17 聖女の伝承歌
図書室に通すと、ローサは一歩入ったところで立ち止まり、室内を見渡した。
壁いっぱいに天井まで届く書棚、並べられた書物の圧にやや腰が引けたようだったが、長椅子に座るよう促されると優雅に腰を下ろした。
そして、カリナさん、と鈴音のような声で呼んだ。
「あなたもお座りになって」
正面を手で指し示される。ユークがエリュシオンの机から椅子を引きずってきて、そこにカリナを座らせた。
エリュシオンは興味津々という顔で、立ったまま二人の様子を見つめている。ユークもその傍らにいるが、ローサの姿を直視できないようで、視線をあらぬ方向に彷徨わせていた。
沈黙が針のようにカリナの肌を刺している気がした。ローサの訪問の意味も、名指しで呼ばれた意味も分からず、背中が汗に濡れる。ローサはまだ室内の様子を見つつ、カリナの表情を観察しているように思えた。耐えられず、カリナは自分から切り出した。
「あ……あの、裁判では、ありがとうございました」
ローサが神託と、ミルデアでのカリナの主張の違いを証言してくれたことで、無罪が決まったようなものだった。
ローサは表情を崩さず、凛とした声で答えた。
「私は事実を述べたまでのこと。でも、そのことで、お伺いしたいことがあって参りましたの」
「な、なんでしょうか……」
「私が得た神託とは違うやりかたであなたはミルデアの山崩れを予知した。——あの裁判で、あなたはしきりに『記録』と仰っていましたけど、その記録とは、どのようなものかしら?」
ローサの真摯な瞳に見つめられ、カリナは思わずエリュシオンに視線をやる。エリュシオンが「ご覧になりますか」と割り込んで、ミルデアの領館の書庫で見つけた論文の写しを取り出した。
手渡された紙の束を受け取ったローサはパラパラと頁をめくっていく。
「これは外国の言葉ね」
「はい、エルダニア語です。二十五年前の大雨について詳細に記されています」
「エルダニア語で書かれた、オルニアのミルデア領の過去の大雨の様子。それを二十五年後にあなた達が読み解いた、と……」
ローサはそう呟きつつ、なにやら考え込むように俯いた。幾度かその小さな顎が頷き、その度にカリナは動悸を感じた。ローサの目的が分からず落ち着かない。
が、やがてローサは顔を上げ、ぐっとカリナに向けて身を乗り出した。
「同じ事を、私もしたいと思っています。ご協力いただけないかしら」
突然の言葉にカリナは瞬きを繰り返した。
ユークは目を見張り、エリュシオンはずいと割り込んでくる。
「ほう、それはそれは。どういうことでしょう。ローサ様」
エリュシオンの片眼鏡がきらりと光るのを横目で見たローサは、鈴の音の声ではっきりと言い放った。
「神託を、このような形で記録に残したいのです。今のように、神殿が私利私欲のために神託を独占し、国民に正しく知らしめない——そのようなことが起こらないように」
ジジッ……とランプの中で炎が揺らめいた。
薄橙の明かりにローサの金の髪、透けるような白い頬が照らされている。
カリナとエリュシオンがごくりと唾を飲み込む中、ローサはゆっくりと話し始めた。
「もうお気づきでしょうけど、今回のミルデアへの神託は、神殿長バフジャールが途中で握りつぶしました」
ローサの長い睫毛が小さく揺れた。
「そのためにミルデアの民に危険が迫ったのです。……本当に恥ずべきこと。バフジャールは何を勘違いしているのか。神託はこの国の安寧と繁栄のための恵み。神殿長が誰に授け、誰には拒むか、選り好みする権利などありません」
この場にいる皆がそれぞれ頷いた。それを見て、ローサは続けた。
「でも神殿を介さずとも誰もが神託を受けられるようにすれば——今回のあなたたちが、この記録から山崩れの可能性にたどり着いたように。そうすればバフジャールのような者の専横に、民が被害を受けるようなこともなくなるでしょう」
その言葉に、カリナの胸が熱に満ちてきた。ローサの瞳の光に率いられ、己の使命感が奮い立つ。
エリュシオンも同様に頬が紅潮し始めている。
カリナはローサに向かいずいと身を乗り出した。
「ご……ご立派なお考えだと思います!」
「ありがとう。協力、してもらえるかしら」
「もちろんです! で、では……お聞かせ願えますか。まず、神託とは——聖女の神託とは、いかなるものなのか」
神殿の奥深くにて、王と民のため祈りを捧げた聖女に下される神の言葉。
オルニアの民が聖女の神託と聞いて知るのはその程度だ。ローサの願いによってそれを「記録」するというのであれば、その全てをカリナは知らなければならない。
ローサもまたカリナの言葉を理解し、静かに頷いた。
「ええ。でもその前に。——今から話すことは、百年に及ぶ聖女の歴史でも聖女以外は誰も知らぬことです。神殿長も、神殿に仕える神官、女神官、そして主君たる国王その人も。全ての伝承は聖女から次代の聖女へ口伝によって伝えられてきました。記録として残るまでは、あなたがたも固く口を閉ざしていただきます」
この国の王すら知らぬ——。興奮で息が荒くなりそうになるのを、カリナはようよう抑え込んだ。
「はい、誓って口外いたしません」
カリナに続き、エリュシオンも、そしてユークも秘することを約束した。
「では話しましょう。——まず最初に、私は神より神託を受けとったことは一度もありません」
ローサのその静かな言明に、カリナは首を傾げた。
「神託は……聖女に下される神の言葉、と思っておりましたが、そうではない、と?」
訝しげなカリナの表情に、ローサは頷く。
「王や民の誰からか神意を問われると、聖女たる私は神殿の地下に入ります。実は、そこでしか神意を聞けないわけではありません。そこは地上の音は届かず、また壁や天井の作り、また地下の空気の性質で、非常にささやかな音も反響するようになっている、というだけの場所。他の雑音の一切ないその地下で、私は歌い始めます」
歌、と、思わずカリナは繰り返した。
「歌……、どのような?」
「旋律は少し変わっていて、詞はオルニアの言葉ではありません。この国の昔から伝わるどんな歌や曲とも異なる、そして、とてもとても、長い歌」
ローサの吐息が、軽やかな余韻を辺りに残す。
「この歌こそが、代々の聖女から聖女へ口伝でしか伝わらない——『聖女の伝承歌』。聖女はこの歌を歌いながら、問われた神意に対する詞を、その中から探します」
真摯な顔でローサの話に聞き入るエリュシオンに、ローサは視線を向けた。
「エリュシオン。あなた、法廷で今回の神託を知りたがっていましたね。聞かせてあげます。これが、今回のミルデアの大雨について届けるはずだった神託です」
「……なんと……!」
エリュシオンは息を飲んだ。カリナも身を乗り出して椅子をガタつかせた。
そんな二人に向けて小さく微笑むと、ローサは薔薇色の唇を震わせた。長く息を吸い、静かに吐く。
——リラ……ララ……ル……。
カリナの耳に、不思議な旋律が鈴の音を伴って響き、すぐに消えた。
ローサの口が閉じてしまったのを、エリュシオンと、その後ろに立つユークが不思議そうな顔で凝視している。
カリナがローサに尋ねた。
「聞いたことのない言葉ですね……。オルニア語ではない。私が知っている近隣諸国の言葉とも違う気が……」
その問いにすぐに反応したのはエリュシオンだった。目を丸くしてカリナを見、そして何かを問いかけるように口を開くが、ローサが話を続けたことで口を噤んだ。
「そうね。この言葉の起源は私にも分からないわ。今の歌をオルニア語に訳すと、『天に飛蛇の群れ見ゆる。青き飛蛇、地潤し、種を運び、白き飛蛇、水零し、山を崩す』。私がそう訳したその言葉を、神官が書き留めて、バフジャールに渡しました。——そのまま彼の手の中で握りつぶされましたけど」
ふふっと、ローサは小さく肩をすくめながら笑った。
カリナもエリュシオンも身を硬直させ、ローサを凝視したままだ。そんな中で、ユークがおずおずと問いかけた。
「……ちょっとごめん、分からない。歌の中から探したって……、つまり、すでにずっと前から存在していた歌に、今回のミルデアの大雨が予知されてたってこと?」
その問いに触発されたように、エリュシオンはハッとなって、次にぶるぶると頭を横に振った。
「違う……、この歌は、この論文と同じですよ!」
カリナも続く。
「過去の……記録! 過去に幾度も起こったミルデアの大雨の、その時々の様子を歌っているんですね!」
腕を組んだエリュシオンが、じっとしてなどいられぬとばかりにその場でウロウロと回りだした。
「天に飛蛇の群れ……。それが青いものであれば地を潤す……つまり危険はない、恵みの雨。白いものであれば、水零し……山崩れを引き起こす……。青と白、これは……?」
カリナは逆に椅子に座ったまま身を伏せて、ローサの神託を何度も頭の中で反芻した。
手で顔を覆い、ミルデアで見上げた雨雲を思い出す。
暴風にさらされ、叩きつけるような雨に打たれながら、ミルデア領館で見上げた山頂の黒い雲。吹き付けている風にも震えることなく、その狭間に時折稲妻を光らせていた——。
カリナは飛び上がって叫んだ。
「稲光!」
ローサとユークがカリナのそんな動きにやや腰が引けたのにも気づかず、カリナは目を爛々と輝かせた。
「ミルデアの空は真っ黒な分厚い雲に覆われ、時折雲の間を稲妻が走っていました。その光が、白き飛蛇!?」
「すると青は……安全な雨ということで、雲も薄い……そうか! 雲が切れて、その上の青空が見えている様子だ。ミルデア山脈は風吹きすさぶ乾きの地。そのような薄雲は、雨雲であってもすぐに風に流されてしまうから……!」
エリュシオンも声を震わせ、思わずカリナに駆け寄ってその両手を両手で握りしめた。
二人の興奮ぶりに気圧され気味だったユークは、しかしまだ怪訝そうに首を傾げる。
「でもさ、だいぶわかりにくい言葉だよね。飛蛇が稲光や青空のことって……ミルデアの領主は言われて分かるのかな。ああこれは山崩れを起こす白い飛蛇だって」
エリュシオンがすっと片眼鏡に手をやって、冷静にユークに振り返った。
「そればかりは相手次第ということでしょうか。しかし現地でその神託を受け取って、実際に空を見上げればピンとくるものかもしれません。カリナさんも私も、実際にミルデアのあの雲を見ているから、今こうして理解できているのかも」
頷き合うカリナとエリュシオンに、ローサが微笑みつつ吐息を滲ませた。
「本当はもっと意訳できれば良いのだけれど、難しくて……。歌われている事柄が実際の所何を指しているのかも、そのつど探り探りなの。今回はミルデアという地名を聞けていたから探せたのだけど」
カリナは再びローサの正面から迫った。
「過去に起こったこと全てを歌にしている……ということなんですね。ローサ様、この歌は、いくつあるのですか?」
「分からない。数え切れないほど。そうね、最初から最後まで、昼も夜も歌い続けて、七日以上かかると思うわ」
ほう、とエリュシオンが感嘆の溜息を付く。
「千や二千じゃ、ききませんね」
「次代の聖女になるものは幼い頃から、当代の聖女から何年もかけて口伝いで教え込まれるのよ。——残したい、と思ったのは、この伝承の方法も、あまりにも頼りないものだから。私を含め今まで七人の聖女が存在していましたが、次代に伝承歌を伝える前に儚くなった方もいらっしゃいました。私の母が継いだ時がそう。その先代の聖女の急死により、一度この伝承は途絶えかけました。その時はさらに前の世代の、母の叔母に当たる方が万一のために継承してらして、そちらから繋ぐことができたと聞いています」
ローサは唇に人差し指を当てた。
「こんな綱渡りの継承になってしまうのは、もう一つ理由があるの。——別の神託を歌いましょう」




