第34話 帰還対象に未確認者が残っています
細い通信路が開いたのは、そのあとだった。
広場の奥で、壁の画面が一斉に白く光った。
壁に埋まっていた画面が、一枚ずつせり出す。
追悼配信の黒枠が傾き、検証動画の赤い矢印が同じ方向を指す。
久我の配信ログの再生バーが、白い線になって隣の画面へ伸びる。
白河レナに関する画面だけが、同じ方向を向いていく。
天井でも、壁でも、床でもない場所に、白い筋が生まれた。
帰還路ではない。
白河レナという名前に開いた、細い穴だった。
映像と映像の継ぎ目がほどけ、その穴へ向かって一本の通路になる。
レナの端末が震えた。
文字は読めない。
白く潰れた表示の中に、自分の名前だけが残っている。
白河レナ。
白河レナ。
白河レナ。
それだけが、座標のように点滅していた。
「久我さんに送れる」
声に出すと、広場が揺れた。
未帰還者たちが、一斉にその光を見る。
若い男が一歩近づいた。
その瞬間、通路が細くなる。
男の胸元に、薄い文字が浮かんだ。
該当配信記録なし。
座標不安定。
帰還対――外。
男は足を止めた。
口元が歪む。
「ほらな」
誰かが言った。
「白河レナだけだ」
レナは通路の奥を見る。
白い光の向こうに、別の場所が見えた。
安全管理室のモニター。
黒いキーボード。
外部ドライブ。
猫田ナツの開きっぱなしの作業画面。
久我の手。
見えてはいけないものが、一瞬だけ見えた。
空気の匂いまでした。
埃っぽい部屋。
冷めたコーヒー。
長時間稼働した端末の熱。
ダンジョンではない場所の、乾いた空気。
レナの喉が鳴った。
帰れる。
たぶん、ではない。
このまま進めば、白河レナ一人なら戻れる。
一歩目。
体が軽くなる。
二歩目。
通信ノイズが薄くなる。
三歩目。
久我の声が、遠くで聞こえた気がした。
『白河さん』
幻聴かもしれない。
でも、足が止まりかけた。
帰りたい。
その感情が、思っていたより強かった。
久我に、自分の声で言いたかった。
生きています、と。
あなたは、私を殺していません、と。
ナツに、保存してくれてありがとうと言いたかった。
羽村家に、サキさんは処理済みではないと伝えたかった。
自分の家にも帰りたかった。
玄関に置いたままの予備ブーツ。
帰ったら洗うつもりだった手袋。
冷蔵庫に残していた、飲みかけのスポーツドリンク。
どれも、くだらない。
でも、そのくだらなさが胸に刺さった。
普通の帰宅は、いつも何かを置きっぱなしにしている。
帰ってから片づければいいと思えるからだ。
ファンにも言いたかった。
追悼しないでください。
AIの声じゃなくて、私の声を聞いてください。
白河レナは生きています。
それだけで、壊せるものがある。
死亡確認。
久我への冤罪。
追悼商売。
天城の言葉。
すべて、今すぐ壊せる。
通路の奥の映像が、一フレームずつ大きくなる。
モニターの白い縁。
キーボードに置かれた久我の指。
ナツの開いた口。
それらが、帰還ゲートの向こう側にある部屋のように近づいてくる。
音は聞こえない。
けれど、ナツの唇だけが読めた。
レナ。
その一言だけで、足が前に出そうになった。
帰りたい。
本当に帰りたい。
レナは、もう一歩進みかけた。
その時、背後で小さな音がした。
サキが、笑ったのだ。
笑いというより、息だった。
「行けば」
レナは振り返った。
サキは、光から少し離れた場所に立っている。
近づこうとはしない。
近づけば、自分が対象外だと突きつけられるからだ。
「外に出られるなら、行けばいい。あなたが帰れば、久我蓮も助かる。白河レナは生きてましたって、全部ひっくり返る」
「でも」
「でも、私たちは残る」
サキは先に言った。
その声には、責める響きがなかった。
責めるより疲れていた。
「それだけ」
若い男が、顔をそむけた。
年配の探索者は、光を見ていなかった。
パン屋になれなかった女は、口元を押さえていた。
みんな、知っている。
自分たちは対象外だと。
レナは、白い通路を見た。
今なら戻れる。
胸の奥で、別の声がした。
帰ったら、ご飯に行きましょう。
深層攻略前、新人探索者に言った言葉。
ボスを倒したら、ではない。
帰ったら。
あの時は、簡単に言えた。
自分が帰す側だったから。
今は違う。
自分が帰れない側にいる。
帰り道がひとつしかない。
その道は、自分だけを通す。
レナは笑いそうになった。
笑えなかった。
「ずるいですね」
サキが聞く。
「何が」
「自分で決めた帰還条件が、自分に返ってくるの、かなり嫌です」
サキは少しだけ目を丸くした。
それから、小さく息を吐いた。
「有名人も大変だ」
「はい。今回は少しだけ」
レナは端末を操作した。
送れる容量は少ない。
映像は数秒。
音声も壊れる。
ログなら、断片だけ。
久我なら読む。
破損していても。
ノイズが混じっていても。
時刻がずれていても。
あの人なら、捨てない。
レナは送信準備をした。
その間にも、白い声がまとわりつく。
帰ってきて。
お願い。
レナ様。
生きて。
ここで終わらないで。
でも、この終わり方が一番美しい。
伝説になった。
帰ってきて。
伝説のままでいて。
レナは目を閉じた。
やさしい声と、勝手な声は、とても似ている。
それが怖かった。
目を開ける。
サキが見ている。
未帰還者たちも見ている。
責めている者もいる。
諦めている者もいる。
期待しないようにしている者もいる。
その中で、若い男が小さく言った。
「行けよ」
声が震えていた。
「戻って、外で言えよ。俺たちがいるって」
レナは首を横に振った。
「言うだけでは足りません」
「じゃあ何すんだよ」
「帰還対象を、私だけで終わらせません」
「どうやって」
「私にもまだ分かりません」
「分からないのに言うな」
「分からないから、久我さんに送ります」
レナは端末を握った。
「でも、私だけ帰るルートは使いません」
広場が静かになった。
レナは、光の通路から一歩下がった。
その瞬間、体が一気に重くなった。
白い声が悲鳴になる。
帰ってきて。
なんで。
お願い。
ここで戻らないの?
今なら帰れるのに。
神回。
いや戻れ。
戻らない方が美しい。
帰って。
残って。
声が矛盾したまま、鎖になる。
レナはその鎖を見た。
優しい声も、勝手な声も、同じ形をしていた。
レナは短剣を抜いた。
斬らない。
鎖を左腕に巻きつける。
重い。
だが、耐えられる。
「帰還対象に未確認者が残っています」
レナは言った。
それは宣言ではなく、確認だった。
「この状態では、帰還完了ではありません」
若い男が、息をのんだ。
サキが、目を伏せた。
レナは、白い通路を背にして立つ。
「全員で帰る。そう決めてます」
レナは送信ボタンを押した。
白い通路が、画面の継ぎ目から砕けた。
追悼配信の黒枠が割れ、コメントの鎖が火花のように散る。
レナの視界が白で埋まった。




