24 潜入
その夜更け——。
王宮内に密かに留まったカリナとエリュシオン、ユークの三人は、すでに人気が絶え、時折衛兵が規則正しく見回るだけの薄暗い王宮の廊下を、身を隠しつつこそこそと進んでいた。
三人の中には王弟であるユークもいるので、衛兵たちに見つかったところで特段問題にはならぬだろうが、彼らの目的を考えれば、やはり後ろめたさがある。
彼らが向かうのは、王宮のとある一室だ。主に客の歓待に使われる広間の一つで、庭園に面し日当たりが良いことから、王や王妃が私的なお茶会などを開く際によく使われている。
その部屋はカリナの記憶にも新しい。
この王宮にエリュシオンに伴われ初めて訪れたときに、その隣室の扉の影から中の様子を窺っていた。背を押されて飛び込んだ先で彼女はユークに「麗しの君」と呼ばれ、国王レナードの睨みに身をすくませた。——ユークと聖女ローサとの婚約破棄騒動の発端となった部屋である。
廊下を横切る衛兵の視線から隠れながらようやくその部屋の前にたどり着いた三人は、物音を立てぬようそうっと扉を開け、素早く中に滑り込んだ。
「……ある?」
室内は暗く、カーテンの隙間から差し込む月明かりだけが頼りである。
三人は暗い中で時折互いにぶつかりながら、壁際の飾り棚に向けて歩を進めた。
上下二段に分かれた棚の上段には、本が数冊立てかけられていた。そしてその隣に、倒れて表紙が上向いた一冊……表紙には、眼光鋭い鷹の目の意匠が刺繍されている。
「ありました……」
「なげかわしい、あれほど貴重な本だとお伝えしたのに、まだこんな無造作に……」
カリナとエリュシオンはその一冊の本を左右から見つめながら、熱っぽい吐息を漏らすばかりだ。ユークは背後を警戒していた。外の廊下を、今一人の衛兵が歩いている。その気配を感じてじれったく二人を急かした。
「じゃ、持っていこう。中身は部屋でじっくり……」
と、手を伸ばすと、ぎゃあと悲鳴を上げたカリナに叩き落とされた。
「素手! 素手はだめです! ユーク様」
「手袋! お持ちじゃないんですか?」
左右から甲高い叫びを食らって、ユークは反射的に二人の口を手で覆った。
「し——っ! ああ、え? 手袋?」
「そうですよ、手の脂で傷みます。——お持ちじゃない? ではちょっと手を出さないで」
言いながら、二人はポケットから白い手袋を取り出すと、両手にきゅっと同時に嵌めた。ユークは半ば呆れたように首を振りつつ、「……じゃあお願い」と全てを任せることにした。
カリナの手にそっと持ち上げられたその本は、『天鳳宮史』。
古代語で書かれた前王朝の歴史書で、この王都と王宮を設計した天才建築家サジェの功績が詳細に記されている。彼が手掛けた建造物には、彼の紋であるこの表紙の鷹の目の意匠が必ずどこかに彫り込まれているとされていた。それを、カリナは裁きの塔の内壁に見たことを思い出したのだ。
「嫌な思い出ですけど、入牢したかいがありました」
「でも、そのサジェって人が裁きの塔を建造したのは分かったけど、本当に書いてあるの? その……塔への侵入方法」
「今からですよ。解読するのは。まあそんな都合の良いことは書いていないでしょうけど、何かしらの手がかりは得られるかと」
その返答にユークは焦りを滲ませる。
「大丈夫? 一晩しかないんだよ……」
「分かっていますよ。お任せください。古代語は私の最も得意とする言語です」
「及ばずながら、私も古代語は嗜んでいますので」
自信満々のエリュシオンとカリナに、しかしこれしか手段がないのだと、ユークは肩を落としながらも従うしかなかった。
一夜明け、ユークは裁きの塔の正面扉前に、国王レナードと共に立った。黒いトーガをまとった法官が仰々しい巨大な扉の鍵を開け、重い扉を押し開いた。
王宮から付き従ってきた侍従や衛兵は数多くいたが、この先、レナードの供をするのはユークのみである。
レナードは塔の最上階へ続く長い長い螺旋階段を上り始めた。その数歩後をユークも同じ歩調で追いかけた。
カツン、カツン、と硬質な足音が、狭い塔の石壁の中に響く。
他の囚人のうめき声がかすかに聞こえてくる。牢の扉は厚く見張り窓も小さいことから、中を窺うことはできなかったが、レナードたちのこの足音を看守かと思い、力なく無実を訴えてきているのだろうか。
この中にバフジャールもいるはずだが、どの牢にいるか、ユークは知らされていない。
ただ、時折引きつった笑い声が、周囲の声に混ざって聞こえた気がした。ヒッヒッ……という、甲高い声。それは遠く、掠れて、しかと耳に届いた声かもユークには分からなかったが、エリュシオン邸の焼け跡でバフジャールが見せた、あの狂気の笑みを思い出させた。
長い螺旋階段も、ようやく天井が見えてきた。
見上げれば、その天井の中央には鷹の目を模した意匠が刻まれていた。ユークは密かに息を呑んだ。
昨夜、王宮の一室から私室へ持ち出した一冊の本。
エリュシオンとカリナは一晩かけて内容を解読していたが、この裁きの塔への進入口を見つけることができたのか、古代語を読み解けぬユークには分からぬままだった。ただ、ユークが早朝からの王の呼び出しに腰を上げた時には、二人とも目を血走らせながら、本を囲み、その周囲に何やら書きつけた紙片を散らしていた。
その姿に、ユークは望みをかけるしかない。
レナードがただ一人になったこの瞬間を狙って、ローサを処刑するというレナードの決意を翻させる。そのために、カリナたちは今ユークの後を追っているはずだ。
——自分一人では、おそらく兄の説得は無理だ。
悲しいかなユークにはそんな自覚がある。
だが、あの二人ならば。
あのどこから湧いてくるのだろうと思わせるほどの、学問への熱情。
ローサの中の伝承歌を、けして失わせてはならぬという執念。
彼らならば、この巨石のように強大な兄を揺るがすことができるかもしれない。
そう信じて、ユークは彼らの到着まで、時間を稼ぐ役を請け負ったのだ。
「——聖女ローサ。レナードである」
階段を上りきった先の一枚の扉の前で、レナードは中に向かって声をかけた。
ごくり、とその後ろでユークは喉を鳴らした。
お入りください、という小さな応えがあり、レナードは扉を押し開いた。
高貴な身分の者のための牢ということもあり、牢内の内装はそれなりに整っていた。石壁は剥き出しのままではなくきちんとその上に厚手の布がかけられており、床も一部は絨毯敷きだ。椅子に卓、天蓋付きの寝台も奥に見える。
ローサは椅子に腰掛けていたが、レナードの姿を見て立ち上がり、恭しく国王に対する礼を取った。
レナードの背後に立つユークの顔を、ちらりとローサが見た気がした。思わず目を逸らしそうになって、ユークは、いや、と自分を奮い立たせた。彼女の目をしっかりと見返した。
「聖女ローサよ」
立ったまま、レナードは重々しく口を開いた。
「はい」
「市中に放火した罪として、神殿長バフジャールは死罪となる」
「……はい。正しき裁きかと」
ローサは床に視線を落とす。いつも艷やかだった唇は、さすがに色を失いかさついていた。レナードはそんなローサをしばし見つめた後、また口を開いた。
「神殿長の此度の愚行、聖女たるそなたは何故と考える」
「……バフジャールは、思い違いをしたのでしょう。書物に油を撒いて火を付けたと聞いております。書物に書かれた事柄が、聖女——ひいては神殿が独占していた神託の領域を汚すものとして、排除しなければならぬ、と。……愚かなことでございます。もとより神殿に、神託を独占する権利など無きものを」
レナードは重々しく頷く。
「そう、神託を独占する権利はない。聖女にはそれが分かっていたか」
「はい。私は聖女として、バフジャールにそう戒めねばならぬ立場でした。ですから、バフジャールをあのような凶行をおこなうまでに増長させた罪は、私にもございます」
「己も同罪、と、受け入れるか」
ローサはじっとレナードを見返している。ユークは己の心の臓がうるさくてならない。
彼女がこのまま死罪を受け入れるのでは、とユークはそう懸念していた。
昨日の朝も、神殿を包囲した兵に対し、ローサは神殿の神官、女神官たちにけして抗うなと言い続けたという。ローサに対し裁きの塔へと言われたときも、従順に同行した。その潔い様は、すでに彼女自身が罪を受け入れていて、レナードの裁定に大人しく従うつもりではないか、と。
が——。
ローサは静かに、首を横に振った。
「王の命とあれど、私は、今、死ぬわけには参りません」
レナードの視線が鋭く、決意を露わにしたローサの瞳を射抜いた。それにひるむことなくローサは静かに言葉を続けた。
「私が死ぬことで失われてしまうものが、あまりにも大きいゆえ……」
「人はみな、自分の命の価値をそう思っている」
レナードが返した冷酷な一言に、ローサは首を横に振った。
「命一つのことならば、この不祥事の責任を取って、この身を陛下の裁定に委ねましょう。ですが私はもう一つの世界を内に宿しています。それはけして私の意思ひとつで失わさせてはならぬもの」
「……どういうことだ」
「聖女の神託は、神によって与えられる託宣ではございません。そのことをまず、陛下に申し上げます」
ローサは言葉を選びながら、聖女の神託と呼ばれているものは、歴代の聖女に口伝によって伝わっている伝承歌であること、そして歌詞は何処の言葉とも分からぬもので、正確な発声と、そして全ての音を聞き取ることは、聖女の血筋の女性にしかできないと告げた。
「伝承歌とは、歌詞に載せた過去の記録でございます。数千の詩篇に、時の記録を刻んだもの。それを過去から未来へ歌い継ぐのが聖女の力。それができるのは、今は私一人です。私が死ねば、この歌は未来永劫失われてしまいます」
ローサの言葉を、レナードは無言で聞いていた。
怪訝そうに眉をしかめるものの、それをたわごととも、理解できぬ、とも言わない。
むしろ、聖女の神託が神の予言という神秘の技ではなく、過去の記録が歌い継がれたものであるという点は、レナードをより納得させたようだ。
「……なるほど。そのような仕掛けか」
深く息を吐く。その声音は、しかし先ほどと変わらなかった。
「であっても、同じことだ。聖女にしか歌い継げないという点では、聖女にしか受けることのできない神託と、何も変わらない。聖女を押さえてしまえば、同じように独占される。その危険性からこの国を護るには、聖女ローサ、今、お前を排除する以外にない」
すっと、レナードの眼光が鈍い光を帯びた。
瞬間、ローサ、そしてユークも、レナードが腰に下げた剣の柄に手をかけたのを見て取った。ローサは息を飲みつつ、言葉を続ける。
「——歌を記録に残します。万人が読み解ける形で」
「なにを言うか。数千篇の、言葉とも分からぬ歌を、どうやって」
「私にはまだ分かりません、でも——」
レナードがすらりと刀身を抜き放つ。思わずローサはたじろぎ、後方によろけた。足が椅子の脚に絡まり、椅子ごと大きな音を立てて床に倒れる。
そのローサの喉元に、レナードは切っ先を向けた。
「——でも!」
だが、ローサはそれでもまだ抗った。
レナードが手に力を込め、その剣の刃先が鈍く光る。
その剣は——しかし次の瞬間、横から薙ぎ払われ、甲高い音を立ててレナードの手元から弾き飛ばされた。
間に踏み込み、レナードの剣を払った己の剣の切っ先をレナードに向けながら、ユークは叫んだ。
「できる……! できるよ! 聖女の伝承歌を記録に残す……やってみせる!」
——が、瞬時にレナードはユークの体ごと横に蹴り飛ばした。
手からも剣を取り落とし、派手な音を立てて、ユークは床に叩きつけられた。
「王に剣を向けるか——。いつも口だけのお前が、また戯言を!」
しかしユークは手をつき身を起こしながら、怯まず言い返した。
「……ぼ、僕には無理かもしれないけど、彼らならきっと、できる。あの情熱に、僕は賭ける。ローサを聖女の重荷から解き放って、伝承歌を、世に伝える……」
——その時。
荒々しい音を立てて、牢の扉が外から開かれた。三人の視線が一斉に向けられる。
転がり込むように入ってきた影は二つ。二人とも、両手を床につき、全身で呼吸を繰り返している。荒々しい呼吸には苦しげな喘鳴も混ざっていた。
「……どうやってここまで入ってきた」
レナードの低い声での問いにも、すぐに顔を上げられない。が——。
「ちょっと……遅くなってすみません……。あの、通風孔をなんとか見つけ出したんですけど、すごく地下深くの、相当潜らないといけないところで……」
「そこからまた、ここまで駆け上がってくるのが大変でしてね……」
床に突っ伏しながら、カリナとエリュシオンはぜいぜいと息をつぎながらそう声を絞り出した。




