22 灰の中から
一夜明けて——。
エリュシオン邸の焼け跡にも澄んだ午前の光が差し込んでいる。
いまだ周囲は焦げ臭く、全部や一部が炭化した柱や壁が悲惨な有様だが、近所の人々は夜中の騒動に寝不足なのも顔に出さず、焼け出されたカリナたちに朝も早くから何かと世話を焼いてくれた。
「服も焦げちゃってるじゃないの。娘のお古だけど、これに着替えなさい」
「医者も連れてきたよ。火傷は小さくても甘く見ちゃ駄目、薬塗ってもらいな」
「朝ごはん食べてないだろう、ほら、お食べ。食べないと力が出ないよ」
カリナたちは、そう言って差し出してもらった古いが清潔な服に着替え、町医者に火傷の手当てをしてもらい、雑穀入りのスープをすすった。
昼前には、ユークが話をつけてくれた商家の主人が使用人たちと大きな木箱を持ってきてくれた。
邸内の、玄関や台所、二階の寝室などはほぼ無傷に見えたが、火元の図書室は壁や天井の一部が崩れ落ち、建物の体をもうなしていなかった。室内の本棚の三分の一は収めていた本ごと炭になり、残りの三分の一は半焼または半壊し、残り三分の一は水浸しになっていた。床に散乱し、消火の混乱の中で踏み荒らされてばらばらになってしまった本も多い。
そんな中から燃えもせず、水にも濡れなかった本を拾い集め、カリナはその木箱に収めていった。無事だった本はカリナの腰ほどの高さの木箱の、半分が埋まる程度しかなかった。室内の八割ほどの書物が駄目になってしまった計算である。
それだけの本——それだけの数の、世界そのものが失われてしまったことに、カリナはまだ感情がついていかない。築き上げた知識は数十年、あるいは数百年に匹敵する時の重みがあるのに、失われるのは本当に一瞬だった。
この本を収めた木箱は火事の後片付け中にこれ以上傷むことがないよう、商家の倉庫に一時的に保管してもらうよう頼んである。カリナが「これで全部です」と蓋をすると、気の良い主人は「引取はいつでも大丈夫だから」とまた使用人たちと持ち帰っていった。預り賃として、ユークがそれなりの金を渡してくれたようだ。
エリュシオンは半分焼け焦げたものの、奇跡的にまだ形を残している図書室の物書き机に向かって、なにやら一心不乱に紙にペンを滑らせている。
「何を……してるんです?」
カリナが問うと、顔を上げないままエリュシオンは答えた。
「失われてしまった本の、書名をですね。書いておこうかと」
手元を覗き込むと、何枚もの紙にずらずらと箇条書きで記している。
その数は数百あまり。
蔵書の全てを記憶していたのだろう、既に灰になった背表紙からも、エリュシオンの目にはその書名が見えているようだった。
カリナの視線に気づいてエリュシオンは顔を上げ、薄く微笑んだ。
「カリナさん。もしエルダニアでこれらの本を見つけたら送ってもらえませんか。お金はもちろん払います——ユーク王子が」
いたずらっぽく付け加えて、しかしその笑みはすぐに力がなくなる。
「オルニアで、またあれだけ揃えるのは難しいと思いますのでね。残念な話ですが……」
小さく、本当に小さく溜息をついたエリュシオンに、カリナは掛ける言葉が見つからなかった。
「——二人とも、お昼にしようよ」
焼け跡の柵の向こうから、ユークがブンブンと手を振っている。抱えた包みの中には、近くの食堂から買ってきたパンが覗いている。
図書室の跡地からなかなか動けなかったカリナたちに代わって、ユークは火災が鎮火した時から座る間もなく動いていた。
市街警固隊とのやり取りに始まり、被害の確認、現場の後始末、近所への挨拶回り、そしてこうした、必要物資の調達など。
誰かが休むように促しても、ユークは、大丈夫、と微笑むだけだった。が、時折、右手をポケットの中に入れて、しばし考え込むような表情を見せることにカリナは気付いていた。
ポケットから、一度だけ中身を取り出すところも目撃した。
握りしめた指の間から、細い銀の鎖が頼りなくこぼれ落ちていた。
カリナはエリュシオンを促し、三人はまだ建屋としては無事だった玄関まわりに移動した。台所から椅子だけ持ち出し、あるいは敷石に腰を下ろして、青空のもとで輪になって座った。そして薄肉の燻製を挟んだパンを、しばし無言で頬張った。
ユークは言葉少なな二人を交互に見て、一つ目のパンを食べ終わったあとに口を開いた。
「ねえカリナ」
「はい」
「留学の件は安心して。ちゃんと準備するから。——ただ、ちょっと待ってもらっていいかな。すぐにでも行かせてあげたかったけど、まさかこんな事が起こるとは思わなくて」
カリナはブンブンと激しく頷いた。
「も、もちろんです! 私もこんな時に、じゃあ行ってきますとか、言えません……」
ユークは力なく笑う。エリュシオンは無言でパンをまた一口かじった。そんな二人を見て、カリナは続けた。
「それに、行くときは……ローサ様と一緒に行きます」
言葉を噛みしめるように呟く。ユークがじっとカリナを見つめた。
「本気なんだね」
「はい。……やはり、難しいことでしょうか」
「どうだろう。考えてみたこともなかったな。聖女が他国に留学する、つまりオルニアを出ていく、か。今までにそんな聖女はいなかったよね」
ユークが話を向けると、エリュシオンもまた頷いた。
「そうですね。国内であればまだしも。そして聖女は終身制ですので、どこかで聖女の位から降りたという前例もありません。神託が……実は伝承歌であったとしても、その事実は変わらないかと」
カリナはぐうと唇を噛んだ。そして自分の両手をじっと見つめる。神殿に戻る前にローサが握りしめてくれた、その感触と熱を思い出すように。
「でも、ローサ様も……!」
「分かるよ。ローサも行きたがってたよね。——行きたいと言うなら、僕は行かせてあげたい」
ユークもまた、右手をポケットに忍ばせた。
「正直言って僕はあの伝承歌の価値とか、後世に残す方法とか、そういうのはよく分かってないんだけど——ああこういうところが、立場を分かってないって言われちゃうんだろうね。でも、君たち二人はその価値が分かってるんでしょう? ローサをエルダニアに連れて行って、研究するだけの価値が。じゃあ僕はそれを信じる。君たちは信じるに足る人たちだから。そしてなにより、僕はローサの望みなら、何でも叶えてあげたいって思っちゃうんだ」
言葉の最後に、ユークは照れ隠しのようにおどけた口ぶりを見せた。小さく笑い、そしてほんの一瞬だけ、感情の高ぶりを隠すように眉根に皺を寄せ、しかし頭を振って笑顔に戻した。
そんなユークを追及することは、カリナもエリュシオンもしなかった。ユークとローサが昨夜、火事が起こる直前まで二人きりで何を話していたのか。それをユークに問いただそうとは思わなかった。
「……ローサ様、神殿にお戻りになられたけど、今どうされてるんでしょうか」
立ち上がったカリナが、王宮の方角に視線をやった。下町からも小高い丘に建つ王宮の宮殿はかすかに見えるが、ただの風景の一部であり、その内部の空気や気配を探ることはできない。
その時、首を伸ばしたカリナの目に、道の向こうから二頭立ての馬車が走ってくるのが見えた。
下町の細い道には不似合いな大型の馬車が、石畳に車輪と蹄の音を響かせて近づいてくる。近寄るに連れ、王家の紋章がその側面に刻まれていることに気づいた。
馬車はそのままエリュシオン邸の門に横付けすると、中から宮廷服を着た男が降りてきた。玄関先に座り込んでパンを齧っていたユークの姿に一瞬目を丸くしたが、それ以上は顔に出さず、ユークの前で恭しく膝をつく。ユークは咀嚼していたパンを全て飲み込んでから声をかけた。
「兄さん付きの侍従だね。僕に用?」
「はっ、国王陛下のお召しにございます。王弟殿下、至急王宮へお戻りください。このままお連れするようにと申し付けられております」
「急だな。何があったの」
「殿下も、王弟という立場で、事の成り行きを側で見届けるように、と」
その言い回しに、ユークの表情に緊張が走る。
もう一度問う。今度は低く、重々しく。
「何が、あった?」
侍従は顔を伏せたまま答えた。
「今朝方、殿下のご婚約者である聖女ローサ様が、神殿長バフジャールとともに裁きの塔へ収監されました。それにともない、国王陛下は神殿を接収、解体されるご決定を下されました」
侍従と三人の間の空気が凍りつく。
声を引きつらせながら尋ねたのはカリナだ。
「神殿を——解体? えっ、ローサ様は、裁きの塔へって? ローサ様、どうなっちゃうんですか?」
侍従はちらりとカリナを見た後、ユークが同調するように頷くのを見て静かに答えた。
「聖女というご身分から国王陛下が直に裁定をくだされますが、立場上、バフジャールと同罪とみなされておりますので——終身刑、または、死罪もありえるかと」




