20 バフジャールの狂気
屋敷の前にひっそりと止めた馬車の中で、バフジャールはうろんげに、供に連れてきた神官たちに問いただした。
「まこと、ここに聖女が?」
王宮から貴族の邸宅街を抜け、細い道が複雑に入り組んだ下町の奥に建つそれは、特権と贅沢に慣れたバフジャールから見れば、使用人たちの詰め所よりもみすぼらしい屋敷だった。
バフジャールに従って来た神官のうちの一人が、はいと頷く。
「聖女様は神殿から一度王宮に向かわれ、その後ユーク王子と外に出られたようです。王宮で目撃した女官が申しておりました」
「屋敷の名義上の所有者はエリュシオン・ジルド。ユーク王子のあの乳兄弟とやらですが、最近はユーク王子の私邸のような扱いになっていると。その情報から当たってみましたら、あちらにユーク王子の愛馬が。忍び込んで馬具の紋も確認しました」
別の神官が馬車の窓から、屋敷の中の小さな馬小屋を指さした。
ふうむ、と険しい顔のままバフジャールはそっと馬車を降りた。神官たちも後に続く。
——聖女はここで何をしておるのか。何を、企んでおるのか。
当初はローサを見つけたら、今日の裁判での発言を厳しく叱責するつもりだった。それだけが目的だったのだが、レナード王からあのような警告を受けた——バフジャールには一方的な脅迫としか受け取れなかったが——今、バフジャールの心は猜疑心に満ちあふれていた。
聖女ローサは彼にとってただの駒であったはずだ。
地下神殿で神託を聞き、それを自分に伝える。それだけを従順に行えばいい。
あとは次代の聖女となる女児を出産してもらえば、聖女の血筋と神殿はこの先も長くありつづけることができる。
そのために縁談も整えてやった。
相手は王弟だ。軽薄だろうが、周囲から軽んじられていようが、血筋だけは十分。なにより王家の血を取り込むことも出来る。
聖女の血に王家の血が混ざれば、この先神殿が王家に取って代わることも不可能ではない……。
——己はそこまで神殿の将来について考えてやっているのに、当の聖女はどうしたことだ? なにを勝手に動き回っている?
理解できぬ。
理解できないということがバフジャールを苛つかせる。
バフジャールは供の神官たちに振り返った。
「おぬしら、中から聖女を連れ——」
連れて参れ、と言おうとして、はたとバフジャールは口を閉じた。
これは偽りの報告ではあるまいか。ふと、そのような疑念が頭に浮かんだのである。
目の前の神官たちはバフジャールに長く仕えている者たちであるが、この時のバフジャールには、その顔は別の神官と被さって見えていた。レナード王の執務室で衛兵に連れてこられた、あの裁判で証言をさせた神官の顔が。
これも罠ではないのか。こやつらも——儂を陥れようとしているのでは。
バフジャールの顔が醜く歪み始める。猜疑心の塊となり、不安げに次の指示を待つ神官たちを、憎悪の目で睨みつける。
「神殿長様……?」
「——もう騙されんぞ!」
バフジャールは手を振り回した。神官たちをいつも打ち据えている錫杖は神殿に置いてきてしまっていたが、それも気付いていないかのようにぶんぶんと、短い腕で神官たちに殴りかかった。
「去ね! どこかへ行ってしまえ!」
神官たちは突然の神殿長の豹変に戸惑うばかりだが、去れ、という命令であれば従うしかない。馬車もそのまま置き去りにして夜の道の向こうに走り去っていった。
その姿が見えなくなって、バフジャールは一人、荒い呼吸を繰り返しながら立ち尽くしていた。
さて、神官たちは去らせたものの、聖女ローサはいかがすべきか。どの情報が正しく、誰が自分を陥れようとしているのか、もうバフジャールは冷静に判断する力を失っていた。
ごくりと息を飲んだ後、一人、屋敷の中を覗き始める。玄関の扉は重く、中から施錠しているようでびくともしない。狭苦しい庭の中へ分け入り、窓を一つ一つ確かめていく。ほとんどの窓から見る室内は真っ暗だったが、庭の奥に唯一灯りが漏れていた小さい窓を見つけて、つま先立ちで中を覗き見ると、ちらりと、一瞬だけ金の髪をたなびかせた女の姿が目に映った。
——聖女ローサ! 見つけたぞ!
息を荒くし、今度は開いている、侵入可能な場所を探し始める。ほどなく、換気のためだろう、わずかに開け放したままの窓を見つけ、バフジャールは一も二もなくそこに潜り込んだ。
そこは台所のようだった。灯りはついておらず、人の気配はなかった。先程見たあの部屋は何処だ、と、暗闇の中で目を凝らすと、階段の裏手にある扉から光が漏れている。バフジャールは忍び寄った。
扉に耳をつけると、話し声が聞こえてきた。そっと押して隙間を広げる。隙間からは大きな書棚がいくつも目に入った。天井まであるものから腰高のものと様々だ。そこにぎっしりと書物が並べられているが、人影は見えない。
——もっと奥か。
さらにそっと扉を開いて、バフジャールはするりと中に滑り込んだ。
大きな部屋だったが、いくつもの書棚が間仕切り代わりになって部屋を分断していた。姿は見えないが、声は奥の書棚の向こうから聞こえてくる。バフジャールは書棚の影に隠れながら、耳を澄ませた。
声の主は、一人はローサだ。そして法廷でべらべら喋っていたあの男、エリュシオン・ジルド。女の声は、法廷ではほとんど半泣きで上ずった声しか出せなかった、あのカリナ・トマシュのものだろう。ユークの声はたまにしか聞こえない。
話の内容に意識を集中する。主に話しているのはローサだが、エリュシオンとカリナが時折興奮気味に大声を上げていた。もっと正確に聞き取ろうと、バフジャールは足音を忍ばせて、本棚の影から影へ、彼らに近づいていく。
その時、ローサの声が耳に飛び込んできた。
「——バフジャールもその血を辿れば初代の聖女に行き着きますが——」
自分の名だったから意識が拾い上げたのだろう。とたんに耳が澄み、はっきりとした声で聞こえ始める。
「……それでもこれらの歌は全く聞き取れないでしょう」
——歌? なんだ、歌とは。
バフジャールは首をひねる。が、続くカリナの言葉に目を丸くした。
「聖女のみが聞き、歌うことができる……!」
——何の話だ? 聖女のみが……? そんなもの、儂は知らぬ……!
バフジャールはわなないた。己は神殿の全ての神官を束ねる神殿長であり、その力で聖女ローサを正しく導く者との自認があった。まだ年若い、小娘とも言える聖女など、自分がいなければその力を発揮できず、存在価値などないと信じ込んでいたのだ。
——その儂が、聖女について知らぬことがあるだと……!
書棚の向こう側では、興奮気味なカリナとエリュシオンと、穏やかに語り続けるローサを中心に、四人の話は続いている。
聖女の歌。
女性にしか聞き取れない音。
聖女にしか発声できない詞。
たとえ聖女の血を引こうとも、男であるバフジャールにはけして踏み込めぬ領域——。
バフジャールは書棚の影にかがみ込み、ずるりと力が抜けた体を書棚に押し付けた。
それは失望というよりも、己の今までの絶対的な認識を否定されたことによる、底のない脱力感だった。
呆然としつつも聞き耳をたてていたバフジャールの耳を、ローサの言葉がまた騒がせた。
「神託——これは神の声などではなく、聖女が代々歌い継いできた伝承歌なのです。でも、百年の歴史の中で、神殿は特権階級であることに味を占めてしまった。それがバフジャールのような狂人を生んでしまったのではないかと……」
——なん、だと……。儂が狂人……? ほざくな、この小娘が……!
怒りに震え、頭に血が上った。
さらに続くローサの発言に、バフジャールは耳を疑う。
「カリナさん。どうかしら。この聖女のみにしか歌い継げなかった伝承歌を、ミルデアでのあなたのように、誰もが必要な時に読み解け役立てる形にしてもらうことはできるかしら」
——何を言うか!
聖女の伝承歌とやらを——聖女が、いや神殿がこのオルニアのために保護し伝えてきた聖女の神託を、あのような卑しい娘に渡し、あまつさえ誰もが読み解くことを可能にする——など!
興奮に、噛み締めた奥歯がすり減るほどの歯ぎしりをした。
立ち上がり、怒鳴りつけようとしたが、極度の興奮でめまいを覚えて床に手をつく。
バフジャールに、さらにカリナの言葉が追い打ちをかけた。
「ローサ様、その喉と耳を持って、エルダニアに行きましょう! 私と一緒に、帝都大学へ留学しましょう!」
——なにを……! ふざけるな!
口を歪めすぎたためによだれが床に垂れる。血走って真っ赤な目をぎりと書棚の向こうにいるローサに向ける。
——エルダニアに、だと? 誰が行かせるものか! ローサ、小娘よ! お前はもう神殿の奥深くに幽閉し、一歩たりとも外には出さぬ。聖女の伝承歌……いや神託は、未来永劫、儂のみが手にするべきものよ!
思わず立ち上がって飛び出そうとした、その時。
がたっと、四人の中から音が聞こえた。反射的にバフジャールは床に伏せ、身を隠した。書棚の影からユークがローサを伴って現れる。二人は書棚の影にうずくまるバフジャールには気づかず、扉の外へ静かに出ていった。
しばらく、沈黙が室内を支配した。
出ていったのはユークとローサの二人。カリナとエリュシオンはまだ書棚の向こうにいるようだが、話は中断したままだ。
カリナたちが何も話さぬのならば聞き耳を立てる意味もない。しかし悪戯に部屋を出ていけばユークたちと鉢合わせするかもしれぬ。バフジャールが次の行動に迷っていると、書棚の向こうから再びカリナの声が聞こえてきた。
「……やってしまいました。どうしましょう……」
しょげた声に、エリュシオンの淡々とした声が応える。
「まあ貴女をもうエルダニアに行かせると決めた時点で、王子もご自身でケリをつけなければと分かっていたでしょう。その時が早く来ただけですよ。——それよりも!」
急にエリュシオンの声の調子が上がった。
「驚きました。聖女の伝承歌……。その中に、どれほどの過去の情報が詰まっているのか!」
「す、すごいですよね……!」
カリナの声も上ずっている。
「ローサ様のあのお体の中に、過去の何百年ものオルニアの……いえもしかすると諸外国も含めた人々の叡智の歴史が眠っているということですよ。一篇の歌の中に、どれだけの人の願いや記憶があるんでしょう。それが、千も、二千も」
ああ、と歌うようにカリナは呟いた。そのまま浮かれた足音もする。
「本と一緒ですね。さっきエリュシオンさんも言っていたじゃないですか」
「ええ、まさに。このような片手で持てる本でも、開くとそこには別世界が広がっています」
カリナは嬉しそうに、くすくすと笑い出した。
「でも逆に言えば、この図書館の本も聖女さまのお歌に匹敵する力があるってことですね」
続くエリュシオンの言葉には興奮と喜色がにじみ出ている。
「オルニアにおける聖女の力は強大ですが、この図書室もそれだけの力、価値を持っているということですか」
「そう、そうですよ……! 本当にそう……」
二人の言葉を聞いて、バフジャールは改めて周囲に視線をめぐらせた。
壁を埋め尽くす本棚にぎっしりとおさめられた書物。見つめているうちにその背表紙がぐにゃりと歪む気がした。それはいつしかバフジャールの周囲をぐるりと取り囲み、彼の視界すら歪めてくる。
——この本が、この本ばかりの部屋が、聖女と同じ力を持っている……だと?
そんなバフジャールと本棚を挟んだ向こう側から、カリナの声が聞こえてくる。
「……ところで、お腹すきません? 夕ご飯食べてないし」
「そうですねえ。今日は王子が買ってきてくれませんでしたから。台所に何かないですかね。見てきましょう」
「あ、私も行きます」
ぱたぱたとした足音が二人分、書棚の影でうずくまるバフジャールに気づくことなく部屋を出ていく。扉が閉まる音を聞いて、バフジャールはゆっくりと立ち上がった。
——聖女の力は、儂ただ一人が持つべきもの……。
口元から声が溢れる。ゆらゆらとした足取りで、バフジャールはさきほどまでカリナたちがいた一角に足を踏み入れた。
そこには灯りとして使っていた手持ちランタンが、灯されたまま床に置かれている。カリナたちはすぐに戻ってくるつもりで、置いていったのだろう。
——聖女の力と同じ価値のあるものなど、あってはならぬ……。
バフジャールはランタンを手に取った。橙色の炎がバフジャールの血走った、狂気の瞳を照らし出す。
ヒッヒッヒ……。バフジャールの口元から、壊れた笑いが溢れだした。
ランタンの下部には燃料の油が入っている。その蓋を取り除いたその時——部屋の入口から誰何の叫びが聞こえた。
「そこにいるのは誰ですか!」
駆け寄るエリュシオンに、バフジャールはにたりと口を歪めて微笑んだ。
そしてランタンの油を書棚にぶちまけると、そのまま火のついたままのランタンを叩きつける。
ゴウッと壁一面に赤い炎が立ち上がった。




