6 マリーナ・ディラクール――母――見えない足元
「奥様」
リルの声で、わたくしは現実に戻りました。
彼女はまだ頭を下げています。
「わたしは、ここにいてもよろしいのでしょうか」
「もちろんです」
わたくしはすぐに答えました。
「アガサが戻った時、あなたがいなかったら、あの子が悲しみます」
リルの指が、エプロンを握りました。
その反応を見て、ああ、と思いました。やはりこの娘はアガサを大切にしている。ならば、すぐ追い出すようなことはできない。
できないけれど、屋敷の中の目はどうするのか。
使用人達への説明。親戚への知らせ。メリアへの手紙。ビリーには大学へ使いを出すとして、キャリーとエルクにはどう伝えるべきでしょう。二人とも屋敷にいます。隠し通せるはずもない。けれど、何も分からないまま不安だけを与えるのもよくない。
そして、外へは何と言うべきか。
――病気療養。
それでどれだけ保つでしょう。
婚約解消の直後です。マダラール家から漏れなくても、あちらの使用人、こちらの使用人、出入りの商人、馬車の御者、誰かの口から必ず話は出ます。アガサが姿を見せなければ、噂は勝手に形を持つ。
誘拐。駆け落ち。自害。そのどれも、考えたくありませんでした。
考えたくないのに、考えは勝手に進みます。
もし誘拐なら、身代金の知らせが来るはず。けれど今のところない。駆け落ちなら相手は誰か。アガサにそのような相手がいたとは聞いていない。自害なら、屋敷の中か外で何か見つかっているはず。今のところそれもない。
では、どこへ。誰と。何のために。
考えるほど、答えは遠くなりました。
リルはまだ、わたくしの返事を待っていました。
「リル」
「はい」
「あなたは、アガサから何か聞いていませんでしたか」
「何か、とは」
「どこかへ行きたいとか、誰かに会いたいとか。もう屋敷にいたくないとか」
リルはゆっくりと顔を上げました。
目は赤い。けれど、その奥に何か硬いものがあるように見えました。
「お嬢様は、いつも奥様や旦那様のお決めになったことを、きちんとお聞きになっていました」
「ええ」
「ですから、そのようなことをわたしから申し上げるのは」
「聞いていないのね」
わたくしが重ねると、リルはまた頭を下げました。
「申し訳ございません」
聞いていない。そういうことなのでしょう。
あるいは、聞いていても言えないのかもしれません。けれど今のわたくしには、それを問い詰める力がありませんでした。問い詰めたところで、この娘が本当に何かを知っているのかどうかも分からない。
それに、リルを責めれば、アガサが戻った時にどうなるでしょう。
また先のことを考えている。
そう気付いて、わたくしはカップに手を伸ばしました。紅茶はすっかり冷めていました。香りも弱く、口に含んでも、ただ渋みだけが残る。
「今日は下がりなさい」
わたくしは言いました。
「部屋で休んで。外へは出ないように」
「はい」
「辞める話は、今は受けられません。アガサが戻ってから、改めて話しましょう」
――戻ってから。
自分で言って、その言葉に縋りたくなりました。
アガサは戻る。戻ってくる。
そして、少し困った顔で謝るのでしょう。心配をかけて申し訳ありません、と言うのでしょう。そうしたら、叱らなくてはならない。いいえ、まず抱きしめるべきでしょうか。けれど、抱きしめたらあの子は困るかもしれない。いつからでしょう。アガサを何のためらいもなく抱きしめた記憶が、すぐには思い出せません。
リルは一礼して、部屋を出て行きました。
扉が閉まり、わたくしは一人になりました。
一人になると、考えなくてはならないことがますます増えました。メリアへはどの言葉で知らせるべきか。ロイズ子爵家にどこまで伝えるか。親戚筋へ先に知らせるべきか、それともハリヤーの判断を待つべきか。アガサの名誉を守るためには、病とするのがよいのか。だが医師を呼べば、医師の口もある。
この国で、令嬢の評判は織物のようなものです。
ほつれは一つでも、放っておけば広がってしまう。
だから早く押さえなければならない。
早く。早く。
そう思いながら、わたくしはふと、昨日から何度も考えていることに戻りました。
アガサは、最後に何を思ったのでしょう。
――婚約解消を告げられて。
――部屋に下がって。
――食事を部屋へ運ばせて。
――わたくし達に何も言わず。
どんな顔で、この屋敷を出たのでしょう?
そこまで考えて、わたくしはようやく気付きました。
わたくしは娘の行方より先に、戻った後の評判を考えている。
それは母として正しいのかもしれません。正しくないのかもしれません。分かりません。分からないから、また先のことへ逃げる。
――今日何をすべきか。
――誰に知らせるか。
――どの噂を防ぐか。
――どの道を残すか。
わたくしはそのようにして、ずっとあの子の道を考えてきたのです。
けれど、その道の上を歩くアガサの足元を、わたくしはどれほど見ていたのでしょう。
冷めた紅茶のカップを、ソーサーに戻しました。
小さな音がしました。
その音でさえ、今は大きく聞こえました。




