23 レナードの正義
王宮へ文字通り駆け戻ったユークは、一人、そのまま廊下を全力疾走する勢いでレナード王のもとへ飛び込んでいった。
弟がそのように血相を変えて来ることはあらかじめ予想していたのだろう。王から命じられていたと見えて、衛兵たちも制止することはなかった。ユークが執務室の扉をいささか礼儀を欠く乱暴さで開けると、室内にいたのはレナード一人だった。
「早かったな」
レナードは窓辺に立ち、そこから王宮の光景を見下ろしていた。ユークは早足で詰め寄った。
「兄さん——」
「神殿は既に制圧した」
レナードは弟の激昂を無表情でいなし、発言に被せるように淡々とした口調で語り始めた。
「早朝、兵士たちに命じて神殿を取り囲み、全神官の身柄を拘束した。バフジャール直属の部下たちが武装している可能性もあったが、踏み込んでみればみな粛々と命令に従ったそうだ。直前に聖女ローサがそう命じていたらしい」
「ローサは……」
「捕縛の必要はなかった。自分から、赴けというならどこへでもと言うので、丁重に神殿から連れ出した。そのまま裁きの塔へ送ることを告げても、分かりましたと頷いただけだったそうだ」
ユークはキッとレナードを睨み返した。
「事態が飲み込めないんだけど? 発端があの放火の件なら、あれはバフジャール一人がやったことだ。神殿、ましてやローサに罪はないよ」
「バフジャール一人を罪に問えば終わりと思ったか?」
「そうでしょう? あの時、バフジャールは一人だった。供の神官はどこにもいなかったし、ローサもバフジャールがあの場にいること自体知らなかった。ローサは僕と一緒だったんだ。証言してもいい。あれはバフジャール一人の凶行だよ」
「それは、これから決まることだ」
冷淡なレナードの瞳に見据えられ、ユークは口ごもった。
「……法廷で裁判にかけるってこと? 先日のカリナのように」
「あの娘の裁判とはわけが違う。結果としてあれも俺が裁くこととなったが、そもそも法廷の法官に、神殿長、聖女という高位の身分の者を裁く権限は認めていない。よって公の裁判は行わず、王たる俺自身が直に断罪することとなる」
「それはつまり、……兄さんが、そうだと言えば——バフジャールの犯行は神殿やローサも関与していたって言えば、そう決まるってこと……」
レナードはわずかに口の端を上げた。
「察しが良くなったじゃないか。少しは成長したか」
ユークは理解できない、という風に首を横に振った。
「な、なんでなのさ? 百年もの長い間、オルニア王家は聖女の神託に助けられて政を行ってきたじゃないか。聖女は災害や疫病を予見して多くの民を救い、外敵を退ける策を授け国を守ってきた。その功績は、神殿長たった一人の愚行で無に帰すような軽いものじゃないよ」
「そうだな。聖女の神託は確かにありがたい存在だった。だがその功績の事実が神殿の増長を招いた。あやつらはいつの頃からか、聖女の力を己の力と錯覚し、我らこそがオルニアの主、この地を統治すべき存在だ、と思い上がるようになった」
そうまで言われればユークも同意せざるを得ない。神殿長バフジャールの度を超えた尊大な物言い、振る舞いは、ユークですら不快に感じるところがあった。
レナードは静かに話を続けた。
「神殿はこの国にいつか害をなす。現に権力への妄執、その百年の蓄積が、バフジャールのような醜悪な肉塊を生んだ。やつは王都の市街地に火を放った。幸い死者は出なかったようだが、俺の民を損なおうとしたことは断じて許しがたい。俺は王として、この国と民を守るという責務がある。そのためにも、神殿の増長はもはや看過できん段階だと判断した。……その増長の源が聖女の存在であるのなら、それごと切ってしまわねばならん、とな」
レナードの口調に感情の高ぶりはまるで感じられない。それがかえって断固たる決意を感じさせる。
ユークは握りしめた手の中に汗を感じた。
兄はもう神殿とローサの処分を決めてしまっている。だが、ユークは抗わずにいられなかった。ポケットの中の、ローサへ贈った蒼星石のネックレスの存在がユークを奮い立たせる。
「……じゃあなんで、兄さんは僕とローサを婚約させたりしたのさ。バフジャールをつけあがらせるだけだって分かっていたでしょう」
「そうだな。今になってみればそれは失策だった。認めよう」
絞り出すようなユークの言葉を、レナードはあっさりと飲み込んだ。
「ローサがお前の子を産み、その子が次の聖女となれば、聖女の血統に王家の血を混ぜることができる。神殿と同じく王家も聖女の血族という立場を得る。そうして聖女を王家に取り込むことで神殿を無力化し、時間をかけてでも権力の外へ追いやる……そんな計画だったわけだが」
「……知らなかったよ」
「お前に説明してもな」
レナードはやや肩をすくめた。ユークはレナードを睨む。
「どういう意味?」
「お前の甘ったれた性格上、こんな奸計による婚姻など、怖気づいて逃げ出すか、妙な正義感を振りかざして反発するかのどちらかだろう。それならば、ただ同じ年頃で釣り合いの取れる相手だからと娶せてやればいい。気負うことがなければ夫婦仲も良くなろう。その方が——子も生まれやすい」
ぎりとユークは奥歯を噛み締めた。が、反論はできそうになかった。
確かに事前にこの話を聞いていたら、ユークは婚約破棄を望む以前に婚約そのものに首を縦に振らなかっただろう。血を混ぜるためだけに、ローサをただ子を産ませる道具のように見ることはできない、と言って。
「……まあそれでも、まさかお前がよそに女を作り、婚約破棄を申し出るとは思わなかったが——いや、それはもういい。どちらにしろローサとの婚約は白紙に戻った。カリナと言ったか。あの娘は王弟の妃になれる身分ではないが、外に囲うなりなんなりお前の好きにしろ」
話がそれたな、とレナードは首を軽く振った。
「——ともかく、神殿は解体し、聖女という位はそれ自体を抹消する。もう政に神託を介入させることはない。しばらくは国政にも影響が出るだろうが、実際の所神託を当てにしているのはミルデアのような旧態依然とした地方諸侯ぐらいだ。王都の貴族たちはバフジャールの醜態を目にしている機会も多いため、神殿そのものをすでに白眼視していたしな。今後は王家が政をより主導していかねばならん。ユーク、これからはお前にも働いてもらうぞ。王弟として、俺の片腕になってもらわねば困るからな。その手始めとして、今回の騒動の顛末を俺の側でしっかりと目に焼き付けておけ」
ユークは俯いてその言葉を聞いていた。握りしめた手はわずかに震え、その内はじっとりと汗をかいている。やがて絞り出すような声で問うた。
「……聖女と神殿のことは分かった。それで、ローサはどうなるの。ローサ自身は……」
レナードは眉をひそめた。ただローサのことだけにこだわり続けるユークを、しばし冷ややかな目で見つめると、低い声で言い放った。
「明朝、俺自身が裁きの塔に出向き、ローサ本人の訴えを聞く形を取る。それにより、裁定を下すこととなる」
ユークの声が小さく震える。それは押し殺した怒りだった。
「……もう兄さんの中では、どうするか決まってるんじゃないの?」
レナードはその声の震えに気づいたようだったが、ゆっくりと首を横に振った。
「それでも、形式というものがある」
——しばらくの沈黙の後、黙ったまま、ユークは王の執務室を辞した。
握りしめた手は爪が皮膚に食い込み、血が滲んでいた。
「明日の……朝」
うなだれるユークを前に、カリナはかすれた声で繰り返した。
王宮内にあるユークの私室で待っていたカリナとエリュシオンは、戻ってきたユークからレナード王の思惑を聞かされ、しばし絶句し呆然とさせられた。
ユークは行き場のない怒りを堪えきれず、話し終えて立ち上がると、手近な壁を何度も拳で打った。
「クソっ……! クソっ……!」
更には額を自分から壁に打ち付け始めたので、カリナとエリュシオンが慌てて両肩を押さえて止める。
「だ、駄目ですよ。頭は……頭は大事にしてください」
「記憶をしたり、物事を考えることができなくなりますよ。——落ち着いて」
二人がかりで半ば強引に壁から引き剥がし、さらに肩を押さえ込んでその場に座らせた。ユークの額と拳にはうっすらと赤い血が滲んでいた。
「でも、明日の朝……って」
繰り返したカリナの呟きに、ユークが大声を上げた。
「そうだよ! 明日、兄さんはローサの処刑執行書に署名する! なんでだよ! ローサが何をした! 聖女だから? 生まれた時からそう決まっていたんじゃないか! それはローサの罪じゃないだろう!?」
悲鳴のようなユークの叫びに、しかしカリナはひるむことなくその顔を覗き込んだ。
「でもそれは——言い換えれば、明日の朝までローサ様はご無事ということですよ」
ユークは目を丸くした。瞳に映るカリナの表情は冷静だったが、力強い決意がすでに浮かんでいた。
「まだ、間に合います」
言葉を失うユークに向かって、今度はエリュシオンが大きく、ゆっくりと頷いた。
「その通りです、王子」
そしてエリュシオンは己の手のひらを見つめた。昨夜の火事の際の火傷で両手ともに包帯を巻いていた、その手をぐっと握りしめる。火傷の痛みか、それとも違う痛みかに顔をしかめながら。
「あの時、私は間に合いませんでした。今まさに書棚に火をつけようとするバフジャールを発見した時、私に馬のような足があれば、大鷲のような翼があれば、一瞬でやつに体当たりして、あの図書室を守ることができたのに。——でも、ローサ様はまだ間に合います。あの一瞬に比べれば、明朝までの時間は無限に近い」
カリナは膝をつき、ユークの右手を両手で握りしめた。昨晩、別れ際に握られたローサの手の温もりを伝えるかのように。
「ユーク様。ローサ様を助け出しましょう」
エリュシオンもまたカリナの隣に膝をつき、ユークの左手を握った。
「ローサ様の内にある伝承歌——もう一つの『世界』をこのまま無にはできません」
ユークは何度も瞬きを繰り返し、カリナと、そしてエリュシオンを交互に見つめる。二人の手の温もりが伝わり、そして二人にもユークの拳に滲んだ血が伝わっているだろう。
「……でも、どうやって」
エリュシオンはカリナを見、カリナもエリュシオンを見つめ返した。
「それはやはり」
「国王陛下にご翻意いただくしかない、ですよね」




