本は内容もですが文体もかなり古めかしい。辞書を引きつつとはいえ、これを一冊読みこなせるのは相当なものですよ」
隣からひょっこりと顔を出したユークが、エリュシオンの手元の本を覗き込んで瞬時に顔をしかめた。
「うわっ、難しそ。僕はその一ページだけでも無理〜」
カリナは答える。
「ええっと、……子供の頃に、父から教わりました」
「ほう、お父上が」
「お父さん、エルダニア語読めるんだ」
「はい。父はエルダニア人なんです。それで……エルダニア帝都大学にもいたことがあると」
「なんですと!」
とたんにエリュシオンがまた瞳に炎を宿す。
「それは非常に興味深い! お父上はエルダニア帝都大学にどのような形で在籍を!? 聴講生!? 学生!? または博士号を取られて教鞭を!?」
ぐいぐいと距離を詰めるエリュシオンにカリナは身をのけぞらせる。
「あ、いえ……ごめんなさい、それ以上は分からないんです。私が子供の時にいなくなってしまって」
迫るエリュシオンの肩越しに、ユークが気遣うようにカリナを見つめた。
「亡くなられた——のかな?」
「いいえ、私が八つの時に母と離縁して、多分、そのままエルダニアに帰ってしまったのだと思います。それきり会っていないので、生きているのか死んでいるのかも」
「そっか……、ごめんね。変なこと聞いてしまって」
カリナはユークに首を振る。しかしエリュシオンは眉をしかめて小さく唸った。
「そうですか、それはなんと素晴らしい」
「エリュシオン! 話聞いてた!?」
「聞いてましたよ。幼い頃からそのような優れた教師役が側にいたという僥倖。カリナさん、貴女は大変な幸運の星のもとに生まれましたね。私としては妬ましいくらいだ。——ああ私の父もそうであったらば」
「もう、ちょっと黙ろうか。エリュシオン」
ユークは呆れながらエリュシオンをカリナの前から横に押しやった。そしてつとめて明るい声を出す。
「その話はまた今度ね! ほら、もう日が暮れたよ。今夜は夜会に行くんだから!」
そしてカリナの手を恭しく取る。
カリナは袖を通したばかりの真っ赤なドレス姿で、髪は高く結い上げ、派手に見える紅を口に引き、指先には豪奢な金の指輪がきらめいている。その手に口づけをしようとして、寸前で止め、いたずらっぽくカリナを見上げるユークの顔は、もう愛人に誑かされた愚かな王子の表情をしていた。
「さあて、今日も世間を騒がせに行きますか」
その陽気な声に応えるカリナの声は、ややしおれている。自分の格好を再度見下ろして、表情は半泣きだ。
「やっぱり、……こんな格好、私には向いてないんじゃ……」
「いーから、行くよ!」
そして強引にカリナを馬車に乗せ、三人は夜の社交界へと繰り出していった。
オルニア王都西街区——ここは貴族たちの邸宅が建ち並ぶ高級住宅街である。
ユークたちの馬車は、ほどなくこの街区の一角にある邸宅の正門に到着した。
すでに夜も更けたというのに邸宅内、そして庭園には眩しいばかりに明かりがともされ、着飾った貴族の紳士淑女がその光に群れる羽虫のように集っている。邸内の広いホールでは音楽隊が円舞曲を奏で、男女が入り乱れて軽やかに踊っていた。贅を凝らした食事や酒が振る舞われるなか、出席者はたわいもないおしゃべりに興じ、庭園の茂みからは密やかな逢引の気配も伝わってくる。
馬車に刻まれた王家の紋章にいち早く気づいた執事に出迎えられ、ユークたちは馬車を降りた。
まずはユークが。そしてカリナも、ユークの手を取りあとに続く。その光景に、居合わせた貴族たちは一斉にざわめいた。
——あの方がそうですの? ユーク王子を誑かしたという。
——国王陛下もたいそうお怒りと聞きましたわ。
——王子もどうかしてますわね。こんなに堂々と連れ歩いて……。
——身分もあって無いような下賤の者と聞きましたわ。なんてまあ厚かましい……。
ある者は好奇の目で、ある者は胡乱げに、ある者は冷ややかに、ある者はけしからんと言わんばかりの憤怒の態度で。
あのお茶会での醜聞は、もう貴族たちの間に十分に広まっていたようだ。
そんな期待に応えるかのように、カリナはドレスの裾を邪魔そうに引きずりながらユークの腕にしなだれかかり、遠巻きに見てくる貴族たちに、精一杯の艶っぽい表情を向けた。今日のドレスも大胆に肌を見せ、やりすぎて下品に見えるよう化粧も派手にしている。
衆目のなか、カリナはユークの耳元に口を近づけた。紅に彩られた唇からは、王子の心をかき乱すみだらな愛の言葉を囁いているように見える。——見える、だろうが、その実態は。
「……やややや、やっぱり、無理ですぅ……」
カリナの口から漏れるのは、情けない泣き言ばかりだった。
突き刺さる視線の数にめまいを覚え、ドレス下の肌着は緊張からの汗でぐっしょりと濡れている。華奢な靴では一歩歩くごとにふらついて、しなだれかかっているというよりは、ユークにしがみついていないと立っているのも大変という有様だ。
しかし隣のユークはにこやかに、そんなカリナに囁き返す。
「大丈夫。できてる。その調子。頑張って」
全肯定の言葉には、かえってカリナが逃げ出すのを許さない圧力があった。
カリナは背後に視線をやる。従者の立場で二人に同行し、馬車で待つエリュシオンもユークと同じ笑顔だ。その口元が動くのを読むと、
「帝都、留学。費用、紹介状」
声に出さずそう連呼している。
——あの時、やっぱり頷くんじゃなかった!
二人にそうあしらわれる度に、カリナの心は後悔の叫びを上げるのだった。
そんな時、後方から一際大きな低い声が、ユークたちに投げつけられた。
「ユーク王子がお越しとな! それはそれは、ご挨拶を申し上げねば!」
どす黒い悪意を感じさせる声の響きだった。
人混みが自然と左右に割れ、白いトーガ姿の中年男性が姿を現す。背は低く、頭髪はない。が、金の飾りを頭に巻き、ぎょろりと飛びでた目は黄色く濁っている。
男はユークにずかずかと足を鳴らして近づくと、その目で横のカリナもぎろりと睨みつけた。
「この女ですか。かくも尊きユーク王子と聖女ローサ——いや、王家と神殿の聖婚を掻き乱そうという淫売は!」
真正面からの罵声に、カリナは雷に打たれたかのように心の臓が止まりかけた。
ユークが男とカリナの間に半身を割り込ませる。表情は、穏やかな笑顔のままだ。
「これはこれはバフジャール神殿長どの。お久しぶりですね」
「ああ、ユーク王子。さようでございますな。ここのところ王宮でもお見かけすること叶わず、いったいどこでどうしておられるのやらと案じておりましたぞ」
「僕になにか御用でしたか?」
あくまで平穏なユークの口調に、バフジャールと呼ばれた男は目を吊り上げた。
「笑止! しらばっくれるおつもりか。王子は我らが聖女ローサとの婚礼を控える御身。それをこのような淫売にうつつを抜かされておいでとは。神殿への冒涜は、王弟と言えど許されませんぞ!」
「冒涜だなんて、そんなつもりは」
ユークは薄く笑う。
「僕はただ、己の気持ちに忠実でありたいだけなんだ。ちょうどいい機会だ。紹介しますね。この人は僕の『麗しの君』。僕の最愛の、運命の女性です。彼女のいない人生なんて考えられない。そのためなら、何もかも捨ててもいいと思うほどに」
「いけしゃあしゃあと!」
バフジャールの飛び出た目が赤く血走った。
カリナはその迫力に気圧され言葉もないが、ユークは小さく息を吸う。
「そう、捨ててもいい。いいんですよ。——神殿側が、僕を聖女の婿にふさわしからぬ、というのなら、それでも……」
その時。カリナの耳に、澄んだ鈴の音色が聞こえた。
否。鈴の音色のような、女性の声だった。
「——おやめなさい、バフジャール。騒々しい」
周囲を取り巻き、やりとりを見守っていた貴族たちの視線がさっと後方に向けられる。
そこにいたのは、一人の若い女性だった。
清楚な白いドレスをまとい、首元に青い石の首飾りだけをつけている。しかしすべらかな金髪、陶器のように白い肌、桃色の頬は、どんな装飾よりも彼女を清廉な存在に見せている。
特別な人だ、とカリナは咄嗟に思った。
ユークが口元から零した名で、認識を確かにする。
「……あっ、ローサ……」
聖女ローサ。
ユークの婚約者であり、ユーク本人が婚約破棄を望む当の女性が、今カリナの目の前に立っていた。




