第48話 存在しない階段
深夜、清掃員の前に一秒だけ現れた階段は、朝には消えなくなっていた。
本格的な流出として最初に対応したのは、新宿駅地下の駅員だった。
朝の通勤帯には、まだ少し早い時間。
改札前には、会社員、学生、旅行用のキャリーを引く人、眠そうな顔でコーヒーを持つ人が流れていた。
いつもの新宿地下だった。
広すぎる通路。
多すぎる案内板。
急いでいるのに、誰もまっすぐ歩けない場所。
駅員は、改札横で人の流れを整理していた。
「右側、立ち止まらないでください。乗換の方は案内板をご確認ください」
声は、いつも通りだった。
だが、視界の奥に、いつも通りではないものがあった。
改札の向こう。
昨日まで壁だった場所に、階段があった。
黒い石の階段。
蛍光灯の下にあるのに、そこだけ光が沈んでいる。
駅員は、一度まばたきをした。
階段は消えなかった。
「……あそこ、工事ありました?」
隣の駅員が振り向いた。
「どこですか」
「あの階段」
「階段?」
その駅員が見た時、階段の先に壁が見えた。
駅の白い壁ではない。
黒い石の壁。
そこに、四角い光がいくつも埋まっていた。
配信画面のようだった。
だが映っているのは、広告ではない。
暗い街。
空のない天井。
壁に流れるコメント。
白い探索スーツの背中。
駅員が無線を取った。
その瞬間、地下通路の広告モニターが一斉に乱れた。
新作飲料。
脱毛サロン。
ダンジョン保険。
白河レナ追悼メモリアルブック。
映像が一瞬だけ切り替わる。
白い探索スーツ。
血のにじんだ袖。
黒い壁の前で振り返る誰か。
次の瞬間、広告に戻った。
通行人の一人が立ち止まる。
「今の、レナ様?」
スマホが鳴った。
一台ではない。
改札前にいた何十人ものスマホが、ほぼ同時に震えた。
通知欄に、同じ文字が出る。
白河レナ生存観測配信が開始されました。
誰も、その配信を登録していない。
次の通知。
第零階層外縁からの映像を受信しました。
さらに次。
未帰還者座標が更新されました。
人の流れが止まった。
止まった場所から、すぐに詰まった。
「進んでください!」
駅員が声を上げる。
その声の下で、地下通路の奥から、ざわめきが聞こえた。
コメント欄の音に似ていた。
声ではない。
文字が擦れるような音。
死ね。
神回。
帰って。
伝説。
まだ。
見てる。
帰れない。
駅員は無線に叫んだ。
「新宿地下、東改札付近。未登録構造物を確認。通行規制を――」
その言葉の途中で、駅案内板が切り替わった。
出口案内。
乗換案内。
地下街案内。
その一番下に、一行だけ表示された。
第零階層外縁 直通階段。
*
久我蓮の画面には、赤い警告が積み上がっていた。
新宿地下通路。
監視カメラ七番。
監視カメラ十一番。
駅構内案内板。
民間広告ネットワーク。
個人端末通知。
深層圧、上昇。
久我は、朝になって初めて持続した異常映像を保存した。
元映像。
時刻付き複製。
駅構内図重ね合わせ。
音声分離。
スマホ通知ログ。
案内板誤表示ログ。
反論より先に、保存する。
それから、被害範囲を見た。
首都ダンジョン管理局の地図に、黒い線が伸びている。
第零階層外縁から、新宿地下へ。
猫田ナツが、隣の画面を見て息を止めた。
「思ったより早い」
「はい」
「これ、もう久我さんの配信が始まった扱い?」
「俺の配信は開始していません。始まったのは流出です」
「嫌な切り分け」
瀬戸内ハルカは、別端末で救急ログを見ていた。
「現地の人は」
「今のところ、直接負傷ログはありません」
「今のところ、ね」
「はい」
「数字だけ見ないで。駅にいる人間は、未帰還者の座標補強材じゃない」
「分かっています」
久我は、現地映像を拡大した。
階段の前で立ち止まる会社員。
スマホを掲げる学生。
人の波を押し返す駅員。
泣き出した子どもを抱き上げる母親。
人がいる。
そこにいる。
だから、先にやることは決まっていた。
「ナツさん。死亡固定記録の仕分けは一時停止。都市側の映像を優先してください」
「避難?」
「はい。新宿地下の現地映像、駅構内図、旧地下通路、商業施設の避難口を集約。危険映像は拡散しない。通れる道だけ出す」
「了解。配信救助地図、都市版ね」
「違います」
「違うの?」
「都市避難地図です。生存観測と混ぜないでください」
ナツは一瞬だけ黙って、うなずいた。
「分ける。人が迷子になる」
「はい」
久我は、黒峰ユウマへ通話を飛ばした。
黒峰はすぐに出た。
顔色は悪い。
だが、カメラはすでに回っていた。
「何を出せばいいですか」
「政府発表前に断定しないでください」
「はい」
「久我蓮が正しい、とは言わないでください」
「分かっています」
「現時点で確認できることと、未確定のことを分けてください。視聴者を罵倒ではなく検証へ回してください」
「やります」
黒峰は一度、唇を結んだ。
「僕の視聴者、久我さんを止めろって言い始めています」
「止めるべき行為があれば止めてください」
「久我さん本人は?」
「今は人を逃がします」
黒峰は、短く息を吸った。
「配信します」




