5 マリーナ・ディラクール――母――先のことばかり考えていた
リルが屋敷を辞めたいと言い出したのは、アガサが姿を消した翌日の午後だった。
わたくしは最初、その言葉の意味が分かりませんでした。
――辞めたい。このような時に。
アガサの行方も分からず、屋敷の者達は落ち着かず、外へ出した使いの返事もまだ揃っていない。
マダラール家からは、ディオ様とマダラール様がいらして、ハリヤーと長く話をしていった。けれど、それで何かが分かったわけではありません。
アガサは戻っていない。
それだけが、昨日から今日まで変わらない事実でした。
「辞めたいとは、どういうことなの」
わたくしが尋ねると、リルは応接室の入り口近くで深く頭を下げました。
いつもアガサの側にいた娘です。乳母の忘れ形見のようなもので、実のところ、ただのメイドとは少し違っていた。
アガサが幼い頃から、あの子はリルと一緒にいた。姉妹ではない。友人とも違う。けれど、アガサの部屋にリルがいることを、わたくし達はあまりにも当たり前に思っていました。
「申し訳ございません、奥様。わたしは、お嬢様のお側におりましたのに、お嬢様のお姿が見えなくなったことにも気付きませんでした」
「それは、今調べているところです。あなた一人の責任ではありません」
「ですが」
リルは顔を上げません。
「屋敷の皆様に、これ以上ご迷惑をおかけすることはできません」
その言い方に、わたくしは疲れを感じました。
――迷惑。
今、迷惑という言葉を使うべきなのか。
いえ、リルの立場ならそう言うしかないのでしょう。アガサ付きのメイドが、アガサを見失った。屋敷の者達の目も、自然とこの娘へ向いている。誰も正面から責めてはいない。けれど、責めていないことと、責める気持ちがないことは違います。
それは分かっています。
分かっているからこそ、わたくしは《《困りました》》。
「今あなたに出て行かれては、かえって妙な噂になります」
口にしてから、少し冷たかったかもしれないと思いました。
けれど、それも事実です。
アガサが失踪した。側付きのメイドがすぐに屋敷を出た。
そんな話が外へ漏れれば、どう受け取られるか分かりません。リルが手引きしたのではないか。アガサがメイドを連れて逃げたのではないか。あるいは、メイドが何かを知っていたのではないか。
考えれば考えるほど、避けたい方向へ話が流れていく。
「しばらくは、屋敷にいなさい」
わたくしは言いました。
「アガサのことがはっきりするまでは」
「奥様」
「あなたを罰したいわけではありません。ただ、今外へ出るのはよくありません。あなたのためにも、アガサのためにも」
リルの肩が、少し揺れ、泣いているのかと思いました。
わたくしはそれを見て、胸が痛みました。リルまでこうして追い詰められている。アガサがいなくなったことで、屋敷の中の若い娘達まで不安になっている。これ以上広がれば、使用人の家族にも話が伝わるでしょう。商会の出入りの者にも、取引先にも。
アガサの名誉を守らなくては。まずそれを考えました。
――娘の名誉。
未婚の令嬢が、婚約解消の直後に姿を消した。
どう言い繕っても、良い話にはなりません。たとえ無事に戻ってきたとしても、どこで何をしていたのか、誰といたのか、必ず問われる。問われなくても、考えられる。
その時、次の縁談はどうなるのでしょう。
いえ、今は縁談どころではありません。無事かどうかが先です。
けれど、無事だったとして、その後がある。人は生きていれば、その後の中で暮らさなくてはならない。今日だけを見て動けば、明日傷つくこともあります。
だから、わたくしはいつも先を見てきました。アガサがまだ幼い頃から。
伯爵家の次女として、あの子には相応の縁が必要でした。
上のメリアは早くから気質がはっきりしていた。人付き合いも上手く、相手の家へ入っていく強さもあった。けれどアガサは、もう少し内に入る子でした。何かを言われれば、まず受け止める。自分の希望を先に出すより、相手の言葉を聞く。
だからこそ、早めに道を整えてやらなくてはならないと思ったのです。
早めに良い相手を考え、ゆっくり慣れさせる。情勢が変われば、その都度もっとよい道を探す。商家に近い貴族の家では、結婚もまた家の将来に関わります。感情だけで決められるものではありません。
もちろん、感情を無視したつもりはありませんでした。
最初の候補の方と会わせた時、アガサはまだ十四でした。お相手は少し年上で、穏やかな方だった。アガサも嫌がっているようには見えませんでした。むしろ、真面目に話を聞いて、相手の趣味の本まで読もうとしていた。
あの時、わたくしは安心したのです。
この子は、ちゃんと自分の立場を分かっている。
けれど、その話は先方の事情で消えました。
次の方は、家の利害としては良かったけれど、本人同士がどうにも合わなかった。アガサは何も言いませんでしたが、会った後は疲れた顔をしていたので、ハリヤーに相談して話を進めないことにした。
その次は、少し長く続きました。
あれは、アガサもそれなりに馴染んでいたと思います。いえ、そう見えました。お相手の手紙が来ると、自分の部屋で返事を書いていた。庭の花の話、読んだ本の話、港で見た異国の荷の話。わたくしは、そのうち自然にまとまるだろうと思っていた。
けれど、その家は急に領地の事情が変わりました。婚姻で得るべき繋がりが、こちらの望む形ではなくなった。ハリヤーは長く考え、わたくしも同意しました。
まだ間に合う、と。
アガサなら分かってくれる、と。
実際、アガサは分かってくれました。分かりました、と言ったのです。
その後、少し部屋にこもる日が続いたけれど、若い娘ならそういうこともあります。わたくしは、そっとしておく方が良いと思いました。母親があれこれ言えば、かえって惨めになることもあります。
……今思えば、その「そっとしておく」を、わたくしは何度使ったのでしょう。




