第21話 証拠にも火傷がある
馬場ケンジは、ファミリーレストランの一番奥に座っていた。
四十代前半。
痩せている。
目の下に濃い隈がある。
髪は整えているが、手入れが追いついていない。
テーブルの上には、冷めたコーヒーがあった。
席に着く前から、久我は違和感を覚えた。
馬場は、入口を見すぎている。
客が入るたびに、肩が小さく揺れる。
店員が水を運ぶたびに、視線が横へ逃げる。
窓の外に黒い車が停まると、馬場の手が膝の上で固まった。
久我が席に着くと、馬場はすぐに言った。
「録音、していますか」
「はい」
「していてください。あとで、言った言わないになるのは嫌です」
声が震えていた。
勇敢な告発者の声ではない。
逃げ道を探して、でも逃げ切れない人間の声だった。
ナツは久我の隣に座っている。
今日は軽口を言わなかった。
馬場は名刺を出した。
馬場ケンジ。
帰還系統制御エンジニア。
所属は、小さな開発会社。
メイズリンク社の下請けだった。
「ML-RAS-47Xの一部制御を担当しました」
馬場は言った。
「正確には、帰還座標補正時の外部参照処理です。メイズリンク本体ではなく、うちがモジュールの検証を請けました」
「欠陥を報告しましたか」
久我は聞いた。
馬場の喉が動いた。
「しました」
「いつ」
「白河レナさんの大型配信の、十六日前です」
久我は時刻を記録した。
馬場は古いタブレットを取り出した。
画面には報告書のコピーがあった。
件名。
RAS-47X 特定条件下における帰還座標異常について。
馬場の指が震えている。
「条件は三つです」
馬場は言った。
「深層側の魔力濃度が高いこと。帰還ゲートの予備認証回線が一瞬でも切り替わること。外部モジュールが過去の座標補正履歴を参照すること」
久我は、白河レナ事故と羽村サキ事故のログを思い出した。
予備認証回線。
未登録番号。
外部モジュール。
馬場は続けた。
「その三つが重なると、帰還先が現在の登録番号ではなく、過去に参照した別階層へずれることがあります」
ナツが眉を寄せた。
「人間向けに言うと?」
馬場は困ったようにナツを見た。
ナツは言った。
「いや、責めてないです。私が分からないだけです」
馬場は少し考えた。
「帰り道を案内するナビが、最新の自宅じゃなく、昔一度だけ検索した廃墟を目的地にしてしまう、みたいなことです」
ナツの顔色が変わった。
「最悪のナビじゃん」
「はい」
馬場はうつむいた。
「最悪です」
「つまり」
ナツは、画面を見ながら言った。
「帰る直前に、装置が勝手に古い帰り道を選ぶってこと?」
「そうです」
馬場の声は小さかった。
「本人は、今いる場所から帰るつもりなのに」
久我は聞いた。
「報告はどう処理されましたか」
馬場は、別の画面を開いた。
社内チャットのスクリーンショット。
再現率低。
大型配信イベントに影響。
営業判断で一時保留。
現地運用で監視強化。
報告不要。
最後の四文字だけ、やけに軽く見えた。
報告不要。
「正式な不具合登録には、上げられませんでした」
「誰の判断ですか」
「メイズリンク側の担当と、営業責任者です。あと、オーロラゲート側にも共有は行っていたはずです」
「はず」
久我が繰り返すと、馬場は肩を縮めた。
「すみません。そこから先は私には見えません。私は下請けです。報告を出して、再検証を求めて、でも本番機から外されませんでした」
ナツが静かに聞いた。
「白河レナ事故のあと、なんで言わなかったんですか」
馬場は、すぐに答えなかった。
コーヒーの表面を見ていた。
「怖かったからです」
それは、きれいな言い訳ではなかった。
だから、嘘にも聞こえなかった。
「自分が人を殺したと言われると思った。会社が潰れると思った。家族がいる。住宅ローンもある。親の介護もある。言い訳です。分かっています」
馬場は両手を握った。
「でも、私は殺していないと言いたかった。報告したんです。本当に報告したんです」
ナツは何も言わなかった。
馬場は、さらに小さな声で続けた。
「でも、黙っていました」
久我は馬場を見ていた。
完全な善人ではない。
完全な悪人でもない。
報告した。
握り潰された。
それでも残った。
それでも黙った。
人間だった。
馬場のスマホが震えた。
画面に短い通知が出る。
今日、帰れる?
差出人名は、家族のものだった。
馬場は慌てて画面を伏せた。
久我は、それを見なかったことにした。
見なかったことにして、記録には残した。
時刻。
馬場の反応。
手の震え。
「羽村サキさんのログを見ました」
馬場は言った。
「同じでした。白河レナさんだけじゃなかった。あの欠陥は、前にも出ていた可能性があります」
「実験映像はありますか」
馬場は目を閉じた。
「完全なものは、ありません」
久我は顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「私が持っているのは断片です。社内実験の録画から抜いた一部だけです。完全版はメイズリンクの旧研修用ストレージに保存されていたはずですが、私はもう入れません」
馬場は小さな記録媒体を出した。
「これが、欠陥実験映像の断片です」
久我は受け取らなかった。
すぐには。
「出せば、あなたが攻撃対象になります」
「はい」
「出さなくても、あなたの責任は消えません」
「はい」
「こちらで匿名化しても、完全には守れません」
「はい」
馬場は泣いていなかった。
泣く力も残っていないように見えた。
「それでも、白河レナさんと羽村サキさんの声を見たら、もう黙っている方が怖くなりました」
久我は記録媒体を受け取った。
重さはほとんどない。
だが、手の中に人ひとり分の生活が乗った。
馬場は、もう一度入口を見た。
「さっきから、同じ黒い車がいるんです」
久我は窓の外を見た。
黒い車は、もうなかった。
*
映像は、すぐには公開しなかった。
久我は、公開手順を組んだ。
馬場の個人情報を削る。
映像のメタデータを分離する。
実験日時と装置型番だけ残す。
社内チャットは、発言者名を一部伏せる。
ただし、「報告不要」の文言は残す。
ナツは横で画面を見ていた。
「それを出したら馬場さんが燃える。証拠にも火傷ってあるんだね」
「はい」
「出さないと、企業が逃げる」
「はい」
「出すと、馬場さんが消えるかもしれない」
久我の手が止まった。
消える。
その言葉は、今の事件では軽くない。
白河レナ。
羽村サキ。
帰還できなかった人間たち。
久我は画面を見た。
証拠を出せば勝てる。
それは事実だった。
メイズリンク社に打撃を与えられる。
オーロラゲートの言い分も崩せる。
天城の美談に傷をつけられる。
だが、馬場ケンジは潰れる。
社会的に。
職業的に。
場合によっては、それ以上に。
馬場のスマホに出た短い通知が、久我の画面の端にまだ残っている気がした。
今日、帰れる?
久我は、公開用フォルダを閉じた。
ナツが横から見た。
「出さないの?」
「今は出しません」
「勝てるのに?」
「勝てます」
「じゃあ、なんで」
「馬場さんが帰れていないからです」
ナツは黙った。
久我は続けた。
「証拠を出す前に、証人を逃がす必要があります」
「逃がせる?」
「分かりません」
「冷蔵庫、そこは嘘でも逃がせるって言ってよ」
「嘘はログに残りません」
「残らないから言えるんだよ」
ナツは軽く笑った。
すぐに笑いを消した。
「久我さん」
「はい」
「馬場さんは証拠じゃないよ」
久我は、しばらく返事をしなかった。
「分かっています」
「ならいい」
分かっている。
だが、分かっていることと守れることは違う。
久我は映像ファイルを閉じた。
今は出さない。
出すなら、企業が否定した瞬間。
逃げ道を一番狭くできる時。
そのためには、待つ必要があった。
その夜、馬場から短いメッセージが届いた。
会社から連絡が来ました。
守秘義務違反の疑いで、明日、事情聴取だそうです。
家には帰らない方がいいですか。
久我は、すぐに返信した。
帰らないでください。
指定する場所へ移動してください。
端末は一台だけ残し、他は電源を切ってください。
既読はついた。
返事はなかった。




