27 未来の名著のため
屋敷の焼け跡にて、エリュシオンは敷石に腰を下ろしていた。
あの火事からもう十日あまり。
焼け跡はずいぶんと片されていて、炭化した壁や柱が見えていた場所はがらんと広くなっていた。時折風が吹き抜けるが、しばらく地面にも染み付いていた焦げ臭さも、もうあまり感じない。上を見上げれば空は青く、そして高く、一羽の鳥が優雅に舞っていた。
日は、もうだいぶ高い。
今日の正午に、カリナとローサは王宮から帝都に出発すると聞いている。見送りに行くならそろそろ向かわなければ間に合わないが、エリュシオンは立ち上がれないでいた。
二人が向かうのはエルダニア帝国、帝都大学。
学問を志すものならば誰もが夢に見る学びの聖地。
その創立者、エルダニア皇帝イヴァン二世の伝記『イヴァン皇帝記』を夢中になって読んだのは、さて何年前のことだろうか。
まだ辞書を引きながらでしかエルダニア語を読み下すことができず、次の頁をめくるまでに一昼夜をかけたこともある。その分、イヴァン二世が心血を注ぎ、何十年もの月日を費やして、知識を後世に伝える組織を作り上げたその功績が、エリュシオンの骨の髄にまで刻み込まれた気がする。
いつか自分も彼の地へ——。あの伝記を読んだ者で、そう思わぬものがいるだろうか。
エリュシオンももちろん夢見た。
だが、どうしても、エリュシオンは足がすくんだ。
——在りし日の自分の図書館を、眼の前に思い描いてみる。
片付けられた焼け跡の上に、どう書棚が配置されていたかを思い出す。壁一面、天井までの書棚に、広い一部屋を間仕切る形でいくつも配置された腰高の書棚。そこにぎっしりと立てかけられた古今東西の書物。
そしてその書物に埋もれて、ひたすら頁をめくり続けた自分の姿。読書に、写本に、とかじりついていた机は、
——そう、あの辺り。
エリュシオンはじっとその一点に視線をやった。
一人で、書物の中という別世界に入っていく。
そこはエリュシオンにとって静かで、優しい世界だった。
エリュシオンは、自分が周囲から少しずれていることを、幼い頃から自覚していた。
思ったこと、考えついたことをすぐに口にしてしまい、話し始めたら自分でも止められない。
父や兄たちから、やかましい、と何度叱責を受けたか分からない。母からも、もう黙りなさいとため息交じりに幾度も注意された。
そんな中で、話を聞いてくれるのはユークだけだった。
エリュシオンがどれだけ語り続けても、ユークはうんうんと頷いて、「へえ」「そうなんだ」「知らなかった」と相槌を打ち続けてくれた。流石にこの年にもなれば、ユークはそう言いつつも半分以上は聞いていないことも分かっていたが、エリュシオンを厭わず話を続けさせてくれるのは、自分と同じように王宮で孤立したユークただ一人だった。
エルダニア帝都大学には、当然のように、ユークはいない。
聞いていなくても、自分が語ることをただただ許してくれる人がいない。
エリュシオンは、ふうと大きな息を吐いた。
——カリナさんなら……。
そう思わなくもない、が……。
いや、とエリュシオンは頭を振った。
——あの人は、本を見つけたら送ってくれると約束してくれた。……それでいい。
ふと、声が聞こえた気がした。
「あ、いたいた。エリュシオン!」
ユークの声だった。自分の頭の中の王子が飛び出て、己を呼んでいるかに思えて、エリュシオンはやや慌て気味に声の方を見やった。
焼け跡の向こうから、ユークが手を振って近づいてくる。その後ろにはカリナとローサの姿があった。二人とも旅装として長めのマントを羽織って、その向こうには荷を積んだ小型の馬車も連れていた。
エリュシオンはゆっくりと立ち上がった。
「……ああ、もう出立の時刻なのですね。すみません、お見送りしますよ」
三人の姿に、エリュシオンは自然と微笑むことができた。
が、ユークたちはエリュシオンではなく、辺りの焼け跡に視線を這わせている。
「——荷物はどうしようかしら。思った以上に、何も残っていないわね」
ローサが呟く。
「いいよ、エリュシオンは気にしないよ」
ユークが明るく受ける。
何のことだと首を傾げるエリュシオンに、カリナがそっと手を伸ばす。旅装用の手袋に包まれた指先で、カリナはエリュシオンの手を取った。
「さ、行きますよ!」
その声の向こうで、ユークが掲げたものがあった。オルニア国王の印が押された白い封筒が、合わせて四つ。
なんですか、それは——と問う前に、カリナが喜色に満ちた声を張り上げた。
「帝都大学への紹介状です。私と、ローサ様と、……ユーク王子とエリュシオンさんの!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
数日前。
「——ちょっとご相談が……」
そう呟くやけに重苦しい表情のカリナを、ローサとユークはまずは同じ卓の椅子に座らせた。
何事か、と顔を覗き込む二人に、カリナはため息を付きながら首を振った。
「エリュシオンさんのことです」
「エリュシオン? が、どうしたの」
「ちょっと聞いてもらえますか。——先日から、エリュシオンさんも留学しませんかって再三誘ってるんですけど、なんか断られちゃうんです。二言目にはユーク王子が、って。ユーク王子の側に居なければ、って」
ローサとユークは互いに顔を見合わせた。
「僕?」
カリナは続ける。
「ユーク王子のお世話係が私の使命です、とか。いや、誰がどう見ても、お世話されてるのはエリュシオンさんの方ですよって言っても、取り合ってくれなくて」
思わず、ふふっとローサが吹き出した。
ユークはなんとも言えぬという風に口元を歪める。カリナの声は話しながらさらに熱を帯びていった。
「あの人の知識と学術への探究心はもっと生かすべきですよ。ものすごい名著をこれから残すかもしれないじゃないですか……。その未来を、私、見たいんです。その本を……できたら一番に読みたいんです……!」
果てないカリナの知に対する強欲ぶりに、すでに慣れたユークはともかく、ローサは驚いたように目を見張った。
次の瞬間、がっ、とカリナはユークの手を掴んだ。その目を爛々と輝かせ、ユークを見上げた。
「ユーク王子」
「……は、はい」
「お願いです。王子も協力してください」
「——説得しろってこと? 僕が? でも、僕、エリュシオンを言い負かせたことなんてないんだけど」
「そうじゃないです」
カリナは真摯な目のまま首を横に振った。意を解せぬユークが眉根を寄せる。そのカリナの意図に気づくのはローサのほうが早かった。
「カリナさんは、ユーク、あなたも一緒に来て。って言っているんでしょう」
「えっ」
「はい!」
カリナはさらにユークの手を握りしめた。
「ユーク王子も一緒に。エリュシオンさんの未来の名著のために、お願いします!」
「相談てそういうこと……?」
戸惑い、ユークは落ち着きなく視線を彷徨わせた。カリナの圧のある視線から逃げ、助けを求めたローサは可笑しそうに小さく笑っている。
「いいじゃないの、ユーク」
「ローサ?」
「あなた、出来ることが見つかったじゃないの。学問のための貴重な人材を、学術研究の場に送り出す……。とても素晴らしいことだわ。それもあなたにしかできないって、カリナさんは言っているのよ。『王弟』でなくなった今だからこそ、できること」
カリナがまたユークを見返す。
「『王弟』——じゃない?」
「ええ、カリナさん。そうなの。ユーク、ついさっき『王弟』の地位を剥奪されたらしくてね」
「えっ! そうなんですか。——それはなんて好都合!」
「ちょっと、カリナ!」
「あ、ああ……すみません、つい」
一度ユークは声を荒げたものの、しかし困ったように口を歪ませ、そのまま小さく笑い出した。
「……でも、僕、エルダニア語なんて全然わかんないけど。一緒に行って大丈夫かな」
「あら、それは私も一緒よ。幸い、辞書はカリナさんが揃えてくれてるわ」
荷物の上に山と積まれた書物をローサは指さす。カリナも意気揚々と声を張った。
「道中、お二人とも猛特訓しましょう! 大丈夫、エルダニアまでは馬車と船で十日はかかりますからね。それだけ時間があれば……」
「いや、十日では無理だよ。君やエリュシオンと一緒にしないで!」
言葉ではそう言いつつ、ユークの表情はいつしか未知の、遠い外国への期待に満ち始めている。
よし、と力強く声を張って、ユークは立ち上がった。
「じゃ、紹介状を増やしてもらわないと。……兄さんに、頼んでくるよ」
その言葉に、カリナもローサも一瞬不安げにユークを見上げた。たった今『王弟』の地位を剥奪されたと聞いたばかりだが——。
しかしユークの言葉には遠慮も陰りもまるでなかった。
「大丈夫だよ。『王弟』はあくまで地位の話。どんな形になっても、兄さんにとって、僕がたった一人の愛する弟であることには変わりないと思うんだよね!」
そして愛くるしく片目をつぶってみせると、ユークはそのままレナード王の私室に駆けて行ったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「エリュシオンさん。私、どうしてもあなたを諦めきれません。……一緒に、エルダニアに行きましょう」
カリナに強く手を握られ、しばらくエリュシオンは呆けたようにカリナを見つめていた。
その背後で、ユークがにこやかに佇んでいる。
「……王子も、一緒ですか」
「そうだよ」
ユークはおどけた顔を見せた。
「だから、エリュシオンも一緒に来てもらわないと。——乳兄弟として、エルダニアでも僕のお世話をしてもらわないとね?」
カリナとローサは笑い出すのをこらえている。
エリュシオンはそんな三人の顔を順に見返し、そして、カリナの指先をぐっと握りしめた。
「しょうがありませんね。ユーク王子のお世話をするのが、私の使命ですから」
「いや……」
しかし、こらえきれなくなったユークが、笑いながら声を張り上げた。
「逆!」
かくしてカリナ、ローサ、ユーク、そしてエリュシオンの四人は、揃って馬車に向かう。
エルダニア帝都留学への道が、今開かれようとしていた。
——が、ふとエリュシオンが足を止めて片手を上げた。
「あ、その前に。ちょっとお待ちいただけますか」
次回、最終回です!




