16 予期せぬ来客
裁判が終わったその夜——。
神殿長バフジャールは、オルニア王宮東端の白亜の神殿にて、取り巻きの神官たちに当たり散らしていた。
暴言だけにとどまらず、手にした錫杖で無抵抗の神官たちを殴り、倒れた者を蹴りつけ、床にうずくまって許しを請うその背に唾を吐きかける。
「許しがたし! あの淫売! あの片眼鏡の男! そして国王レナード! なにゆえ我が訴えが取り下げられる! なにが証拠不十分ゆえ無罪、だ!」
甲高い声でわめき散らし、禿げ上がった額には青筋を浮かべていた。顔は怒りで真っ赤に染まり、暴れる度にトーガの上の金の装飾がジャラジャラと耳障りな音をたてた。
年若い、まだ少年のような神官がバフジャールの足元に這いつくばって怒りをおさめてくれるように懇願するが、バフジャールはぎょろりとむき出しの目で睨みつけて、錫杖をその神官の肩口にぐりぐりと押し当てた。
「——なにゆえ、我が訴えが聞き入れられぬ?」
言ってみろ、と問いかける。しかし若い神官は恐怖で言葉を絞り出すことが出来ず、青い顔で震えるばかりだ。バフジャールは一方的にまくしたてた。
「わしの訴えは不当だったか? 否! あの淫売はユーク王子を誑かし、わが神殿を——聖女の権威を汚した悪女である! それゆえに、神の怒りをわしが代わって下してやろうとしただけだ! 国王などに邪魔されるいわれはない!」
唾を吐き散らかしながら罵倒は続く。
「そうよ、全ては神からの命だ! 神殿をおろそかにすればどうなるか知らしめよと……そう、あの軽薄そのものの王子に……!」
バフジャールの瞳は若い神官を凝視しながら、まるで違うものを映すかのように濁っていった。唸るような言葉は徐々に誰に聞かせるものでもない独白に変わっていく。
「神聖なる聖女の婿として認め、婚約を許してやったというのに、あろうことか不貞を働き婚約破棄を望むなど……! あのミルデアの大雨は王子によって引き起こされた天罰よ! それゆえ、神託を届ける価値など無かった! 王子が神殿をないがしろにした、その己が罪におののき、己のせいで民が山に飲まれるのを見るがいい——それが神意よ! わしはその神意を代行したに過ぎん!」
そしてまた興奮が頂点に達したようで、再びバフジャールは錫杖を振りかざし、神官たちを打ち据えはじめた。
——閉ざされた扉の外から、そんな室内の様子に聞き耳をたてていた一人の姿があった。
装飾一つない白いトーガをまとった女神官だった。彼女は息を殺し、神殿長バフジャールの発する言葉の一言一句を聞き漏らさず記憶すると、足音を忍ばせて神殿内の最奥の区域へと走っていく。
彼女がたどり着いたのは聖女ローサの部屋であった。
「……そう、やはり、ミルデアへの神託は、バフジャールが握りつぶしていたのね。ご苦労でした。このことは誰にも口外せぬよう」
女神官の報告を聞き、ローサは小さくそう呟いた。小さな吐息には諦めが滲んでいた。しばし俯いていたものの、やがてゆっくりと顔を上げる。
「であれば、やはりあの娘は神託を知らずして山崩れを言い当てた、ということ……」
そして立ちあがる。
「聖女様?」
「出かけてきます。誰かが来ても、何処に行ったかあなたは知らないと言いなさい」
女神官が恭しく頭を下げる。ローサはそのまま一人で部屋をそっと出ていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「カリナさん、そちらにいらっしゃいましたか」
書棚の影からランプの光がにじみ、その後からエリュシオンの声が追いかけてきた。
奥の書棚の本を立ったまま読みふけっていたカリナが顔を上げると、側まで近づいてきたエリュシオンが何を読んでいるのかと覗き込んでくる。
「おや、『イヴァン皇帝記』ではありませんか。エルダニア帝都大学を創設したと言われる、かのエルダニア皇帝イヴァン二世の伝記ですね。——カリナさんの心は、もうエルダニアに飛んでいってしまっているようだ」
珍しく冗談めかしたエリュシオンの言葉に、カリナは頬を赤くした。
本を閉じようとすると優しく止められる。
「お気になさらず、どうぞ読み続けてください。ユーク王子が戻られるのは明日になるかもしれませんし」
ユークはカリナのエルダニア留学のための紹介状を得るため、一度この図書室から王宮に戻っていた。
王弟であるユークが一筆書くだけでも有効な紹介状となるだろうが、ユークはカリナのために、より公的に効力がある書面を用意してくれるつもりのようだ。無罪になったとはいえ、一度は罪に問われ法廷に立たされたカリナが、少しでも立場上不利にならぬように、という意味もあるらしい。
己たちのせいでカリナがそのような目に遭わされたことの、責任を感じてのことだろう。
路銀と学費、そして数年分の生活費として、もう金貨を十枚ほど渡されていた。その紹介状が手に入れば、すぐにでもエルダニア行きの馬車に乗ればよいと言われている。
エリュシオンに促されたものの、しかしカリナは手にした本に視線は戻さず、目の前に高々とそびえる書棚と、そこにぎっしり詰め込まれた古今東西の書物の背表紙を見渡した。
「どうしました?」
「いえ……この図書室の本、まだ読めてないものがたくさんで……」
カリナの言葉にエリュシオンは笑い出した。
「貴女は今から学問の都、エルダニアの帝都大学へ留学するのですよ。そこにあるのは世界一の蔵書数を誇る帝都図書館。この部屋の何十倍、何百倍もの書物が貴女を待っているというのに」
「そうですけど、でも、ここにしかない本もあるかもしれないじゃないですか。全部、読みたかったなって」
「実に欲深くていらっしゃる」
エリュシオンの言葉にカリナは口を尖らせたが、やがて自分も笑い出した。そうですね、と頷きながら。
エリュシオンも手近な一冊を手に取り、ぱらりと開く。
「本というものは実に素晴らしい。手にしてみればこのように小さく軽いものですが、開くとそこには広大な別世界が広がっています。文字と数字と絵によって、どこまでも果てない大地の風景を見、鳥にしか許されない天空の風を感じ、遥かなる過去の人間の営みすら知ることができる。エルダニアでは、もっともっと多くの世界が貴女の前に開かれるでしょう。——良かったら、時折、便りでもいただけると嬉しいのですが。貴女が見聞きした学問、踏み込んだ世界の情景の一端でもお零れをいただけるとありがたいです」
「もちろん、書きます」
カリナはしっかりと頷いた。しかしそのままやや視線をそらして考え、エリュシオンに向き直る。
「あの、お伺いしても?」
「なんでしょう」
「エリュシオンさんは、……エルダニアに留学されたいと思ったことはないのですか?」
エリュシオンの目が、やや見開かれた。口がわずかに開いて、しかし言葉は出てこない。
カリナは手にしたままの『イヴァン皇帝記』をもう一度開いた。頁のあちこちに紙片が挟まれている。
「ここ、イヴァン皇帝がなにゆえ大学を開こうと思ったか、ということが書かれた章ですけど、こんな風に書付けがいっぱい挟まってて。エリュシオンさん、熱心に読まれてたんだなって思って」
紙片にはエルダニア語とオルニア語の単語に加え、興奮気味な感嘆詞がその間にいくつも書き込まれている。
それを見せられて、エリュシオンは困ったように微笑んだ。白い頬に薄く赤みがさす。エリュシオンのそんな表情をカリナは初めて見た。
「お恥ずかしい。その本は、まだエルダニア語に不慣れな時に辞書を引きながら読んだもので、その時の覚書といいますか……」
エリュシオンは苦笑しつつカリナから目をそらす。が、じっとエリュシオンの目を見つめたままのカリナから逃げ切れず、口元で声を濁しながら答えた。
「……憧れは、それはもちろんありますよ。世界中の知が集結する先、学問の聖地エルダニア。そこへこれから留学されようとしている貴女が、とてもうらやましい。それは正直な気持ちです。しかし、私にはユーク王子のお側にいるという使命が……」
声はどんどんと小さくなっていく。
「王子の乳母であった母からも——ああ、母は隠居した父と一緒に今は領地の方で暮らしておりますが——ユーク王子をしっかりお世話するように言いつけられておりますし……」
普段の、知識を披露する時の流暢な語りとはまるで違うどもり加減に、カリナも首をかしげずにはいられない。
「お世話って、むしろユーク様にお世話されているのはエリュシオンさんの方では?」
うっかりとカリナはそう呟いてしまった。
この屋敷に来てから、三度の食事の用意をはじめ、夜はきちんと寝ているか、朝はきちんと目を覚ましているか、寒くはないか、髪にクシは入れているか、外出時にきちんと小銭の入った小袋を持っているか——逐一言葉をかけているのはユークの方である。
エリュシオンはついに明後日の方向に視線をやった。
「し、心外ですね」
「あっ、すみません。でも……」
——ガタン。
その時、屋敷の玄関の方から音が聞こえ、エリュシオンは半ばホッとしたかのようにそちらに気をそらした。
「おや! 王子がお戻りのようですよ!」
そしてカリナの前から身を翻し、そそくさと表に出ていった。
カリナも数歩遅れて玄関に赴くと、エリュシオンの言葉通りそこにはユークの姿があった。
「おかえりなさい、王子。……どうしました?」
エリュシオンの言葉に、ユークは玄関の扉に半身を滑り込ませたまま、ああ、とか、うん、とか、あいまいな言葉を返すだけだ。が、エリュシオンとカリナの二人に交互に視線をやった後に、扉を全開にして、後ろにいた人影をそっと中に押しやった。
「……えっと、お客様だよ」
ユークの横から滑り込んだ小柄な人物は、頭から布をかぶって全身を隠していたが、ユークが後ろ手に扉を閉めると、被り物の布をはらりと除けた。すべらかな金髪がこぼれ落ち、光を反射して星の瞬きのようにきらめいた。
「え!」
「……これはこれは。ローサさまではございませんか」
絶句するカリナの横で、さすがにエリュシオンも驚きを隠せないようだった。
ローサの表情には緊張のこわばりがあったが、それでも二人を見つめて礼儀正しく微笑する。ユークが言葉を探しつつ、その後に続いた。
「王宮で、ばったり会って……。それで、カリナ」
ユークとローサ、二人の視線がカリナに向けられた。
「ローサは君に用があるみたいなんだ。——聞きたいことがあるんだって」




