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失踪令嬢の恋愛~どうして誰も気付かなかったのか?  作者: さんけい


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幕間1 港町行き列車の二等車室

 列車は海へ向かっていた。


 二等車室の窓の外を、低い丘と畑が流れていく。

 朝から晴れていた空は、昼を過ぎて少し白くかすんできた。

 遠くに鳥の群れが見える。川沿いの倉庫街を越えれば、港まではもう長くない。

 窓際に座った若い女性は、外を眺めていた。

 帽子のつばは深く下ろしている。髪は簡単にまとめられ、旅用の上着も地味なものだった。

 向かいの席には、少し年上の男が座っている。

 こちらも装いも地味だった。上着の仕立ては良いが、目立つ飾りはない。彼が誰であるかを示す紋章入りの指輪も外している。膝の上には旅行鞄があり、その上に外套を掛けていた。すぐに手を伸ばせる位置に置いているのは、癖なのか用心なのか。


「そろそろ気付いた頃じゃないか」


 男が言った。


「そうでしょうね」


 女性は窓の外から目を戻さずに答えた。


「怖いかい」

「少し」


 短い返事だった。

 男はそれ以上すぐには続けなかった。

 車輪の音が、二人の間に規則正しく入る。隣の車室から、子供の笑い声が聞こえた。母親らしい声が、それをたしなめる。向こうでは、ごく普通の旅行が続いている。


「戻るなら」


 男が言いかける。女性は今度は彼を見た。


「その話は、もう三度目です」

「三度目でも、言うべきことだ」

「では、三度目のお返事をします」


 女性は帽子の影から、まっすぐに彼を見た。


「戻りません」


 男は苦笑した。


「君は、昔からそういうところだけは変わらないな」

「そういうところ、とは」

「一度決めると、妙に頑固になる」

「小さい頃は、聞き分けがいいと褒められました」

「それは周りが見たいように見ていただけだろう」


 女性は少し黙り、ふっと息を吐く。


「貴方まで、そうおっしゃるのですね」

「私も長いこと見間違えていた」


 男の声は静かだった。


「いや、見間違えたというより、都合よく見ていたのかもしれない。君は賢い。話を聞く。相手の都合を考える。だから、つい安心してしまう」

「それは、父も母も同じです」

「私も同じだった」


 男はそう言って、旅行鞄の上の外套を少し直した。


「君が何かを嫌だと言わなかったから、嫌ではないのだと思っていた。手紙に愚痴が書いてあっても、書くことで少し楽になるならそれでいいと考えた。会えば元気そうに見えた。だから、大丈夫なのだと」

「わたくし、元気そうでしたか」

「そう見えた」


 女性は小さく笑った。


「皆、そうなのですね」

「怒っていい」

「今ですか」

「今でもいい」

「列車の中で?」

「車輪の音が大きい。少しくらいなら聞こえない」


 女性はその言い方に、今度は本当に笑う。

 だが笑いはすぐに消えた。彼女は膝の上で、右手の指先を左手で包んだ。


「……怒るより、疲れてしまいました」

「うん」

「一人目の方とは、うまくやろうと思いました。二人目の方とも。三人目の方とは、少しだけ楽しいと思ったこともあります。でも、その時にはもう別のお話になっていました。どの方も、わたくしが選んだわけではありません。けれど、選ばれたなら、その方を好きになろうとしました」


 男は黙って聞いていた。


「好きになれない時は、わたくしが足りないのだと思いました。好きになれそうな時は、そう思ってはいけないのだと知りました。どうせ、家の都合で変わるかもしれないから」


 窓の外で、畑が切れた。

 小さな駅を通り過ぎる。停車しない駅だった。ホームに立っていた老女が、走る列車を見上げている。その姿も、すぐ後ろへ流れた。


「最後の方は」


 男がゆっくり尋ねた。


「好きになろうとしたのかい」

「努力はしました」

「それは答えになっていない」

「では、いいえ」


 女性は言った。


「嫌いでした」


 その言葉は、声を荒げたものではなかった。けれど、男はそこで初めて少しだけ目を伏せた。


「そうか」

「はい。嫌いでした。悪い方ではありませんでした。でも、一緒にいると、わたくしの輪郭がだんだん薄くなる気がしました。あの方の話すことに相槌を打って、笑って、困って、また笑って―― ……きっと結婚してもそうするのだと思いました」

「それで、向こうから白紙に戻そうと」

「はい」

「傷ついた?」


 女性はすぐに答えない。列車が小さく揺れた。棚の上の荷物が、かた、と鳴る。


「傷ついたというより、もう何も残らない気がしました」


 彼女は言った。


「またか、と思いました。今度も、わたくしは誰かに合わせようとして、うまくできなくて、最後には向こうから要らないと言われるのだと。いえ、あの方はそんな言い方をなさいませんでした。けれど、わたくしにはそう聞こえました」

「君は要らない人ではない」


 男の声が、少し強くなる。女性は彼を見た。


「貴方は、ずっとそう言ってくださいましたね」

「足りなかった」

「いいえ」

「いや、あれだけじゃ足りなかったんだ。手紙に返事を書くことと、君をそこから出すことは違う」

「では今、出してくださっています」

「遅い」

「遅くても、来てくださいました」


 女性はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。


「本当は、貴方から来てくださったわけでもありませんね。わたくしが頼みました」

「頼まれる前から考えていた」

「いつから」


 男は困ったように口元を歪めた。


「それを言うと、私はかなり情けない男になる」

「今さらです」

「手厳しいな」

「三度も戻るかと聞くからです」


 男は小さく笑った。

 それから、車室の扉の方を一度確かめた。廊下を通る者はいない。検札も、少し前に済んでいる。


「君が二十歳になって、久しぶりに会った時だ」


 女性は動かず、ただ、彼の言葉を待った。


「君が階段を降りてきた。淡い緑のドレスだった。私は、君を見てすぐに目を逸らした。これはまずいと思った」

「まずい」

「……友人の娘に、そういう目を向けた自分がだ」


 女性の頬に、薄く色が差した。


「それからわたくしを、避けていらしたのですか」

「できる範囲では」

「ひどい」

「そうだ」

「わたくし、何かお気に障ることをしたのかと思いました」

「だから、私は自分が情けない男だと」


 女性は窓の外へ顔を向ける。だがもう外を見てはいなかった。窓ガラスに映った自分の顔を見ているのか、向かいの男の姿を見ているのか、本人にも分からなかったかもしれない。


「わたくしは」


 彼女は言った。


「ずっと、貴方にだけは本当のことを言えました」

「うん」

「でも、それは子供の頃からの癖なのだと思っていました。貴方は父の友人で、わたくしの兄のような方で、だから安心できるのだと」

「うん」

「けれど、貴方が避けるようになってから、手紙を書く時に言葉を選ぶようになりました。前なら書けたことが書けなくなりました。お会いする前に、服を何度も選び直すようになりました」


 男は黙っていた。


「それでも、わたくしは分かりませんでした。分かるのが怖かったのかもしれません」

「アガ……」


 男は言いかけて、名を飲み込む。女性はその小さなためらいに気付いた。少し目を細める。


「ここでは、名前を呼ばない約束です」

「そうだった」

「でも」


 彼女は手袋の指先を少し握った。


「今だけは、呼んでほしいです」


 男はしばらく彼女を見ていた。

 列車の音が続く。窓の外に、今度は広い水路が見えてきた。港に近い町の、荷を運ぶための水路だった。風の匂いが、少し変わった。


「アガサ」


 男が呼ぶ。女性は目を閉じた。


「はい」

「まだ戻れる」

「四度目です」

「これで最後だ」

「では、最後のお返事です」


 彼女は目を開けた。


「戻りません。フライト様」


 名を呼ばれた男は、短く息を吐く。それは諦めにも、安堵にも似ていた。


「分かった」

「やっとですか」

「やっとだ」


 彼は少し身を乗り出し、手袋越しに彼女の手に触れた。ほんの短い間、指先が重なる。


「港に着いたら、予定通りに動く。宿には入らない。桟橋近くの茶店で待つ。彼女が来たら、そのまま船へ向かう」

「リルは大丈夫でしょうか」

「あの娘は、君より肝が据わっているかもしれない」

「そうです」


 アガサは少し誇らしそうに言った。


「リルは昔から、わたくしよりずっと強いのです」

「それは心強い」

「責められて、ちゃんと泣けるか心配していました」

「そこかい」

「リルは、怒る方が得意なので」


 フライトは声を立てずに笑った。

 その笑いに、アガサの肩から少し力が抜ける。

 列車は速度を落とし始めた。水路の向こうに、帆柱がいくつも見える。港町の屋根は、内陸の町より低く、色も明るい。どこかで汽笛が鳴った。

 アガサは窓に手を添えた。


「海です」

「まだ港の内側だ」

「それでも、海です」


 フライトは立ち上がる準備をしながら、彼女を見る。

 帽子の影の下で、アガサは笑っていた。大きな笑顔ではないがも屋敷の客間で見たどの微笑みとも違っていた。

 彼はその顔を見て、もう一度だけ、自分の判断が遅すぎたことを思った。

 だが列車は止まる。

 ここからは、遅れた分を取り戻すしかない。


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