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失踪令嬢の恋愛~どうして誰も気付かなかったのか?  作者: さんけい


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8 マリーナ・ディラクール――母――冷めた紅茶

 わたくしはリルを見ていました。


 この娘は、ただ責任に怯えているわけではない。アガサを守ろうとしている。あるいは、自分がそうしていると思っている。

 それなら、なおさら置いておくべきかもしれません。アガサのことを一番知っている娘です。戻った時、必要になるかもしれない。いなくなった経緯を探るにも、あの子の昔からの様子を知る者は貴重です。

 けれど、それをするなら、リルはずっと問い続けられます。

 ハリヤーにも。執事にも。女中頭にも。場合によっては、マダラール家の者にも。

 それは本当に、アガサのためになるのでしょうか。


「行く先はあるの」


 わたくしが尋ねると、リルは一度だけまばたきをしました。


「乳母の知り合いの方が、港町におります」

「港町」

「はい」

「今、港町はよくありません。人の出入りが多すぎるわ」

「承知しております」

「承知していて、そこへ行きたいの」

「ほかに、すぐ頼れるところがございません」


 リルはそう言いました。

 嘘かもしれません。本当かもしれません。

 わたくしには、どちらとも決められませんでした。


「その方の名は」


 リルは少しだけ遅れて答えました。


「ミリア・カースでございます。昔、乳母がこちらへ来る前に、同じ家で働いていた方だと聞いております。今は港町で、下宿屋の手伝いをしていると」


 名前まで出るなら、まったくの作り話ではないのでしょう。少なくとも、調べれば分かる話です。


「女中頭に確認させます」

「はい」

「確認が取れるまでは、屋敷から出しません」

「はい」

「確認が取れたとしても、すぐには出せません。支度が必要です」

「ありがとうございます」

「礼を言うところではありません」


 わたくしは少し強く言いました。


「あなたは、アガサの側にいた娘です。外へ出れば、それだけで噂になります。分かっていますね」

「はい」

「こちらでは、あなたが責任を感じて暇を取ったことにします。屋敷から追い出したわけではない。けれど、しばらく静かなところへ下がった。そう伝えます」

「はい」

「港町へ行くなら、目立つ宿には入らないこと。ディラクール家の名を使わないこと。誰かにアガサのことを聞かれても、答えないこと」

「はい」


 リルは一つ一つ、静かに返事をしました。



 わたくしは言いながら、自分がこの娘を逃がすための手順を整えているような気持ちになりました。


 ――逃がす?


 いえ、違います。リルは罪人ではありません。今のところは。

 あの娘に何か証拠があるわけでもない。疑いだけで閉じ込めておくことはできません。

 それに、アガサが戻った時、リルが屋敷で針のむしろのような思いをしていたと知れば、あの子はきっと苦しむ。

 そう考えると、結局、出す方へ考えが傾いていきます。

 やはり先のことです。

 わたくしは、どこまで行っても先のことばかり考える。


「リル」

「はい」

「本当に辞めるのですね」


 リルは深く頭を下げました。


「はい。奥様。どうか、お暇をくださいませ」


 その言葉は、先ほどよりずっと落ち着いています。わたくしはしばらく返事ができませんでした。

 窓の外では、庭師が低い生け垣を整えています。鋏の音が、かすかに届きました。アガサはこの庭の、白い小さな花が咲く場所を好んでいました。幼い頃、花の名を庭師に尋ねていた姿を思い出します。

 その時も、わたくしは少し離れた窓から見ていました。

 呼びに行けばよかったのでしょうか。

 何をしているの、と声をかけて、一緒に庭へ出ればよかったのでしょうか。

 そんなことを、今さら考えます。


「分かりました」


 わたくしは言いました。

 リルの肩が、ほんの少し下がりました。


「女中頭へ話します。確認が取れ次第、暇を出します。支度金も少し持たせましょう。アガサの側に長く仕えてくれた分です」

「奥様」

「ただし、勝手なことはしないように。港町へ着いたら、一度だけでいいから、無事を知らせる手紙を出しなさい」

「……はい」


 その返事だけ、少し遅れました。わたくしはそれを、泣くのをこらえたためだと思いました。

 リルはもう一度、深く頭を下げます。


「長い間、お世話になりました」

「まだ今日出るわけではありません」

「はい」

「それに、アガサが戻れば」


 言いかけて、言葉が止まりました。


 ――アガサが戻れば、また会える。


 そう言いたかったのです。けれど、リルは顔を上げませんでした。


「お嬢様がお戻りになりましたら」


 リルは頭を下げたまま言いました。


「どうか、お身体をお大事になさるよう、お伝えください」


 おかしな言い方だと思いました。

 戻ったアガサに伝えるなら、リル自身が手紙を書けばいい。あるいは、こちらから居所を知らせればいい。けれどその時のわたくしは、そこまで考える余裕がありませんでした。


「分かりました」


 そう答えると、リルは静かに部屋を出て行きました。

 扉が閉まった後、わたくしはまた一人になりました。


 ――リルの退職。

 ――アガサの失踪。

 ――マダラール家への説明。

 ――メリアへの手紙。

 ――親戚への知らせ。


 一つ片付けたはずなのに、何も片付いた気がしません。

 ただ、これで屋敷の中の視線は少し散るでしょう。リルが責任を取って下がったという形になれば、使用人達もいくらか納得する。外へも、そう説明できる。

 わたくしはそう考えました。

 考えて、すぐに嫌になりました。

 また体面です。また形です。

 それでも、形がなければ人は守れないこともあります。

 そう言い訳をしながら、わたくしは冷めた紅茶をもう一口飲みました。

 渋みだけが残りました。


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