第14話 私はこの書類に署名していない
瀬戸内ハルカの事務所は、都心の端にある古いビルの三階だった。
表に看板はない。
郵便受けに、小さく名前が貼ってある。
瀬戸内法医解析室。
ナツは階段を上りながら、小声で言った。
「もっと白くて怖い病院みたいなところ想像してた」
「個人解析室です」
「名前がもう怖い」
「帰りますか」
「帰らない。レナが帰ってないから」
久我は足を止めなかった。
三階の廊下は狭い。
蛍光灯が一本だけ切れかかっている。
壁には古い掲示物。
床には台車の跡。
ドアの前で、久我は呼び鈴を押した。
返事はない。
十秒後、内側から鍵の開く音がした。
ドアを開けたのは、白衣の女性だった。
三十代半ばに見える。
髪は後ろで雑にまとめている。
目元に疲れがある。
化粧は薄い。
美人かどうかを判断する前に、眠っていない人間だと分かった。
「予約は」
声は低かった。
「久我蓮です。白河レナさんの死亡確認書について」
女性の目が、わずかに細くなった。
「帰って」
「署名者欄に、あなたの名前があります」
「帰って、と言った」
ナツが一歩前に出た。
「すみません。私、猫田ナツです。白河レナさんの――」
「知ってる。配信保存の人」
瀬戸内ハルカは、ナツを見た。
「あなたも帰って。燃えてる人間を部屋に入れると、こっちの壁紙まで焦げる」
「言い方」
「事実」
ハルカはドアを閉めようとした。
久我は、紙を一枚だけ差し出した。
死亡確認書のコピー。
署名欄が見えるように。
ハルカの手が止まった。
彼女は紙を受け取らなかった。
視線だけを落とした。
一秒。
二秒。
それだけだった。
「私はこの書類に署名していない」
声は変わらなかった。
驚かない。
怒鳴らない。
紙を一瞥して、短く言っただけだった。
その短さが、廊下の空気を変えた。
ナツが息を止める。
久我は確認した。
「偽造ですか」
「少なくとも、私の署名ではない」
ハルカは紙を受け取った。
今度は近くで見る。
署名欄。
印影。
確認番号。
時刻。
添付データ番号。
眉が、少しだけ動いた。
「入って」
ドアが開いた。
「ただし、録音するなら先に言って。黙ってやったら、その端末ごと冷凍庫に入れる」
ナツが小さく言った。
「冷蔵庫と監察医が組むと、部屋の温度が下がるんだけど」
「録音します」
久我は言った。
「許可します」
ハルカはそう言って、部屋の奥へ歩いた。
*
解析室は狭かった。
机が二つ。
モニターが四枚。
壁一面のファイル棚。
小型の解析装置。
部屋の隅には、未開封の栄養補助食品が箱ごと積まれている。
生活感はない。
疲労感だけがある。
ハルカは椅子に座り、死亡確認書をスキャナに置いた。
「まず、書類は偽造。署名も印影も違う。確認番号の形式も古い」
「古い?」
「二年前までの形式。今は探索者遺体確認の番号体系が変わってる。適当に作った人間ではない。古い本物を知ってる人間が作ってる」
久我はメモを取った。
「添付データは」
「見る」
ハルカは補足資料を開いた。
遺体データ。
白河レナとされる身体情報。
損傷部位。
魔力残留。
装備片。
骨格照合。
再構成状態。
ナツは画面を見て、顔をしかめた。
「これ、見て大丈夫なやつ?」
「大丈夫な見せ方にしてある」
ハルカは言った。
「直接画像じゃない。数値化された遺体データ。人間の形を想像する必要はない」
「でも、遺体なんですよね」
「そう」
ハルカの声は冷たかった。
だが、雑ではなかった。
「だから、雑に見ない」
ナツは黙った。
久我も画面を見た。
そこに白河レナの顔はない。
遺体の写真もない。
あるのは、数値、線、記号、照合率。
それでも、空気は重くなった。
ハルカは指を止めた。
「これは完全な偽物じゃない」
「どういう意味ですか」
「データ自体は実在する。少なくとも、誰かの遺体から取られた情報。ゼロから作った架空データではない」
ナツの声が小さくなる。
「じゃあ、誰かの遺体を、レナの遺体ってことにしたってこと?」
「まだ断定しない」
ハルカは言った。
「断定は、書類より重い。間違えたら人を二回殺す」
その言葉だけ、少し温度があった。
久我は顔を上げた。
ハルカは画面を見ている。
怒っているようには見えない。
だが、マウスを持つ指に力が入っていた。
「白河レナの過去戦闘記録は?」
「公開分ならあります」
久我は端末を開いた。
白河レナの公式配信ログ。
戦闘時魔力波形。
帰還時の身体再構成記録。
装備同期記録。
ハルカはそれを受け取った。
「公開分だけだと弱い。未公開の医療記録はない?」
「ありません」
「なら、ここで断定はできない」
ナツが瞬きをした。
「できないんですか?」
「できないことを、できると言う仕事じゃない」
ハルカは、別の画面を開いた。
「ただし、白河レナではない可能性を潰していくことはできる」
久我はうなずいた。
「俺が公開戦闘ログを時系列で並べます。ナツさんは公式会見映像と資料画像を切り出してください」
「了解。人間向けに切る」
「私が比較する」
ハルカは短く言った。
「三人でやる。私一人の名前に乗せるな。署名を偽造された人間の言葉だけで勝てると思わない方がいい」
ナツが、少しだけ笑った。
「味方かどうか分からないけど、信用はできそう」
「信用しないで。確認して」
ハルカはモニターへ向き直った。




