4 マダラール氏――元婚約者の父――お前に瑕疵があったのではないか
息子から一通り話を聞き終えた時、私はまず、怒鳴らずに済んだ自分を褒めてやりたくなった。
ディオは悪い息子ではない。むしろ、若い男としては相当にましな部類だろう。
仕事も覚える。人付き合いも悪くない。新しいものへの反応も早い。
身なりや遊びに金を使いすぎるところはあるが、家を傾けるほどではない。何より、下の者に対して横柄になりすぎない。
だからこそ困る。
自分はまともだ、相手のことも考えている、と本気で信じたまま、大事なところで手順を飛ばす。
「もう一度聞く」
私は息子の部屋の椅子に腰を下ろしたまま、彼を見た。
「お前は、ディラクール伯爵にも、私にも話を通す前に、アガサ嬢へ婚約を白紙に戻したいと告げたのだな」
「はい」
「しかも庭で」
「庭園です。人目は避けました」
「そういう話ではない」
ディオは口を閉じた。
分かっていないわけではないのだろう。ただ、自分が何を間違えたのかを、まだ正確には掴めていない。若い頃の私にも、似たようなところがあった。だから腹が立つ。
「お前はアガサ嬢を、どのような方だと思っていた」
「穏やかな方です」
「それだけか」
「控えめで、礼儀正しくて、こちらの話をよく聞いてくださる方です」
「妻として不足があるか」
「ありません」
「マダラール家の跡取りの妻としては」
「……不足は、ありません」
そこで言葉を詰まらせるあたり、この息子はやはり正直ではある。
私は指先で肘掛けを二度叩いた。
――アガサ・ディラクール嬢。
私から見れば、あの令嬢は良い相手だった。
派手ではない。夜会で人目をさらう種類の娘でもない。
だが、家を回す男の隣に立つには、あの落ち着きは強みになる。出しゃばらず、話を聞き、場の温度を見る。商談の席に出る夫人としても、親族の集まりを束ねる女主人としても、悪くない。
何より、ディラクール家との繋がりは大きい。
この国で流通を押さえる家の一つだ。港、倉庫、陸路の中継、商会同士の紹介。その全てに、あの家は細い糸を何本も伸ばしている。目に見える資産だけを見ている者には分からないが、信用の糸というものは、帳簿の数字より重い時がある。
その家の令嬢が、我が家へ入る。悪い話であるはずがなかった。
それでも私は、息子に無理強いするつもりはなかった。
合わない、と言うなら話し合えばよい。だが話し合う順番がある。言葉を置く場所がある。家同士の話は、本人の気持ちだけで進めても壊れるし、本人の気持ちを外しても壊れる。
その両方を見るために、親がいるのだから。
「お前は、自分の言ったことが誠実だと思っているな」
ディオは少し顔を上げた。
「はい」
「それは否定しない。お前なりに考えたのだろう。結婚後に互いが苦しむより、今立ち止まる方がよい。そう思ったのだな」
「はい」
「しかし、相手の立場から見ればどうなる」
「アガサ嬢の立場、ですか」
「そうだ」
私は深く息を吸った。
「婚約者である男から、庭園で突然、白紙に戻したいと言われる。しかも、理由は『このまま結婚してよいのか分からない』。アガサ嬢は、お前から何を受け取ったと思う」
「俺は、彼女に非があるようにはしないと伝えました」
「言葉で伝えただけだ」
ディオは黙った。
「お前がそう言えば、世間も同じように聞くと思うか。ディラクール家の使用人は。アガサ嬢のきょうだいは。次に縁談を持ち込む家は。皆、お前の言葉通り、あの令嬢に問題がなかったと受け取ると思うか」
「それは」
「思わない。必ず、何かあったのではないかと見る」
私は息子を見据えた。
「女の瑕疵は、男のそれより長く残る」
これは気持ちの良い言葉ではない。だが、この社会で家を構える者なら、知らないふりはできない。
「だからこそ、こちらから婚約を止めたい時には、慎重にする。相手の家と相談し、理由を整え、噂が妙な方向へ行かないよう手を打つ。必要なら、こちらに都合ができたことにする。お前が嫌われ役を引き受けることもある。だが、お前はそれをしなかった」
「……俺は、アガサ嬢に嘘をつきたくありませんでした」
「嘘をつかぬことと、相手を守ることは同じではない」
ディオの顔に、ようやく何かが落ちたようだった。私は少しだけ声を落とす。
「アガサ嬢は、何か言っていたか」
「……怒った方がよろしいですか、と」
「何だと?」
聞き返した声が、思ったより低くなる。ディオは気まずそうに目を伏せた。
「俺が、怒っていませんか、と尋ねたら、怒ることではないでしょう、と。それで俺が、怒ってもいい話だと思うと言ったら…… そう返されました」
目を閉じると、アガサ嬢の顔が浮かんだ。
何度か我が家にも来た。茶会、夕食会、商会関係の小さな集まり。アガサ嬢はいつも控えめに座り、必要な時だけ言葉を挟んだ。
マダラール夫人の話にも、使用人の案内にも、きちんと礼を言う。誰かが話題を向ければ、短すぎず長すぎず返す。
私は、それをよい娘だと思った。
だが今、息子の話を聞いていると、その「よい娘」が違うものに見えてくる。
――何を言えばよいか分からず、相手の求める形を探していた娘。
だとしたら。
いや、私はアガサ嬢をよく知っているわけではない。数度会い、家柄と評判を見て、息子の妻として考えただけだ。分かったように語るほどの距離ではない。
それでも、失踪という言葉がつくと、過去の印象は全て違う色を帯びる。
「ディオ」
「はい」
「お前に瑕疵があったのではないか?」
息子は顔を上げた。
「父上」
「責めるために言っているのではない。可能性を確認している。お前が無自覚に、あの令嬢を追い詰めたのではないか」
「俺は」
「分かっている。お前はそのつもりではなかった」
私はそこで一度言葉を切った。
そのつもりではなかった、とは便利な言葉だ。これで許されるなら、商売も婚姻も裁きもいらない。
「しかし、つもりだけで物事は片付かない。相手がどう受け取ったか。周囲がどう動いたか。その先に何が起きたか。そこまで含めて、お前の言葉だ」
ディオは黙ったまま立ちつくす。
「ディラクール伯爵は、お前から直接聞きたいと言っている。聞かれたことには正直に答えろ。余計な飾りはつけるな。自分を正当化するな。アガサ嬢の様子を、勝手に穏やかだったなどと決めつけるな」
「……穏やかに見えたのは、本当です」
「なら、そう言え。穏やかだった、では足りない。穏やかに見えた、と言え」
ディオは目を伏せたまま、はい、と答えた。
私は立ち上がった。
窓の外は、朝からよく晴れている。こんな日に、他家の失踪騒ぎに呼ばれるとは、誰が想像しただろう。
廊下に出ると、妻が待っていた。心配そうな顔でこちらを見る。
「アガサ様は、本当に」
「まだ何も分からん」
「ディオは」
「自分のしたことの形が、少し見えてきたところだろう」
妻は唇に手を当てた。
「あの方、とても静かな方でしたものね」
「静かな方だから、傷ついていないということにはならん」
言ってから、自分でも少し驚いた。
私はいつも、静かな人間を扱いやすいと見がちだった。声を荒げる者、すぐ不満を口にする者、何かと条件をつける者に比べれば、話は早い。商談でも親族付き合いでも、それは確かに楽だった。
だが楽であることと、無事であることは違う。
……この家の中でも、私は同じ間違いをしていないだろうか?
ふとそんな考えが浮かんだが、今はそこに踏み込む時間がない。
「馬車を出させろ」
私は使用人へ告げた。
「ディラクール家へ向かう」
ディオが部屋から出てきた。
いつもより顔色が悪い。だがそれでよい。今朝くらいは青ざめている顔を見せた方がいい。自分の言葉で誰かが傷ついた可能性がある時、平然としていられる男に家は任せられない。
「父上」
「何だ」
「俺は、ディラクール伯爵に謝るべきでしょうか」
「まず話せ」
「その後は」
「謝る必要があると分かったら、謝れ。先に謝って自分を楽にするな」
ディオは小さくうなずく。その返事だけは、少し大人びて見えた。
私達は馬車へ向かった。
アガサ嬢の姿は、まだどこにもない。手がかりも少ない。だが一つだけ、私はもう確信していた。
この件は、単なる家出として片付けてはならない。
もしあの令嬢が自ら屋敷を出たのなら、そこには彼女を出て行かせるだけの何かがあった。誰か一人の言葉かもしれない。いくつもの出来事が重なったのかもしれない。
そして、その一つに我が息子の言葉が含まれているなら。
マダラール家は、知らぬ顔で済ませることはできない。




