4 エリュシオンの図書室
その部屋はまさしく「知の蔵」だった。
カリナの視線は立ち並ぶ本棚、並べられた本の背表紙に吸い寄せられていた。
豪華な装丁の本もあれば、書類を糸で綴っただけの簡易な本もある。内容の種別も様々だ。戯曲、詩集、伝承録、歴史、政治記録、算術、医学、天文学。さらには多種多様な辞典や辞書。背表紙に他国の文字も散見され、もうどの国でも使われていない古代語の書物も見受けられた。
カリナは興奮しきりで、目移りしつつ書棚の間を行ったり来たりだ。
——あの本もある、この本もある、こんな稀少本まで! あの写本がこんなところに!
踊り子のようにくるくる身を回転させ、図書室中を巡って回った。
「この本、エリュシオンさんが集めたんですか?」
「半分ほどは、父がこの屋敷を買い上げたときについてきた本です。父にはただの紙の束にしか見えてなかったようで、焚付にでも使おうとしていたようですよ。とんでもない、そんな事をされたら私が父を竈に放り込んでやるところでした」
ユークが後ろから小声で付け足した。
「多分、エリュシオンなら本当にやったよね」
「残りは子供の頃から集めていたものです。他の貴族の家で持て余しているものを引き取ったり、他国から来た行商人から買い取ったり。借りた本を私が書き写したものもあります。その棚から、あちらの壁の棚までは、全部そうですね」
はあ、と感嘆の吐息をつきながら、カリナはまだ部屋中を見渡している。
「あの、私も、ここの本を読ませていただいても……?」
「もちろん。滞在中は好きな本を好きなだけお読みください。——あの茶会の部屋で、『天鳳宮史』を一目でそう見極めたカリナさんなら、どれも読みこなせるのではないでしょうか」
エリュシオンは片眼鏡にくいと触れた。
「聞きそびれていましたが、よく見つけられましたね。不覚でした。あのような貴重な書籍が、あんな無造作に、部屋の飾りの一部のようにただ置かれていたとは」
そして重い溜息をついて、小さく首を横に振る。
「王宮を出る時に持ち出せなかったのは痛恨の極みです。次の機会があったら、必ずこの手に」
「一応、あれも王家の所有物だと思うんだけど……。まあ、いいか。王宮の人間は本なんて読まないしね。エリュシオンが持ち出してもだーれも気づかないよ」
「まこと嘆かわしいばかりです。国の中枢たる王宮がそれですからね。——ですからカリナさん」
エリュシオンはカリナの両手をガシリと掴んだ。その瞳の奥に静かな炎が立ち上がっている。
「貴女の学識の深さは大変興味深い。エルダニアへの留学を望んでいると言っても、失礼ながら私は貴女をただの飯屋の女中と思っていました。それが一目で古代文字をそうと認識されるほどの見識をお持ちとは! どうぞ、ここの本はいくらでもお読みください。そして読んだ本についての様々な解釈、発展の可能性について心ゆくまで話したいものです。我らはともに学問の徒。学びの未来を切り開いていきましょう……!」
「は、はい」
勢いに押され、カリナは小さく頷くことしか出来ない。ユークがそんな二人の間に声を挟む。
「エリュシオンてば。カリナ、引いてるよ。それとみだりに女性の手を握るの、駄目」
言われて、エリュシオンもすぐに身を引く。ユークはカリナに向き直った。
「——とまあ、そういうわけで、僕とエリュシオンはここで寝起きするから、寝室は、遠慮なくカリナが使って」
「えっ」
「僕はこの長椅子で横になれれば十分。エリュシオンもあの机で突っ伏しちゃうか、その下の床に転がって寝ちゃうかのどっちかだよ。二階の寝室はほとんど使ったことないと思うね」
言われ、カリナはユークとエリュシオンの二人を見比べる。そして思わず本心を発した。
「いや、それなら私もここがいいです!」
「え?」
「お二人ともずるい! 私もこの部屋で寝起きしたい! 眠る直前まで本に囲まれ、目覚めた瞬間から本が読めるんでしょう!?」
「いや、でも……、床か椅子の上で寝るってことだよ? それに僕たちがいるんだ。広いとはいえ女性が男と同室で休むって……」
ためらうユークに対し、エリュシオンは平然と許可を出した。
「構いませんよ。あのあたりなんて、ちょっと広くていいんじゃないですかね」
そして床に散在する直に積まれた本の塔の合間にある、奥まった一角を指差した。
「ありがとうございます!」
許可を得た、とカリナは喜び勇んでその一角に飛んでいく。
座りやすいように床に置かれた物を端に寄せたり、本棚にしまう場所が分かる本は一冊ずつ戻していく。その間にも手にした本を開いて、歓喜の悲鳴を幾度も上げた。
そんなカリナのはしゃぎようをエリュシオンは満足げに見やって、そのまま書き物机に向かった。書物を開き紙を広げ、写本作業を始めたらしい。あっという間に自分の世界に入っていく。
ユークの方は急に一人取り残された形となったが、一度図書室を出、毛布とクッションを一揃え抱えて戻ってくると、それをカリナに手渡した。せめてこれを床に敷け、という意味だろう。礼を言って受け取ったカリナの頬は歓喜に緩みっぱなしで、早速の一冊を膝の上で開いている。傍らにはその続刊と思われる同じ表紙の本を積んで、万全の読書態勢だ。
しばらく、静かに時は流れた。
図書室内に、西向きの小さな窓から赤い夕日が差し込みはじめる。
ユークは長椅子でごろごろとしながら、室内にいる二人を交互に見やった。エリュシオンは机で写本作業に没頭し、カリナは床に敷いた毛布の半分を腰に巻き付け、真摯な顔で本を読み続けている。
ガーガーという、夕闇の訪れを告げる鳥の声が、外から聞こえる。
「……二人ともー、そろそろご飯にしない?」
しかし返ってくるのはエリュシオンがペンをすべらせる音、カリナの頁をめくる紙の音のみだ。
外から徐々に浸潤してくる夜の色を見やって、ユークは立ち上がり、図書室を出た。戻ってきた時には両手に一つずつ火を灯したランプをぶら下げ、一つをエリュシオンの卓上に、もう一つをカリナの側にそっと置いた。
「目が悪くなっちゃうからね?」
そう声もかけたが、カリナは読書に没頭している。足元に積んだ本は、すでに三冊目に突入していた。
そうしてまた時が経ち、窓から見える月の影が室内に伸びていく。
「——二人とも! ご飯!」
ユークのらしからぬ大声と、鍋をお玉でカーンと叩く音に、カリナとエリュシオンはさすがにビクリとして飛び上がった。
「はいはい、読書はちょっとお休み。近くの食堂でシチュー買ってきたから食べるよ! 本置いて、食堂に来て!」
カリナは慌てて、エリュシオンは気だるげにのそのそと、ユークに続いて図書室を出る。
台所のテーブルにはいつの間にかクロスが敷かれ、いくつもの堅パンがかごに盛られ、深皿も並べられている。ユークは手にした鍋から順に皿へ、手慣れた様子でシチューを注いだ。
「まったく、僕って一応この国の王子なんだけど。その僕にこうも堂々と給仕させるなんて」
席についたエリュシオンと、そしてカリナの顔を見て、ははっとユークは苦笑する。
「読書中のエリュシオンだけだと思ってたら……二人に増えちゃったな」
「あっ、あっ、す、すみません」
「いーよいーよ、慣れっこだから。この屋敷に来たら、僕いつもこんな感じなんだ。——って、こーら! エリュシオン! 食べながら書き物は止めろって言ってるだろ」
「ちょっと今この文を思いついたので。書き留めなければ……」
「もう! じゃあせめてスプーンを置いてから!」
テーブルのこちらとあちらで、ユークとエリュシオンはドタバタとやりあっている。
不思議な二人だ——とカリナは改めて思ったが、シチューのかぐわしい香りにつられたように、お腹がぐうと大きな音を立てた。赤面すると、ユークが愉快に笑っている。
「はい、どうぞ召し上がれ」
「い、いただきます」
ユークが調達してきた温かなシチューを口に運ぶ。ようやく今日一日の緊張が溶けて、体が緩んでいく気がした。
「食べ終わったら、——着替えよっか、カリナ」
言われ、カリナはまだ今日の芝居のためのドレス姿だったことに、ようやく気づいたのだった。




