21 焼失
一面に飛び散った油は書架の本の背表紙を濡らし、直後、叩きつけられたランタンの火が燃え移った。炎は一気に立ち上り、室内を紅く染め熱気の渦を巻き起こす。
赤々とした炎の前で、一人の男が引きつった笑いを浮かべている。
「このようなもの……あってはならぬ……。聖女の力は儂のもの……!」
「神殿長!?」
台所から走って戻ってきたエリュシオンは、ここに居るはずのない人物に驚愕の声を上げた。
が、それよりも書架の炎のほうが重大事だった。書架の前で立ち尽くすバフジャールを突き飛ばすと、慌てるあまりに素手で炎を押さえ込もうとし、熱気に跳ね除けられた。
カリナはとっさに自分が寝床にしている一角に走り、毛布を二枚抱えてきた。
「こ、これを!」
投げるようにエリュシオンに一枚渡し、カリナ自身もそれを広げて火に叩きつける。エリュシオンもそれに倣う。が、床に飛び散った油にも引火し始め、次第に煙も充満し始めた。
それでもカリナは息を上げ、なかば泣きそうになりながらも渾身の力で毛布を炎に叩きつけ続けた。
——本が燃える。
それは一つの世界が全て灰になってしまうことと同義なのだ。
突き飛ばされたバフジャールが狂気じみた声で哄笑した。
「ハハハ! 燃えろ、全て燃えてしまえ!」
そしてよろよろと起き上がって、室外に走り去っていく。が、カリナもエリュシオンももう構ってはいられなかった。煙に咳き込みながら、必死に毛布で火を消そうとする。
息が苦しい。煙に視界も霞んでくる。熱気に押しつぶされそうだ。が、炎はまだ広がるばかり。書架の本の背表紙に次々と燃え広がっていく。
——ユークは荒々しい足音に、はっとなって辺りを見渡した。その時、玄関の扉が内側から乱暴に開かれる。
飛び出し、突進してくる人影。
「——エリュシオン? ——じゃない!」
ユークはとっさにローサの腕を引き、己の身の影に庇った。
人影はそのままユークの足元の地面に頭から倒れ込み、ざざっと土の上に転がった。禿げ上がった頭に痛々しい擦り傷を作って、赤黒い血がにじみ出ている。
「バフジャール!?」
ユークの背後でローサが叫ぶ。その声に、バフジャールの耳が異様なまでに蠢いた。頭から血を垂らしつつ、のそりと起きあがる。目は血走りぎょろりと剥かれ、口元は歪み、むしろ笑っているようにも見える。
「聖女……逃さんぞ!」
「ローサ!」
しかしローサに掴みかかろうとしたその手はユークに横から蹴り飛ばされた。バフジャールは勢いよく、玄関横の柱に体を打ちつけられ、目を剥いたまま気を失った。
なぜここに神殿長が——という疑問は、次の瞬間、開け放たれた玄関からの黒煙にかき消された。
「火事!?」
「え! なんで——エリュシオン! カリナ! ……ローサ、ここにいて!」
ユークは玄関の中に飛び込んでいく。残されたローサはすぐに辺りを見渡し、庭掃除の箒を見つけると、その柄で外構の柵をガンガンと叩き、声高に叫んだ。
「火事! 火事です! 誰か来て! 火事です! 消火を!」
その絶叫に、近隣の民家の窓から次々と灯りが漏れ始める。道に飛び出てきた男たちが、エリュシオン邸からの煙に顔色を変えた。建屋が密集する下町での出火は彼らにとって他人事ではない。
水を! と誰かが井戸に走り、また誰かは市街警固兵の詰め所に走った。
火事だ火事だという叫びの連鎖が遠くまで響き渡り、近所に住む肉体労働で鍛えた屈強な男たちが、次々に水の桶を抱えて邸内に飛び込んでいく。屋敷の外からも外壁に向かって勢いよく水がかけられ、誰かが窓ガラスを割って、そこからも水桶を次々と中に送り込んだ。
焦げ臭い匂いと、水に濡れた石畳の匂いが周囲に満ちる。
蹄の音が遠くから響いてきた。市街警固の兵たちが知らせを受けて到着したのだ。兵士たちは近くの用水路から取水した水を撒き、延焼を防ぐため鉤爪のついた長い棒で壁の一部を取り壊した。
そんな喧騒は、しかし徐々に収まっていった。立ち込める黒煙が薄れ、崩れた壁の向こうに立ち上っていた炎の影が小さくなり、そして見えなくなる。近隣の家への飛び火は免れたようだ。煤けた邸内から、一人、また一人と、消火に飛び込んだ男たちが外に出てきた。
「なんとか消したぞぉ」
「いや、危ないところだった。全焼はまぬがれたな」
すすだらけの男たちの声は安堵と達成感に満ちている。そして彼らの一番後ろから、やはりすすだらけ、ずぶ濡れの体でユークが姿を見せた。脇に抱えるように連れているのはぐったりとしたカリナだ。服も、髪の先もやや焦げている。
「カリナさん!」
駆け寄るローサに、ユークはそんなカリナを託した。
「大丈夫——いや、火傷とか、ちょっと煙吸ったりとかはしてるかもしれないけど、意識ははっきりしてるよ。このままカリナお願いしていいかな。今エリュシオンを連れてくるよ。二人とも燃えた本棚の前から動こうとしなくてさ……。一人ずつしか無理だった」
力の抜けきったカリナをローサが抱きかかえるのを確認して、再びユークは邸内に走り戻っていく。その背を見送っていたローサだったが、肩に乗ったカリナの頭が小さく震えているのに気付いて、そっとその後頭部を優しく撫でた。
「大丈夫ですよ、カリナさん。もう火は消えたって……」
しかしカリナはうわ言のように呟くばかりだ。
「本が……沢山……燃えました……」
涙混じりの声だったので、ローサはそのまま撫で続けてやった。
ユークはすぐにまた姿を現した。カリナを抱え出てきた時と同じように、ぐったりとしたエリュシオンを担いでいた。さすがに二度も人一人引きずり出すのには苦労したらしく、外に出た途端ユークはエリュシオンごと地面に座り込んだ。
屋敷の住民と見て、市街警固兵の隊長が近寄って来る。が、ユークの顔を見て血相を変えた。慌てたように名乗りを上げたあと、恭しく頭を下げた。
「エリュシオン・ジルドどのの屋敷とは存じておりましたが、王弟殿下がご滞在中の凶事でございましたか。ご無事でなによりでございます」
「ああ、出動ご苦労……。火は消せたと思うけど、念のため鎮火を確認してくれるかな。書物がだいぶ燃えて、燃えなくとも消火の水でずぶ濡れになっているのも多い。これ以上は損なわないように、お願い」
「はっ」
隊長が後ろに向かって顎をしゃくると、数人の兵士が邸内に入っていった。隊長はまたユークに向き直る。
「して、出火の原因はお分かりでしょうか」
その時、ユークの横でうずくまっていたエリュシオンが起き上がった。
据わった目で辺りを見渡し、玄関横の柱の下でバフジャールが気絶しているのを見つけると、ゆらりと立ち上がって近づいていく。まだ水が半分ほど入った水桶が置かれているのを手に取ると、バフジャールに向け、それを乱暴にぶちまけた。
その衝撃で目を覚ましたバフジャールは、魂が抜けたような顔でエリュシオンを見つめている。エリュシオンが投げ捨てた空の桶が高い音をたてた。
「——この水が油であれば良かったのに。火をつけて生きながら焼いてあげたいところですよ。あなたが燃した書物のように」
いつにない低い声と見開いた目に、ユークが慌てて背中に飛びついた。
「エリュシオン、落ち着いて。じゃあこの火事は……」
「この男——バフジャール神殿長が、ランタンを書棚に叩きつけたのですよ。ご丁寧に先に油を撒いてね」
「バフジャール……なんてことを」
ローサが息を呑む。皆がバフジャールを見つめる中、バフジャールは引きつけのようにヒッヒッ……と高い声で笑い始めた。
「……あんなものはいらぬ、知識など、聖女の神託……儂の力を汚すもの……。無くさねばナらヌ、ヒッ……全て燃やシてしマわねバ……」
呂律の回らぬ口で、人語を覚えさせられた鳥のように、発音も怪しくそう言い続ける。口からはよだれが垂れ、目はどこを見ているかも分からない。ユークが隊長に振り返ると、頷いた隊長は兵士たちにバフジャールを捕縛させた。
「連行いたします」
兵たちがバフジャールに縄をかけ、無理矢理に立たせる。その様子を見てローサが進み出た。
「彼はどうなるのです?」
「オルニア国法では、放火は殺人と同等、あるいはそれ以上の重罪。——神殿長というご身分の方であれば、法廷ではなく国王陛下に裁可していただくことになりますが」
ローサは唇をぎゅっと結んだ。
あまりにも重い神殿長の不祥事に、顔は青ざめている。バフジャールを乗せた馬車が道の向こうに去っていくのを見送って、ローサはユークに振り返った。
「私は神殿に戻ります。神殿長がこのようなことになり、神官たちも混乱するでしょう。聖女たる私が治めないと……」
「ローサ、……僕も行く」
ユークがローサの腕を取ったが、ローサはやんわりとその手を外すと、穏やかな微笑みで見返すだけだった。
「あなたはエリュシオンとカリナさんについてあげなさい。火事の後片付けもあるでしょう。大丈夫よ。心配しないで」
そして、ローサは地面に座り込んだままのカリナに近寄ると、その目の前に膝をついた。
「カリナさん、先程の話の続きは、また改めて、ね。話を聞いてくれて、そして異国への留学に誘ってくれて、嬉しかったわ。——遠い遠い、学問の都。夢のような話。でも、閉じていた扉が開いたような気がした……」
ぎゅっと手を握りしめると、涙で濡れたカリナの目に小さな光が宿る。それを見て、ローサはゆっくりと立ち上がった。
ユークは市街警固の兵たちにローサを神殿に送るよう指示をする。
ユークたちに見送られたローサが乗ったその馬車は、まだ火事の余韻にざわめく夜の下町を、静かに駆け出していった。
——レナード王のもとに事態を告げる知らせが届いたのは、その夜が明ける直前の、もっとも闇の深い時分だった。
寝所から出てきたレナードは執務室の椅子に腰掛けた。
夜半に起こった下町での火災と鎮火、そしてその火は放火であり、犯人が神殿長バフジャールであるとの報告を受けると、一言、呆れ混じりに苦い口調で呟いた。
「俺からの警告は、一夜ももたず無に帰したか。にしても、放火とは」
首を横に振りつつ嘆息する。そして即座に、報告に来た重臣に命令を下した。
「バフジャールの身柄はこのまま『裁きの塔』に送るよう。放火は死罪相当。もはや生きて塔からは出せぬな」
はっ、と重臣は承った。
さらにレナードはその重臣に問うた。
「神殿はどうしている」
「はい、この事態は把握しているようで、聖女ローサの主導で神殿には明かりが灯り、神官たちは全員神殿に集められているようです。聖女ローサの名で、神殿長による不祥事の謝罪がもう届いております」
レナードはしばし黙り込んだ。
そのまま、椅子の肘掛けを指でトンと叩く。
重臣が訝しげな表情を浮かべるほどに、その指は長くトン、トン、トン……と鈍い音を響かせた。
そして表情は崩さないまま、レナードははっきりと言い放った。
「兵を差し向けよ」
「は……?」
思わず聞き返した重臣に、レナードは低い声で続ける。
「そのまま神殿を取り囲み、聖女ローサの身柄を確保せよ」
重臣は声を上ずらせる。
「こ、此度のことは神殿長バフジャール一人の凶行と……」
「王たる俺が国政のすべての責任を負わねばならぬよう、聖女は神殿の行い全てに責を負う立場だ」
レナードの声は対照的に重く、冷徹だった。
「聖女ローサも同罪とみなす。——『裁きの塔』へ収監せよ」




