19 宣告
玄関扉を開けて外に出ると、すでに深夜。夜の静寂が下町の住宅街を包み込んでいる。人気はなく、周囲に漏れ出す明かりもほぼ見えない。月の光に清められた涼しい風が、時折頬を撫でるのみだ。
ユークはローサと真正面から向き合った。
動悸と、自分の呼吸の音が耳障りだった。ローサと目を合わせようとして、できない自分に内心苛立った。
「えっと……最初に言っておきたい。これは僕一人が企んだことだ。エリュシオンは昔から何でも僕のいうことを聞いてくれるやつだし、カリナは僕らに弱みを握られていただけ。彼らを責めないで」
ローサはしばらくユークを見つめていた。感情の読めない瞳だった。それでも小さく頷いたように見えて、ユークははっきりと言い切った。
「ローサ。僕は君との婚約を無かったことにしたかったんだ。そのためにカリナに愛人役を引き受けてもらって、彼女に溺れたふりをした。なんでそんなことを、というのは——」
しかし、そこで言葉が止まった。息を呑んだ瞬間に喉が塞がってしまった。
長年恋い焦がれていた女性。憧れから踏み込む勇気もなくただ見つめていただけの自分。しかし王族と聖女という立場だけの婚約が整って、ローサの気持ちを無視したまま愚かにも喜んだ自分。——その情けなさを、どう言い繕えばいいのだろう、と。
押し黙ってしまったユークに、ローサは溜息をつきながらも優しく微笑んだ。
少年に対し母や姉が向けるような、慈愛に満ちた笑みだった。
「私との結婚が嫌だったからでしょう?」
違う——ユークはそう言おうとした。が、乾いた喉から声は出ず、体は硬直して動かない。
ローサは首を軽く横に振った。
「それならそれで構わないわ。愛を交わしあっての婚姻ではない。まだ若いあなたがそう思うのも仕方のないこと」
しかし、その笑みがすんと消える。ローサはふっとユークから目をそらした。
「——でも、こんなみっともないことは、しないで欲しかった」
その横顔には、ユークの何もかもを撥ねつけるような冷たさが見て取れた。
「王弟としての立場をわきまえず、醜聞をただ撒き散らすだけ。カリナさんにもひどいことをしたのよ。あの方の留学への熱情をただ利用して、あげくの果てにあんな裁判沙汰にまで巻き込んでしまって」
ユークは奥歯を噛み締め、そして小さく頷いた。
「そのとおり……だね」
しばしの沈黙の後、ふっと小さくローサが息を吐く。続く声はいっそ軽やかだった。二人の間の緊張の糸をあえて打ち切ろうとするかのように。
「お望み通り、婚約は破棄しましょう。あなたのほうから正式に申し入れができないというのなら、私から国王陛下に申し上げます。それでいいわね? こんな茶番は、もうこれきりにしましょう」
そしてローサは袂から小さな絹の小袋を取り出した。チャラ……と硬質な金属音とともに、そこから親指ほどの石のついたネックレスを取り出す。半透明の青石の内部で、月の光を写し取ったような金色の煌めきが僅かに見える。
蒼星石——十五歳のユークが、幼いながらも求婚のつもりでローサに贈ったネックレスだった。
「これもお返しするわ。カリナさんのところに来ればあなたにも会うことになるので、丁度いいとついでに持ってきていました」
だが、ローサは手のひらの上のネックレスをしばし見つめた。
「……これをあなたから貰った時、嬉しくなかったと言えば嘘になるわ」
その思い出を愛撫するような、柔らかな声。聴くだけでユークの心は震えた。軽やかで、楽しげな、どこか切なげな声で、ローサは呟く。
「母の後を継いで聖女になったばかりの頃ね。皆が私を『聖女』として崇めてくれる。でも、聖女としてではなく、ただのローサとしての、私の誕生日を覚えていてくれたのはあなただけだったから……」
ローサの手から、その下に差し出したユークの手のひらの上に、銀の鎖はシャラ……と小さな音をたてて滑り落ちた。
手の上に落ちたそれを握りしめる。
その感触に、ユークの感情の堰が切れた。
「——ローサ……! 僕は……」
——が、その時。
ユークの耳に誰かの叫び声が聞こえた気がした。
と、
——ガシャン!
遠くで、ガラスが何かに叩きつけられた音が響いた。
ユークは続く荒々しい足音に、はっとなって辺りを見渡す。
騒動は屋敷の中、ユークたちのすぐ後ろの、玄関扉の向こうだ。
ローサもユークの表情の変化に異変を察知した。
その時、玄関の扉が内側から乱暴に開かれる。
「——エリュシオン? ——じゃない!」
突進してくる人影に、ユークはとっさにローサの腕を引き、己の身の影に庇った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
——しばし時は遡る。
「聖女はどこへ行った!?」
神殿の最奥、聖女ローサの私室でバフジャールは足を踏み鳴らしていた。
裁判に敗れた腹いせに神官たちに当たり散らした後、まだ怒りの収まらぬバフジャールは、裁判の最後に、聖女の立場に在りながらカリナに利する発言をしたローサに対し、きつく叱責してやらねばならぬと押しかけてきたのである。
が、ローサの姿はどこにもなく、彼の前に跪く女神官は無機質な声で答えるのみだ。
「存じ上げません」
「知らぬはずがあるか!」
「お一人で黙って外出されることも、たまにはございますので……」
「それでも聖女付きの女神官か! 役立たずめ!」
しかしいくら怒鳴っても、女神官はそれ以上何も言わなかった。
バフジャールは地団駄を踏んだが、さすがに自分の配下ではない、聖女直属の女神官を蹴りつけるわけにもいかない。しばらく女神官を睨みつけたあと、バフジャールはそのまま部屋を後にした。
廊下に出るや否や、控えていた己の部下の神官を呼び寄せる。
「聖女を探させろ」
バフジャールの命令に神官は頷くと、影が消えるようにその場を去っていった。
どすどすと荒い足音で自室に戻る途中、別の神官がバフジャールに駆け寄ってきた。
「なんだ! 聖女が見つかったか!」
「いえ。ただいま王宮から使いが参りました。レナード国王陛下のお召しにございます」
「国王が? はて、何用であろうか。だがあいにくと聖女ローサは不在で……」
「それが、バフジャール神殿長のみ参られるようにと」
その言葉にバフジャールは押し黙った。
——ローサの不在といい、何やら妙な胸騒ぎがする。
が、バフジャールは鷹揚に頷くと、王宮へ向かうための馬車を用意するよう、その神官に命じた。
「お召しと伺い参上いたしました」
バフジャールが国王の執務室に通された時、もう夜も更けた時刻であるにもかかわらずレナードはいまだ執務の最中だった。
室内にいた文官たちを下がらせると、応接用の、卓を挟んだ肘掛け椅子をバフジャールに指し示す。そして自分もその真正面の椅子にどっかりと腰を下ろした。
「……いかなる御用でございましょう」
バフジャールがいつもの尊大な態度を抑えているのは、レナードの雰囲気にいつにない圧を感じたのかもしれない。
レナードは即位からまだ数年しか経っておらず、年齢も二十七とまだ若いこともあり、バフジャールから見れば血気盛んで直情的な、言い換えれば単純な性質の主君であった。
が、今夜の王は非常に落ち着いた振る舞いで、バフジャールを前に発した声も重々しかった。
「神殿長バフジャール。最近のそなたについては様々に報告を受けている」
「はっ……? な、なにを……」
「神殿長として——自省するところはないか」
「こ、これはいかなる仰せにございましょうか。なんのことやら、己にはさっぱり……」
バフジャールは手の甲で額の汗を拭った。ここまで単刀直入に切り出されるとは思っていなかった。
が、反発する気持ちもある。レナードに対し、内心でこの若造めと毒づき、己の配下の神官たちのように錫杖で打ち据える姿を妄想する。
——生意気を言いおって。国王が何だ。聖女の神託がなければ国を治めることはできないくせに……と。
それはあくまで内心で、とバフジャールは思っていたが、うっかりと表情に漏れ出て、唇の端がひくついていることにバフジャール自身は気づいていなかった。
そのさまをじっくりとレナードは見据えて、はっきりと口に出した。
「神殿長と言えど、国法には従ってもらわねばならぬ。法廷という神聖な場を汚すことは許されん」
しかしバフジャールは理解できぬと首を激しく横に振るだけだ。それを見て、レナードは視線を扉の方にやった。いつの間にか立っていた衛兵が室外から一人の男を連れてきた。
男は神官の白いトーガを身に着けていて、おどおどと怯えた様子で室内に連れ込まれると、バフジャールと目を合わせてヒッと小さく悲鳴を上げた。
それは今日の裁判で、ミルデアに届けた神託はカリナに手渡したと証言した神官だった。
思わずバフジャールは怒鳴りつけた。
「き、貴様! わ、わしを裏切ったか!」
が、神官が何かを言う前に、すぐに衛兵が室外に連れ去った。その様子を静かに見ていたレナードは、激昂したバフジャールに静かに問いかけた。
「あの神官がどうかしたのか」
「はっ……?」
「あの者は特に何の用もなく、単に連れてきただけだ。それで? お前は何を『裏切られた』と?」
——嵌められた、と、バフジャールはわなないた。
レナードは淡々と、しかし重く言い放った。
「今後、お前が神殿長として国益を損なう行為をした場合、即刻その地位を取り上げることもやぶさかではない」
「な! なんと……!」
「警告はしたぞ。以後、自重しろ」
バフジャールは立ち上がった。
「これはいかがなことか! 国王陛下とはいえあまりのおっしゃりよう! このバフジャール、神殿の代表として今まで身命を賭してオルニア宮廷にお仕えしてまいりました。我らが聖女の神託がなければ、この国は、陛下の治世は、どうなっていたとお思いか……!」
「先のミルデアに神託は届かなかった。だが、結果として山崩れから民は逃れられた」
「そのようなたった一度のことで……! これまでどれだけ、聖女の神託がお役に立ったと……」
唾を飛ばしながらバフジャールは喚き立てるが、レナードの表情は揺らぐ気配がない。
「確かに、聖女の神託は俺にとってもありがたい存在だった。が、そもそも『聖女』の国政への貢献に対し、『神殿』はどうなのだ?」
バフジャールはゾクリと悪寒を覚えた。
自分の足元が急におぼつかなくなり、目の前の景色が急にガラガラと崩れだしたように見える。はっと我に返ればそれらは全て幻だったが、バフジャールはふらついて、椅子に崩れ落ちた。
レナードは話は終わりだと手を軽く振り退出を促すが、バフジャールは立ち上がらない。もう一度手を上げると、再び現れた衛兵が礼儀正しくバフジャールの腕を取り、立ち上がらせた。
バフジャールはそれ以上抗わなかった。黙ったまま衛兵に連れられ、静かに執務室を出ていった。
信じられぬものを見た、聞かされた、という風に顔は青ざめ、唇は歪んでいる。廊下に出された後も一人その場で立ち尽くしていると、廊下の先から先ほどとは別の神官が小走りに駆け寄ってきた。
「神殿長様」
「なんじゃ……」
「ローサ様の居所が分かりました。市街の屋敷に、王弟ユーク様に伴われて向かわれたようです」
バフジャールの血走った目が、ぎょろりと剥かれた。




