7 マリーナ・ディラクール――母――知らなかった
リルが下がった後も、わたくしはしばらくそのまま座っていました。
紅茶はもう冷めています。カップの縁に唇をつけても、香りより渋みの方が先に来る。それでも、何か手にしていないと落ち着きませんでした。
アガサのことを考えなくてはならない。
そう思うのに、考えはすぐ別のところへ行きます。メリアへ知らせる文面。ロイズ子爵家への伝え方。親戚筋への説明。マダラール家との今後。使用人達の口。出入り商人の目。
その中に、リルのことも入っていました。
あの娘をここに置くべきか。出すべきか。
アガサが戻った時、リルがいなければ悲しむでしょう。けれどリルがここにいる間、屋敷の者達の目はあの娘を追います。あの子が廊下を歩くたび、誰かが黙る。台所へ入るたび、話が止まる。本人が気付かないはずもありません。
そして、アガサが戻った時。
――お嬢様のせいで、自分は辛い思いをした。
あの子は、そう考えるかもしれない。
そこでまた、わたくしは先のことを考えていました。
いつもそうです。
今、目の前にいる者より、その後どうなるかを考える。そうしなければならない立場だと思ってきました。奥向きを預かる者として、母として、伯爵家の夫人として。
けれど、アガサはそれでどこまで苦しくなったのでしょう。
考えかけた時、扉がまた叩かれました。
「奥様、リルでございます」
戻ってきたのです。
わたくしは少し目を閉じ、それから入るように言いました。
リルは先ほどと同じように頭を下げました。けれど、今度は部屋の入り口で止まらず、二歩ほど中へ入ってきました。
「先ほどのお話でございますが」
「今は受けられないと言いました」
「はい。ですが、もう一度だけ、お願い申し上げます」
「もう一度だけで済むのですか」
自分でも少し意地の悪い言い方だと思いました。
リルは頭を下げたまま、少しだけ間を置きました。
「済まないかもしれません」
わたくしは思わず彼女を見ました。
いつものリルなら、そこで「申し訳ございません」と小さくなるはずです。アガサの側にいる時はよく笑う娘でしたが、わたくし達の前では控えめで、決して強く出ることはありませんでした。
それが今、済まないかもしれない、と言いました。
「リル」
「はい」
「あなたは、何故そこまで辞めたいのです」
「ここにいては、奥様にも旦那様にもご迷惑をおかけします」
「それは先ほど聞きました」
「はい」
「それだけではないのでしょう」
リルはすぐには答えませんでした。
わたくしはカップをソーサーへ戻しました。小さな音がしました。
「何か知っているのなら、言いなさい」
「わたしは、お嬢様がどちらへ行かれたのかは存じません」
その返事は早かった。早すぎる、と一瞬思いました。
けれど、知っているのかと問い詰めるだけの材料はありません。
リルが何かを隠しているように見えるのは、わたくしがそう疑いたいからかもしれません。責める相手がいれば、少しは気が楽になるから。
「では、何故」
「お嬢様のお側におりましたのに、わたしはお嬢様の苦しさに気付けませんでした」
「それは、あなた一人が背負うことではありません」
「いいえ」
リルは初めて、はっきりそう言いました。
「わたしは、お嬢様に一番近いところにおりました」
その言葉に、わたくしはすぐ返せませんでした。
リルは続けます。
「旦那様や奥様がお忙しい時も、お嬢様が夜に眠れない時も、お手紙を何度も書き直していらっしゃる時も、わたしはお側におりました。お嬢様が何もおっしゃらないなら、わたしが気付かなくてはなりませんでした」
「何度も書き直していたのですか」
思わず尋ねると、リルは唇を閉じました。
そこで、余計なことを言ったと思ったのでしょう。
「誰への手紙です」
「色々でございます」
「色々」
「お相手様へ。お姉様へ。ご学友へ。それから……」
「それから?」
「昔から文通をしていらした方へ」
――フライト卿のことだろうか?
そう思いました。アガサとフライト卿が手紙を交わしていたことは知っています。ハリヤーも知っていました。隣国の事情を知るよい機会だと考えていたはずです。
わたくしも、止めませんでした。
アガサには、気楽に話せる相手が少ない。フライト卿はハリヤーの友人で、年は離れていても、あの子を子供の頃から知っている。兄のようなものだと、わたくし達は思っていました。
兄のようなもの。
今、その言葉は少し頼りなく聞こえます。
「リル」
「はい」
「あなたは、アガサがフライト卿に何を書いていたか知っているの」
「お嬢様のお手紙を、わたしが読むことはございません」
「そう」
「ですが、お嬢様は、フライト様からのお返事が来る日は少しお元気でした」
わたくしは黙りました。そのようなことも、知らなかった。
いいえ、見ていたのかもしれません。けれど、わたくしはそれを「異国の話が楽しいのだろう」くらいにしか考えなかったのでしょう。
「それで、あなたが辞めることと何の関係があるの」
「ここにおりますと、皆様はわたしにお尋ねになります」
「当然です」
「わたしは答えられることを答えます。ですが、答えるたび、お嬢様のお部屋のこと、お嬢様の癖、お嬢様が何をお好きだったか、何にお疲れだったか、そのようなことまで少しずつ外へ出ていく気がいたします」
リルは言葉を選んでいました。
丁寧に、ゆっくりと。
「それは、お嬢様がお戻りになった時、とてもお辛いことになると思います」
――アガサが戻った時。
リルも、その言い方をしました。
戻ると信じているのか。そう信じているふりをしているのか。そこは分かりませんでした。
「わたしがここにいれば、わたしはずっと聞かれます。知っているのではないか、と。隠しているのではないか、と。お嬢様が何を考えていたのか、と」
「あなたは、それが辛いの」
「はい」
リルは認めました。
「辛いです」
その声は小さかったけれど、逃げてはいませんでした。
「お嬢様のお側に戻れないなら、せめてお嬢様のお話をこれ以上、わたしの口からこぼしたくありません」




