18 継承の秘密
ローサはまた、すうと細く息を吸い、澄んだ声で旋律を奏でる。
——リ……ルルリ……リ……。
美しい音色だが、やはり所々は聞き取りづらい。記憶の中にとどめておこうと、カリナも口をすぼめて発音しようとするが、どう口を動かし、どう息を吐いても、同じ発声ができなかった。
が、カリナはエリュシオンとユークの二人がそんなカリナを見つめていることに気づいた。ローサの真似をしていることを急に恥ずかしく思ったが、二人の表情からは別の戸惑いが見え隠れする。
「あの、どうしたんですか。お二人とも?」
カリナに問われ、逆にユークはローサに、エリュシオンはカリナに尋ねた。
「今、ローサ、歌った? 何も聞こえなかった……」
「私もです。カリナさんには聞こえているのですか? ——先程のミルデアの神託の時も、我々には歌らしい歌は聞こえていませんでしたが」
理解できぬカリナはエリュシオンたち、そしてローサの顔に何度も視線を往復させた。
「え、聞こえました……けど。——リ……レル……、……あ、駄目、この次はうまく声がでない」
無理に喉を震わせようとするカリナを、ローサが優しく制止した。
「ええ、カリナさん。あなたには最初の部分が確かに聞こえていたと思います。男性二人がまったく聞き取れないのも、そうなの。この聖女の伝承歌は、聖女の血筋の女性にしか完全には聞き取れず、また発声できないみたい。今のカリナさんのように、女性ならば血筋でない方にも聞き取れる部分があるようなのだけど、男性は全く、血筋の者であっても駄目。バフジャールもその血を辿れば初代の聖女に行き着きますが、それでもこれらの歌は全く聞き取れないでしょう」
ローサは試しに、また別の歌を歌ってみせた。カリナだけが反応できた部分があり、エリュシオンたちはまた首を横に振るだけだ。もう一篇歌ってみても同じことだ。
ローサが皆の耳を試す度に、カリナとエリュシオンは頬を紅潮させ、興奮に打ち震えた。
「聖女のみが聞き、歌うことができる……!」
「こ、これはなんと興味深い……!」
「それも男女によって違うなんて! 声の違いは分かるんです。高低の差は男女で普通にありますから」
「聴く能力の差ですか! これはあとで文献を探してみましょう。しかし同じ女性であっても聖女の血筋の方のみ聞き取れる、というのは、——遺伝的なものか? 髪や瞳の色のように親から子へ受け継がれる人体の特徴の一つ……?」
さらに我を忘れたエリュシオンは、ずいと踏み込んでローサが座る長椅子の反対側に寄ろうとする。
「ローサ様、少々お耳を拝見させてもらえませんか?」
片眼鏡の奥を怪しく光らせ、戸惑うローサにさらに畳み掛ける。
「お口も開いていただけますか。ちょっともう一度歌ってください。喉にも触らせていただきますよ……」
が、ローサに顔を近づけ首元に手を伸ばした瞬間、エリュシオンは後方から乱暴にその肩を引き戻された。
「何するんですか、王子?」
のけぞらされた格好のエリュシオンを、その肩に指を食い込ませたユークが渋い表情で睨みつけている。
「……駄目でしょ。触らせない」
ローサから目をそらしたままそう唸るユークは、しかし横からカリナにエリュシオンごと押し退けられた。
「じゃ、私が! ローサ様、喉を、か、確認させてください!」
そうカリナも詰め寄ると、ローサは苦笑しつつ了解した。
カリナはおずおずとローサの白い喉に触れる。反対の手で自分の喉に同じように触れ、先程の伝承歌をもう一度歌ってもらう。
「カリナさんも一緒に。分かるところだけでも」
ローサが歌い始めると、指先に僅かな震えが伝わって来た。言われたようにカリナも同じように歌ってみるが、ローサの喉と自分の喉の動きが重ならない。もう一段階、ローサの喉の奥には違うひだがあるようにも感じられる。
「違う……私の喉とは。……これが聖女様……伝承歌を歌う喉……」
一篇を歌い終えたローサからカリナが手を引くと、ふうとローサは一息ついた。
「分かっていただけたかしら。神託——これは神の声などではなく、聖女が代々歌い継いできた伝承歌なのです。でも、百年の歴史の中で、神殿は特権階級であることに味を占めてしまった。それがバフジャールのような狂人を生んでしまったのではないかと……」
そして隣に座るカリナに、視線をまっすぐに向けた。
「カリナさん。どうかしら。この聖女のみにしか歌い継げなかった伝承歌を、ミルデアでのあなたのように、誰もが必要な時に読み解け、役立てる形にしてもらうことはできるかしら」
ローサのきらめく瞳の奥に真摯な熱を見やって、カリナはぐっと唇を結んだ。握りこぶしを額に押し当ててうつむき、噛みしめるように、己自身に問いかける形で確かめていく。
「——記録をするには、まず『文字』にしなくてはなりません。伝承歌の詞はオルニアの言葉ではない……」
「ええ、そう。何処の、何時の言葉なのか。それすらも分からない」
「オルニア語に翻訳するのも、訳語は聖女であるローサ様以外分からない……」
「それも聖女のみにしか伝わっていないわ」
「千篇、二千篇以上という膨大な量……」
「もしかしたら、もっと。……やはり、無理かしら」
が、弱気なローサの言葉に、カリナはがばっと頭を上げた。
「でも、この歌はとてつもなく貴重な歴史資料です……! その詞が国を追われた王を助け、民を飢餓や嵐から守り、国政を補い、外敵を退ける武器ともなった! 駄目です。これは絶対に失われてはならない……! なにより、私がこれ、全部知りたいです! 聖女の……伝承歌!」
目を見開き、カリナはローサににじり寄る。
「ただ、時間がかかります。もしかすると何年も、いえそれ以上かかるかもしれません。より良い方法もこれからもっと模索する必要があります。——それはやはり、あそこで研究するしかないと思います。すべての学問が集まるエルダニア帝都大学……!」
カリナは勢い、ローサの手を両手でがしりと握りしめた。離すものかと強く、指の跡が肌に残るほどに。
「ローサ様、その喉と耳を持って、エルダニアに行きましょう! 私と一緒に、帝都大学へ留学しましょう!」
「え? ——留……学?」
ローサは目を丸くし、戸惑いながら聞き返した。カリナはブンブンと何度も大きく頷く。
「はい! エルダニア帝都大学では世界中から学者が集まり、古今東西森羅万象にいたるすべての事柄について研究が行われています。きっと伝承歌の言葉、適切な翻訳、聖女の聴覚と発声に関しても、そしてそれを形にして書物にまとめる術も分かるはずです!!」
「ちょ、ちょっと待って……」
気圧されたローサは、理解できないという風に小さく首を横に振った。
「どういうことかしら。あなた、エルダニアに行かれるの?」
「はい! 準備ができ次第、明日にでも発とうかと思っていました!」
「——あなた、ユークと結婚するのではなかったの?」
「——結婚?」
勢いを急に堰き止められ、カリナはぽかんと口を開けた。
ローサはカリナ、そしてユークに順に視線をやった。
「ユークはあなたを『運命の恋人』だと。あなたと結婚するために私との婚約を破棄したのだ、と思っていたのだけど。……これは一体、どういうことかしら?」
カリナの背が一瞬で汗に濡れた。先程まであれだけ流暢に回っていた口が言葉に詰まる。
婚約破棄のための偽愛人騒動は、この三人の中ではもう終わったことになっていた気がしていたが——。カリナの目が泳ぐ。ちらりと見たユークも腕を組んで視線を伏せ、顔は青ざめていた。エリュシオンはそんなユークに軽くため息をついている。
しどろもどろになりながら、カリナは必死に言葉を探す。
「えっと、その……あのですね。それには深い事情が……」
その様子をじっと見ていたローサは、ふっと微笑んだ。挑発的な、いたずらっぽい笑みだった。そして自分の首に両手を当てる。
「正直に言わなければ、もう喉を触らせてあげないわよ」
「ええ!?」
「歌ってもあげない」
反射的にカリナは叫んだ。
「——ぜ、全部お芝居だったんです! 愛人役をしたら留学の紹介状をいただけるって約束で!」
ローサの微笑みの前ではっとカリナは我に返った。とっさにユークに視線をやると頭を抱えている。隣のエリュシオンはやれやれと肩をすくめて、カリナに向き直った。
「とんだ人質をとられてしまいましたね。でもあなたは正しい。こんなことで貴重な研究資料を失うわけには行きません」
「あら」
ローサがエリュシオンに、呆れた顔を向けた。
「エリュシオンももちろん共犯ね。あなた達は子供の頃から何をするにも一緒だったもの。——では、全部話してもらおうかしら」
ローサの穏やかな、しかし圧のある言葉に、エリュシオンは観念したように肩をすくめた。だがその肩に、背後にいたユークが手を乗せた。目は伏せがちだったが、エリュシオンとカリナに目配せをする。そしてしっかりとローサに向き直った。
「——僕が話すよ。ローサ、ちゃんと説明する」
ユークは一度唇を噛むと、ローサに手を差し伸べた。
「外に。……二人きりで」
「……分かったわ」
差し出された手に、ローサは白い指を乗せるとそのまま優雅に立ち上がった。カリナやエリュシオンに見せた笑みはもう消えている。
二人はそのまま図書室から静かに出ていった。




